閑話5 天宮家の台所――三人分の湯気
日曜日。
昨日の春の祭礼の疲れが、まだ肩の奥に残っていた。
天宮家の台所には、夕方の陽光が差しこみ、窓の外では桜が、もう「満開」の派手さを少しだけ引けて、代わりに葉の色が混じり始めている。
まな板の上には、玉ねぎ。にんじん。じゃがいも。
カレールウの箱は、二種類。甘口と中辛。
「よし。作戦会議!」
結衣が、エプロンの紐を背中で結びながら言った。
「作戦……」
シエルが小さく言うと、結衣は得意げに頷いた。
「カレーはね、分担が大事。
まず、野菜担当。火担当。味見担当。あと、皿出し担当」
「最後、担当っていうか……」
シエルが言いかけたところで、背後から穏やかな声が聞こえた。
「皿出し担当は、私がやるから」
美穂が、エプロンを手に台所へ入ってきた。
髪をひとつにまとめ、袖を軽くまくっている。普段より少しだけ“生活”の匂いが強い。
「おばあちゃんも一緒に作る?」
「三人で作ったほうが、早いし……楽しいでしょ」
そう言って、美穂はルウの箱を見て、ふっと笑った。
「甘口と中辛。……結衣の選び方だね」
「いや、だってさ。
シエルが辛いの苦手だったら困るし、でも私、甘すぎると物足りないし…」
「シエルはどう?」
美穂に聞かれて、シエルは一瞬考えた。
辛いのが苦手、というより――
“舌がびっくりする味”が、少し怖い。昨日の境目の冷たさが、記憶に居座っている気がするから……
「……中辛でも、大丈夫。たぶん」
「たぶん、って言った」
結衣が即座に言って、シエルの頬を指でつついた。
「今日は“ほどほど”でいこうね。味も、辛さも、がんばらない」
シエルは、ちょっとだけむっとして、でも言い返せない。
その言い方が、“上から”じゃなくて、隣に立つ人の言い方だったから。
「うん。ほどほどで…」
結衣が満足そうに頷く。
「よし。じゃ、シエルは野菜切って。私は火担当。おばあちゃんは監督」
「監督って……」
美穂が笑った。
「じゃあ私は、洗い物と、味の調整ね。あと、ご飯の準備」
役割が決まると、台所が急に動き出す。
玉ねぎを切ると、涙が出る。
当たり前の現象なのに、シエルはちょっと安心した。
(……普通だ)
目が痛い。鼻がつんとする。
それだけ。
光る窓も、意味不明な文字列も、今は出てこない。
「シエル、指」
結衣が、隣から覗き込む。
「その持ち方、危ないよ。こう」
包丁を持つ手じゃないほう――猫の手。
結衣の指が、シエルの指先を軽く折りたたむように誘導する。触れられたところが、ほんの少し熱い。
「……うん。分かった」
「よし。優秀」
「優秀じゃない…」
美穂が、炊飯器のスイッチを入れながら、二人を見て目を細めた。
「いいね。二人とも、台所にいると年相応」
年相応
その言葉が、胸の奥に小さく刺さる。
シエルは、まな板の上のじゃがいもへ視線を落とした。
(年相応、か……)
“前の人生”の記憶がある。
天使みたいなものになってしまった。
境目を見たり、人には見えない糸を結んだりもした。
それでも、今この瞬間は、じゃがいもが固いし、包丁が少し重い。
指先が、慎重になる。
それでいい。
それが、きっと必要な重さなんだと思う。
玉ねぎを炒める鍋の横で、熱したフライパンに肉を落とす音がした。 ジュッ、という音に、台所の空気が一気に“ごはん”へ寄っていく。
「この香り、……優勝」
結衣がフライパンを振りながら言う。
「優勝って…」
「優勝! 料理は香りで勝てる」
「勝負なの?」
「勝負。私たちと、空腹の……」
シエルは思わず笑ってしまった。
笑っても、黒は揺れない。
安定感を試すために、今日は黒でとおしているが、大丈夫そうだ。
「……結衣、それくらいで十分よ」
美穂の声は、落ち着いている。
でも、押しつけとかではなく、やさしい声だ。
鍋で飴色になるまで炒められた玉葱に、焼き色のついたお肉が合流する。次いで、お湯が注がれ、人参とジャガイモが落ちていく。
煮立つ音がして、湯気が立った。湯気が、窓に当たって白くなる。
その白が、ふっと“余白の白”に似て見えて、シエルの心臓が一拍だけ跳ねた。
(……違う)
すぐに分かる。
これはただの湯気だ。鍋の水蒸気が、空気に溶けているだけ。
シエルは一度、息を大きく吸って吐いた。
(境目で息をする)
今日は境目じゃない。
でも、息をするのは、どこででもできる。
すると、胸の奥の糸の感覚が、さらに遠のいた。
ルウを入れると、色が変わっていく。
茶色が濃くなって、台所が「夕飯の色」に染まる。
「味見、いくよ」
美穂が小皿に少し取り分け、スプーンでふーふーする。
結衣も、シエルも、同時に覗き込む。
「三人で味見って、なんか……家庭的」
結衣が言うと、美穂が笑った。
「家庭だよ。天宮家だもの」
スプーンが回ってくる。
まずはシエル。
ひと口。
甘い。
でも、甘いだけじゃない。玉ねぎの甘さと、スパイスの刺激と香り。じゃがいもがほろっと崩れて、口の中で溶けていく。
「……おいしい」
思わず出た声は、飾っていない。
「よし! シエルの『おいしい』いただきました!」
結衣が勝ち誇ったように言う。
「また勝負してたの?」
「勝負してたの! 私たちと、今日の疲れと…」
美穂が、ふっと真顔になる。
「……疲れ、残ってる?」
結衣が一瞬だけ黙って、スプーンを口に運んだ。
「残ってる。そりゃ…
でもさ、おいしいって言ってもらえると、元気出るよ!」
結衣はシエルを見て、言った。
「ね、シエル?」
呼び捨ての名前が、台所の湯気の中にやわらかく溶けていく。
シエルは少しだけ目を伏せて、それから頷いた。
「……うん。元気出る」
美穂は何も言わない。
ただ、鍋の蓋を少しだけずらす。湯気が抜けていく。
それは、なんだか“塞ぎ直し”に似た動作だった。
閉めきらない。
通る道を整える。
配膳は、思ったより賑やかになった。
「シエル、福神漬けいる?」
「……いる」
「おばあちゃん、らっきょうは?」
「今日はいいかな」
結衣が、カレーをよそいながら言う。
「こういうのさ。
神社の“境目”みたいな話のあとにやると、妙に効くね。
世界が『はい、こっちです』って言ってくる感じ」
「それ、分かる!」
シエルは小さく言った。
「こっち側の匂いがする」
「匂いは強いよ、カレーだもん」
「そうじゃなくて……」
言いかけて、やめた。
言葉にすると、また余白が顔を覗かせるような気がする。
美穂が、静かに言った。
「言葉にしなくていいよ。今は、食べちゃいましょう」
その一言が、いちばん強い“塞ぎ”だった。
夜。
食器を洗い終えて、台所の灯りが少し落ち着いたころ。
シエルは流し台の前で、手を拭きながら、窓の外を見た。
暗い庭。ゆれる木の影。
そこに境目があるような気がして、でも、今日は怖くない。
結衣が背後から、ぽつりと言った。
「明日、図書室行こ。」
「……うん」
美穂が、最後に布巾を干しながら言う。
「困ったら、ちゃんと戻っておいで。
台所でも、居間でも。どこでもいいから」
シエルは頷いた。
「……はい」
台所には、まだカレーの匂いが残っている。
それは、境目の匂いじゃない。
生活の匂いだ。
だから、息ができる。
シエルは、もう一度だけゆっくり息を吐いて、指先でエプロンの端を整えた。
切らない。
結び直す。
そして、食べる。
今日の余白には、そんな一文が増えた気がした。




