第33話 春の祭礼――塞ぎ直し
指先にふれた湯飲みの熱が、じわじわと伝わってくる。
畳の上の静けさは、祭礼の終わりを告げているようでもあった。
外に聞こえるのは、太鼓でも鈴の音でもない。戸を閉める音、箒で砂利を掃く音、台を畳む木の乾いた音。参拝客のざわめきが引いたあとに残る、片付けの現実だけ。
膝の上では、雪が丸くなっている。
白い毛玉に見えるのに、重みだけは現実的で、呼吸のペースを整えてくれる。シエルは指先で、その背中をゆっくり撫でた。
終わった。
参拝対応が終わった。
だからこそ、裏の話が今から始まる。
結衣が、シエルの湯飲みを指で軽くつついた。
「大丈夫そう?」
「うん。たぶん」
「よし。じゃあ、もうちょいだけ休もう。外は片付けだけだし、今戻っても邪魔になるだろうからね」
「確かに」
結衣の言い方が、軽いのに的確で、シエルは肩の力を抜いた。
黒を保ち続ける圧が、さっきより薄い。けれど、薄いぶんだけ、油断すると滲む。
襖の向こうから、足音が近づいて止まった。
「入ってもいいか」
宗一の声。
「どうぞ」
結衣が返す。襖が開き、宗一が顔を出す。シエルの髪と目を一度だけ見て、言葉を選ぶみたいに息を吐いた。
「今は、その色で休め。無理して黒に縛るな」
何事もないふうに流さない。でも、必要以上に突っ込まない。その距離感が、ありがたい。
宗一は襖を寄せて、居間の空気を外から切り離してから、武臣のほうを向いた。
「お義父さん。確認したい」
「おう」
武臣は湯飲みを置き、宗一の顔を見た。
「さっきの札の件だな」
武臣が先に言う。
「昼のうちに、シエルを裏へ連れて行くかもしれんとは聞いたが」
肩が軽くなるのを感じた。誰も、勢いで境目へ放り込んだわけじゃない。大人が、先に一度考えてくれていた。
宗一が頷く。
「祭礼は締めた。社務所も、もうすぐ戸を落とす。今夜、塞ぎ直しをやる」
「今夜か?」
「放っておくほど、境目は緩む」
結衣がシエルの横で手を挙げた。
「私も行く。手伝いっていうより、見ておきたい」
武臣が目を細める。
シエルは膝の上の雪を見て、つい小声で言った。
「結衣」
「ん?」
「ありがとう」
結衣は一瞬だけ目を瞬かせて、それからいつものように笑った。
「うん。休みながら行こう」
十分ほどして、身支度を整えた。
巫女装束は脱いで、上着を羽織る。髪はまとめ直して、顔まわりをすっきりさせる。
シエルは鏡の前で一度だけ目を閉じた。
(境目で息をする)
吸って、吐く。
吐くときに、黒を握り潰すんじゃなくて、結び目の位置に置く。
目を開ける。黒髪。黒い瞳。
――これでいい。今日はこれで行く。
玄関を出ると、外はもう夜の匂いがした。
社務所の方からは、最後の掃き掃除の音が微かに聞こえる。人の声はほとんどない。祭礼は、すでに終わっている。
管理用の道を、車で上る。
ライトの円が木の幹を切り取っては流れていく。窓の外は暗く、山は近い。近すぎて、森に吸いこまれてしまいそうだった。
助手席の結衣が、小声で言う。
「静かだね」
「うん」
後部座席では陽斗がロープの束を抱え、由奈が紙垂の包みを膝に乗せて守っている。
運転席は武臣。宗一は窓の外を見たまま、言葉を少なくしていた。
車が止まり、エンジン音が消えて、森の匂いだけが残った。
古い祠は、ライトに照らされても希薄なままだった。
闇が濃いのではない。輪郭が薄い。現世の端が、わずかに揺れて見える。
宗一が一歩前へ出る。
「境目に入る前に、息を整えろ」
シエルは頷いて息を吸い、吐いた。
作業は派手なものではない。
だけど、ひとつひとつが意味のあるものだと思われた。
古い紙垂を外す。埃を払い、苔を落とし、祠の前の落葉を掃く。
塩を指先でつまんで、境目の線に沿うように落とし、米をほんの少し置く。
由奈が呟く。
「ね。これ、結界張るっていうよりさ……『ここが境目』って、看板立て直す感じ?」
「うん、そんな感じだ」
陽斗が頷く。
宗一が新しい注連縄を手に取った。
「境目は、ぼやける。ぼやけると、人も道に迷う。だからここまでという標を、作る」
塞ぐって、乱暴に閉じることじゃない。迷わないように、線を引き直すこと。
その説明が、やっと腑に落ちた。
新しい紙垂が揺れた瞬間、祠の輪郭が濃くなった。ぼやけていたものに、線が入る。
そのことに、シエルは気づかないふりができなかった。
視界の端。光る四角い窓。意味の分からない文字列。警告という気配。
(来るな)
そう感じてしまう。反射的に胸元を押さえそうになって、ぎりぎりでやめた。今日はロザリオに頼りすぎている。
息を吸って、吐く。吐いて、結び目を置く。
光る窓が、薄くなっていく。
「見えたか?」
宗一が、こちらを見ずに言った。
「はい」
「今は見えただけでいい。触るな。切るな」
シエルは頷いた。
触らない、切らない、結び直す。
作業の最後に、宗一が懐から白い札を出した。
祠の真正面には置かない。境目の中心じゃなく、外側。返すための位置。
「名前が無いものに、名を与えない」
宗一の声は静かだ。
「だから戻す。迷いを返す。境目へ返す」
「戻しても、また来ますか?」
結衣が、シエルの問いを受け取るみたいに、同じように祠を見た。
宗一は否定しなかった。
「来るかもしれん。境目は、揺れるものだからな」
「だが、戻すたびに迷わない道は整う。今日は、それを一つ増やした」
宗一が札を押さえ、息を吐いた。
シエルも、真似して息を吐く。
境目で息をする。
その瞬間、胸の底の糸が――張る必要がなくなったみたいに、すっと緩んだ。
結び目が、そこにあるから。
帰りの車の窓に映る自分の顔は、黒髪で黒い瞳で――どこにでもいる高校生の女の子に見えた。
でも胸の底には、今日増えた鍵がある。
切らない。結び直す。境目で息をする。
助手席の結衣が、伸びをする。
「明日、筋肉痛になりそう」
「結衣、明日学校だよ」
「だからだよ……。でも――」
結衣が横目でシエルを見る。
「今日のシエル、ちゃんとここにいた」
言い返そうとして、できなかった。
シエルは窓の外の闇を見て、息を吐いた。
「うん」
祭礼の夜は、もう終わっている。
それでも余白には、一文が残る。
迷わないために。息をするために。




