表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
美少女天使(中身おじさん)は、できるだけ頑張らず楽しく生きたい  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/43

閑話5 天宮家の台所――三人分の湯気

 日曜日。

 昨日の春の祭礼の疲れが、まだ肩の奥に残っていた。


 天宮家の台所には、夕方の陽光が差しこみ、窓の外では桜が、もう「満開」の派手さを少しだけ引けて、代わりに葉の色が混じり始めている。



 まな板の上には、玉ねぎ。にんじん。じゃがいも。

 カレールウの箱は、二種類。甘口と中辛。


「よし。作戦会議!」

 結衣が、エプロンの紐を背中で結びながら言った。


「作戦……」

 シエルが小さく言うと、結衣は得意げに頷いた。

「カレーはね、分担が大事。

 まず、野菜担当。火担当。味見担当。あと、皿出し担当」


「最後、担当っていうか……」

 シエルが言いかけたところで、背後から穏やかな声が聞こえた。

「皿出し担当は、私がやるから」

 美穂が、エプロンを手に台所へ入ってきた。

 髪をひとつにまとめ、袖を軽くまくっている。普段より少しだけ“生活”の匂いが強い。


「おばあちゃんも一緒に作る?」

「三人で作ったほうが、早いし……楽しいでしょ」

 そう言って、美穂はルウの箱を見て、ふっと笑った。

「甘口と中辛。……結衣の選び方だね」

「いや、だってさ。

 シエルが辛いの苦手だったら困るし、でも私、甘すぎると物足りないし…」


「シエルはどう?」

 美穂に聞かれて、シエルは一瞬考えた。

 辛いのが苦手、というより――

 “舌がびっくりする味”が、少し怖い。昨日の境目の冷たさが、記憶に居座っている気がするから……


「……中辛でも、大丈夫。たぶん」

「たぶん、って言った」

 結衣が即座に言って、シエルの頬を指でつついた。

「今日は“ほどほど”でいこうね。味も、辛さも、がんばらない」


 シエルは、ちょっとだけむっとして、でも言い返せない。

 その言い方が、“上から”じゃなくて、隣に立つ人の言い方だったから。

「うん。ほどほどで…」


 結衣が満足そうに頷く。

「よし。じゃ、シエルは野菜切って。私は火担当。おばあちゃんは監督」

「監督って……」

 美穂が笑った。

「じゃあ私は、洗い物と、味の調整ね。あと、ご飯の準備」

 役割が決まると、台所が急に動き出す。


 玉ねぎを切ると、涙が出る。

 当たり前の現象なのに、シエルはちょっと安心した。

(……普通だ)

 目が痛い。鼻がつんとする。

 それだけ。

 光る窓も、意味不明な文字列も、今は出てこない。


「シエル、指」

 結衣が、隣から覗き込む。

「その持ち方、危ないよ。こう」

 包丁を持つ手じゃないほう――猫の手。

 結衣の指が、シエルの指先を軽く折りたたむように誘導する。触れられたところが、ほんの少し熱い。

「……うん。分かった」

「よし。優秀」

「優秀じゃない…」


 美穂が、炊飯器のスイッチを入れながら、二人を見て目を細めた。

「いいね。二人とも、台所にいると年相応」


 年相応

 その言葉が、胸の奥に小さく刺さる。

 シエルは、まな板の上のじゃがいもへ視線を落とした。

(年相応、か……)


 “前の人生”の記憶がある。

 天使みたいなものになってしまった。

 境目を見たり、人には見えない糸を結んだりもした。


 それでも、今この瞬間は、じゃがいもが固いし、包丁が少し重い。

 指先が、慎重になる。

 それでいい。

 それが、きっと必要な重さなんだと思う。

 玉ねぎを炒める鍋の横で、熱したフライパンに肉を落とす音がした。 ジュッ、という音に、台所の空気が一気に“ごはん”へ寄っていく。


「この香り、……優勝」

 結衣がフライパンを振りながら言う。

「優勝って…」

「優勝! 料理は香りで勝てる」

「勝負なの?」

「勝負。私たちと、空腹の……」

 シエルは思わず笑ってしまった。

 笑っても、黒は揺れない。

 安定感を試すために、今日は黒でとおしているが、大丈夫そうだ。


「……結衣、それくらいで十分よ」

 美穂の声は、落ち着いている。

 でも、押しつけとかではなく、やさしい声だ。

 鍋で飴色になるまで炒められた玉葱に、焼き色のついたお肉が合流する。次いで、お湯が注がれ、人参とジャガイモが落ちていく。

 煮立つ音がして、湯気が立った。湯気が、窓に当たって白くなる。

 その白が、ふっと“余白の白”に似て見えて、シエルの心臓が一拍だけ跳ねた。


(……違う)

 すぐに分かる。

 これはただの湯気だ。鍋の水蒸気が、空気に溶けているだけ。

 シエルは一度、息を大きく吸って吐いた。


(境目で息をする)

 今日は境目じゃない。

 でも、息をするのは、どこででもできる。

 すると、胸の奥の糸の感覚が、さらに遠のいた。


 ルウを入れると、色が変わっていく。

 茶色が濃くなって、台所が「夕飯の色」に染まる。


「味見、いくよ」

 美穂が小皿に少し取り分け、スプーンでふーふーする。


 結衣も、シエルも、同時に覗き込む。

「三人で味見って、なんか……家庭的」

 結衣が言うと、美穂が笑った。

「家庭だよ。天宮家だもの」


 スプーンが回ってくる。

 まずはシエル。

 ひと口。

 甘い。

 でも、甘いだけじゃない。玉ねぎの甘さと、スパイスの刺激と香り。じゃがいもがほろっと崩れて、口の中で溶けていく。


「……おいしい」

 思わず出た声は、飾っていない。


「よし! シエルの『おいしい』いただきました!」

 結衣が勝ち誇ったように言う。

「また勝負してたの?」

「勝負してたの! 私たちと、今日の疲れと…」


 美穂が、ふっと真顔になる。

「……疲れ、残ってる?」

 結衣が一瞬だけ黙って、スプーンを口に運んだ。

「残ってる。そりゃ…

 でもさ、おいしいって言ってもらえると、元気出るよ!」


 結衣はシエルを見て、言った。

「ね、シエル?」


 呼び捨ての名前が、台所の湯気の中にやわらかく溶けていく。

 シエルは少しだけ目を伏せて、それから頷いた。

「……うん。元気出る」


 美穂は何も言わない。

 ただ、鍋の蓋を少しだけずらす。湯気が抜けていく。


 それは、なんだか“塞ぎ直し”に似た動作だった。

 閉めきらない。

 通る道を整える。


 配膳は、思ったより賑やかになった。

「シエル、福神漬けいる?」

「……いる」

「おばあちゃん、らっきょうは?」

「今日はいいかな」


 結衣が、カレーをよそいながら言う。

「こういうのさ。

 神社の“境目”みたいな話のあとにやると、妙に効くね。

 世界が『はい、こっちです』って言ってくる感じ」


「それ、分かる!」

 シエルは小さく言った。

()()()()の匂いがする」

「匂いは強いよ、カレーだもん」

「そうじゃなくて……」

 言いかけて、やめた。


 言葉にすると、また余白が顔を覗かせるような気がする。

 美穂が、静かに言った。

「言葉にしなくていいよ。今は、食べちゃいましょう」

 その一言が、いちばん強い“塞ぎ”だった。





 夜。

 食器を洗い終えて、台所の灯りが少し落ち着いたころ。

 シエルは流し台の前で、手を拭きながら、窓の外を見た。

 暗い庭。ゆれる木の影。

 そこに境目があるような気がして、でも、今日は怖くない。


 結衣が背後から、ぽつりと言った。

「明日、図書室行こ。」

「……うん」


 美穂が、最後に布巾を干しながら言う。

「困ったら、ちゃんと戻っておいで。

 台所でも、居間でも。どこでもいいから」

 シエルは頷いた。

「……はい」


 台所には、まだカレーの匂いが残っている。

 それは、境目の匂いじゃない。

 ()()の匂いだ。

 だから、息ができる。


 シエルは、もう一度だけゆっくり息を吐いて、指先でエプロンの端を整えた。

 切らない。

 結び直す。

 そして、食べる。



 今日の余白には、そんな一文が増えた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ