第34話 図書室――境目の本棚
閑話4の投稿を忘れておりました<(_ _)>
本日投稿の第34話とは別に、第18話の後に追加投稿させていただきました。なお、本編とは関係のないお話です。
月曜の朝は、体がまだ少しだけ重い。
週末の神社の片付けやら、夜の出来事やらが頭のどこかに残っていて、起きた直後ぼんやりする。
鏡の前でリボンを結び直す。
黒髪、黒に近いこげ茶の瞳。
(……境目で、息をしろ)
宗一叔父さんの言葉を思い出し、ゆっくり息を吸って、吐く。
吸って、吐いて——次に吸い込むまでの、短い空白に意識を置く。
視界の端のにじみが薄れて、視界が落ち着く。
「黒」を保つ感覚が、体の内側にちゃんと収まった。
「シエルー、準備できた?」
廊下から結衣の声がする。
「うん。今行く」
階段を降りると、結衣は玄関で靴ひもを結びながら、私を一度だけ見上げた。
「顔色、いつも通り。……無理してない?」
「昨日よりは平気。ちゃんと寝たし…」
「ならよし。……でも、辛くなったら言って。お願いね」
その「お願い」が、押しつけじゃなくて、ちゃんと心配なんだと分かる言い方だ。
私は頷いて、二人でドアを開けた。
外は、桜が少し散りはじめていた。花びらが道の端に薄く溜まって、朝の風で小さく舞う。
教室に入ると、いつもの匂いがする。黒板の粉っぽさ、椅子を引く音、楽し気な話し声。
鞄を置いた瞬間、前の席に座る人物が勢いよく振り返った。
「おはよ、シエル!」
「おはよう、ほのか」
呼び捨ては、まだ少しだけ照れる。でも、こうして普通に言えるようになってきた。
ほのかが、少し声を落として言う。
「ねえ、あの“好きな場所紹介文”さ、ちゃんと出した?」
「うん。金曜に提出したよ」
「私も出したんだけどさ」
ほのかは机の端を指でとんとん叩きながら、顔をしかめた。
「引用の書き方、合ってるか自信なくて。提出したあとに不安になるやつ」
「……分かる」
私も、心当たりがないわけじゃない。
ただ私の場合、不安の原因が“引用”だけじゃないのが厄介だった。
「先生、明日から順番に紹介文を読んでもらって、軽く発表するって言ってたでしょ? だからさ、念のため確認しておきたいんだよね。変なところ突っ込まれたら泣くし…」
「……図書室で、出典見直す?」
「それ! 放課後、付き合って! ひとりだと心が折れそう」
「うん。私も行きたかったから」
行きたい理由は、ほのかと少し違う。
“境目”のことが、まだ胸の中で整理できていなかったから……
昼休み。
教室の入り口から、結衣が手を振ってくる。
「シエル、ほのか、おつかれー」
「あっ、結衣」
ほのかが笑顔を向ける。
「ねえ結衣、放課後さ、図書室いっしょに行かない? 紹介文、出した後に不安になってきて」
「分かる。提出した後も怖いよね」
結衣が即答して、それから少しだけ真面目な目になる。
「行くよ。私も調べたいことあるし」
「調べたいこと?」
ほのかが首を傾げる。
「“境界”のこと。道の端とか、村の外れとか、そういうところの話」
結衣は言いながら、私のほうをちらっと見る。
私は目だけで「同じ」と返した。
ほのかは一拍置いて、目を丸くした。
「え、なにそれ。急に漫画っぽい展開」
「漫画じゃないって。昔の人が、神さまを置いたりするじゃん。そういうやつ」
「スピリチュアル系?」
「うん。そんな感じかな」
私が曖昧にまとめると、ほのかは「なるほどね」と卵焼きを口に放り込んだ。
「じゃ、私は引用チェックついでに、もう一冊くらいネタ増やす。明日しゃべる用に」
その軽さが助かる。
普通の話題に混ぜれば、異物も少しだけ扱いやすくなる。
放課後の図書室は、静かだった。
人はいるのに、話し声が自然に小さくなる。ページをめくる音と、椅子のきしみだけが目立つ。
「ここ、落ち着くよね」
結衣が小声で言う。
「うん、確かに…」
「中等部のときから何回も来てるのけどさ。ここ入ると声が小さくなるんだよね。不思議」
結衣の言い方が、いつもより真面目で、ちょっと笑いそうになる。
ほのかはすでに引用の確認を始めて、借りた本を机に並べている。
私は結衣と並んで、「民俗」「信仰」「神道史」みたいな札の並ぶ棚の前で立ち止まる。
「……“塞の神”って、この辺かな」
結衣が背伸びして背表紙を追う。
私も指先で本の背をなぞった。紙の匂いがする。古い本の、乾いたような匂い。
“塞”の字が入った本を見つけて、そっと引き抜く。
ページを開くと、境目に立つ神の話が並んでいた。
——辻、村境、橋のたもと。
——悪いものを通さない。迷いを返す。
——こちら側と、そうでない側の間を整える。
「……迷い返し」
思わず声が漏れた。
「それ、宗一さんが言ってたやつだよね」
結衣が私の肩越しに覗き込む。
ページをめくると、「返し札」という項目が目に入った。
胸の奥が、きゅっと縮む。
——返すための札。
——名を書かず、ただ“戻れ”と働きかける。
——ただし、名のないものには効きにくい。
(……名前が、無い)
あの“名前のない何か”が、頭に浮かぶ。
指先に力が入り、本の端が少しだけ際立った。
そのとき。
ページの余白が、一瞬だけ変になった。
紙が白飛びしたみたいに、そこだけ白すぎる。光ってはいないのに、視線が引っかかる。
よく見ると、文字が浮いている。
インクでも印刷でもない。紙の繊維が押された跡みたいに、凹みだけで形が見える。
『——境目で 息を』
喉の奥が冷たくなる。心臓の鼓動が一拍、ずれた気がした。
「シエル?」
結衣の声が遠い。
私は息を吸って、吐いて——次に吸い込むまでの短い空白へ意識を落とす。
肩の力が抜けて、視界が戻る。
余白は、ただの余白に戻っていた。
「今、変な感じした?」
結衣がさらに声を落とす。
「……うん。でも昨日みたいに引っ張られる感じじゃない。
ただ、いま“書かれた”みたいな……」
「本の余白に?」
私は頷く。
結衣は眉を寄せたまま、でも軽く笑ってごまかすみたいに言った。
「この図書室、さすが… 静かなのに、ちょっと怖いね」
「怖がらせたいわけじゃないけど…」
「うん、わかってる。だから、お願い。無理しないで…
見えたもの、全部ひとりで抱えないで……」
結衣の言い方は、昨日の「結ぶ」に近かった。
切り捨てるんじゃなくて、ほどけないように留める言い方。
「……うん。分かった」
私は返事をして、もう一度本に視線を落とす。
さっきの余白は何事もなかったみたいに、白い。
閉館のチャイムが鳴るころ、ほのかが顔を上げた。
「よし……引用、たぶん大丈夫。出典の書き方も、これで説明できそう」
「明日の発表、乗り切れそう?」
「うん。たぶんね。たぶんだけど…」
ほのかの“たぶん”は信用できる。雑に見えて、意外と準備してくるタイプだ。
私たちは返却台に本を置いて、貸出カウンターへ向かった。
借りたのは、結衣が選んだ民俗学の入門書と、私が見つけた“塞の神”の本。
貸出カードに日付のスタンプが押される。
その小さな四角い枠を見た瞬間、胸の奥がまた、ひゅっとなる。
四角い窓。
意味の分からない文字の列。
“警告”という気配。
——まだ、頭の片隅に残っている。
でも今は、紙の匂いとインクの匂いのほうが強い。
少なくとも、この本の中では、“こちら側の言葉”で境目が語られている。
図書室を出ると、夕方の空が薄い橙で、校舎の影が長く伸びていた。
「ね、シエル」
結衣が前を見たまま言う。
「宗一さんにさ。今度、古い記録とか見せてもらえないか聞いてみない?
“返し札”のこと、もう少しちゃんと知りたいし…」
「……うん。聞きたい」
ほのかは会話に割り込まず、でも楽しそうに言った。
「なんか二人で調べものしてる感じ…、楽しそう。私も一緒していい?
神社はハードル高いけど、図書室なら付き合えるし…」
「もちろん!」
結衣が即答する。私も小さく笑った。
“裏側”は、まだ終わっていない。
名前のないものも、たぶん、どこかにいる。
それでも、普通の学生生活の中で、少しずつ言葉にできるなら…
迷いそうになった時、境目で息を整えればいいのなら……
校門の外へ出たところで、スマホが震えた。由奈からの短いメッセージ。
『明日、片付けの確認あるんだけど、来れる?』
結衣が画面を覗き込んで、肩をすくめる。
「……行けそう? 無理なら言って」
“断れないでしょ”じゃなくて、先に逃げ道を置く言い方。
私は息を吸って、頷いた。
「行く。……ほどほどに頑張る」
「うん。ほどほど最強」
結衣が笑う。ほのかも「それ、名言」と乗っかった。
その軽さが、今はちょうどよかった。




