第36話 弓道場――「息」を置く場所
水曜の昼休み。
教室の入り口から、結衣が手を小さく振って入ってきた。
「シエル、ほのか」
「結衣」
ほのかが、ちょっとだけ目を細める。
「結衣ってさ、“頼れる先輩感”あるよね。同級生なのに」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる! 怖いとかじゃないよ」
結衣は肩をすくめて笑ってから、私の方を見る。声を少し落とした。
「……昨日の件。宗一叔父さん、段取りしてくれるって言ってたけど」
「うん。今週中に社伝を読むって」
昨日、居間で社伝を開いたとき。
余白の言葉が、図書室と同じ形で引っかかった。
宗一叔父さんは“止める”んじゃなくて、“次にやること”を決めて切った。
結衣が頷く。
「おじいちゃんの予定も合わせるって言ってた。たぶん、今日か明日、連絡くるんじゃないかな」
「……うん」
ほのかが、弁当の唐揚げを頬張りながら首を傾げた。
「社伝って、なに? 古文書?」
「まあ……神社の歴史や由来、それから伝説なんかの記録的なものかな」
結衣がさらっと言う。
ほのかは「へええ」と興味深そうに目を輝かせるけど、深入りはしない。そこが、好ましかった。
「じゃ、放課後は弓道で“静かで落ち着く場所”を満喫しよ!」
「それ、まだ引きずってる?」
「だって私、弓道場のこと好きな場所って書いたし。自分の書いたこと、回収したいじゃん」
ほのかの言葉に、胸の奥の硬さが少しほどけた。
放課後。
弓道場へ向かう廊下は、空気が変わる。
教室の匂い――チョークやノートと春の風が混ざったものが薄れて、木と畳の匂いが強くなる。
「……ここ、ほんと静かだよね」
ほのかが小声で言う。
「音が柔らかく沈んでいって、すごく心地いい」
私が言うと、ほのかは「それそれ」と嬉しそうに頷いた。
道場の戸を開けると、先輩たちが数人、落ち着いた動作で準備していた。
「失礼します。お疲れさまです」
私たちが声を揃えると、振り返った上級生がにこっと笑う。
「お疲れさま。天宮さんと、相田さんだよね」
以前にも教えてくれた先輩――宮坂先輩。
道場の空気に似て、声が柔らかい。
「今日はゴム弓からね。昨日の疲れとかあるなら、無理しなくていいから」
「大丈夫です」
そう答えたけれど、“無理”の基準が自分で分かりづらいのが、最近の私だ。
黒を保つこと、息を置くこと、余白に飲まれないこと。
全部、見えないところで力を使っている。
ゴム弓を握って、引く。
弦の代わりのゴムが、静かに伸びる。
引いて、止めて――
ふっと、視界の端が妙に“四角く”見えた。
(……え)
矢道の奥。
的が、的じゃなくて――薄い光の窓みたいに見える。
意味の分からない文字の列が、遠いところで並んだ気がした。
心臓が一拍、ずれる。
でも。
(息を)
吸って、吐いて……
次に吸い込むまでの短い間に、意識を置く。
すると、四角い窓は“ただの的”に戻った。
文字列も、気配も、全てが消える。
私は、何事もなかったふりをして、もう一度引いた。
「……シエル?」
横で、ほのかが小声で呼ぶ。
目は真剣なのに、どこか心配そうだ。
「大丈夫。ちょっと、集中してただけ」
「ならいい。私、今、変な顔してない?」
「してない。いつも通り」
「よし。じゃあ私は、今日こそ矢を真っ直ぐ飛ばす!」
「ゴム弓だけど……」
「気持ちが大事なの!」
ほのかの強引さが、迷いを切りとばしてくれる。
練習が一段落したころ、宮坂先輩が水分補給をすすめながら言った。
「二人とも、続けるなら活動は週二。無理なくね。普段は、火・木だけど、今は見学と仮入部期間だから、放課後は誰かしら道場にいるけどね」
「はい」
私は頷いた。
ここなら、続けられる形で静かに積むことを、許される気がした。
道場の静けさは、怖い静けさじゃない。
“息を置ける静けさ”だ。
帰り支度をして外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
校舎の影が長く伸びている。
そのタイミングで、スマホが震えた。
宗一叔父さんからのメッセージだった。
『明日の放課後。祠の前で社伝を確認する。武臣さんも立ち会う。来られるか』
短い文。
でも、“段取り”がきちんと書いてある。
私は画面を見つめて、息を吸った。
『……行ける?』
結衣の声が、隣にいるみたいに頭の中で再生された。
押しつけじゃない、逃げ道を置いてくれる言い方。
私は、親指で返信を打った。
『行けます。無理はしてません』
送信してから、ほのかを見る。
「どうした?」
「……明日、ちょっと用事。神社の」
「おお。結衣案件?」
「結衣も、たぶん一緒」
「なら安心。……てか、神社って、鳴瀬神社?」
「うん」
ほのかは「いいなー」と軽く言ってから、すぐに手を振った。
「また弓道一緒にいこ。じゃ、今日はありがと」
「こちらこそ」
普通の約束の言葉が、今日は少しだけ重みを持って聞こえた。
“普通”の中に、ちゃんと戻ってこられる感じがする――
夜。
ベッドに横になって、天井を見上げる。
体は疲れているのに、頭は妙に冴えていた。
四角い窓。
意味の分からない文字の列。
“警告”みたいな気配。
でも、今日は昨日より怖くはない。
息を吸って、吐く。
次に吸うまでの短い“間”に、意識を置く。
弓道場の静けさを思い出す。
あそこは、境目じゃない。
でも、息を置く練習にはなる。
(明日、祠の前で……社伝が読まれる)
社伝の余白が、変化するかもしれない。
しないかもしれない。
どちらでもいい。
“手順”があるなら、私は進めるだけ。
窓の外で、春の風が木を揺らしていた。
その音が、どこか遠い山の方――鳴瀬神社の方へ、細くつながっている気がして……
私は目を閉じた。
明日は、境目に行く。
息を置く場所を、確かめに行く。




