第32話 春の祭礼――塞(さい)の社
祠に背を向けた瞬間、胸の奥で張っていた糸が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
暗い林の中を戻る。行きよりも、足元が見え辛い。
でも――遠く、木々の隙間に、社務所の灯りがにじむように浮かんでいる。
灯りが“前”にある。
それだけで、息ができる。
袖の中の白い札は、まだ冷たい。
糸はまだ張っているのに、さっきみたいに私を引きずる縄じゃなくて、結び目の位置を知らせる細い合図になっていた。
「……戻った?」
結衣が、歩幅を私に合わせ聞いてくる。
「……たぶん。少なくとも、さっきほどよりは」
「うん。なら、合格」
合格、という言い方が妙に軽くて、少しだけ笑いそうになる。
笑うとまた、黒が揺れそうで、私は唇を噛んだ。
黒髪黒目を保つ糸は、まだ指先のどこかを引いている。
視界の端が、少しだけ滲む。――半日が限界、というのを、今日は身体が思い出させてくる。
雪が先頭を歩く。
白い背中が、迷わない。振り返りもしないのに、私たちがついてきているのを当然のように知っている足取り。
「……雪、あなた、仕事終わったんじゃ」
「にゃ」
返事だけして、さっさと先に行く。
“終わってない”らしい。
社務所の裏口が見えたところで、宗一叔父さんが足を止めた。
「今日はここまで。……表に余計な空気を持ち込まない」
「余計な空気……」
私が小さく繰り返すと、宗一叔父さんは頷いた。
「祭礼は祭礼。境内は境内。
裏のものは、裏で塞いでおく。――それが鳴瀬のやり方だ」
“塞ぐ”
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
戸を開けた瞬間、片付けのざわめきがふわりと落ちてくる。
提灯の灯り、人の声、木札の乾いた音。現実が戻ってくる。
それでも、私はまだ黒を握りしめていた。
握りしめないと、ふっと銀が透けてしまいそうで……
雪が当然のように社務所を抜け、住居のほうへ向かう。
私たちも、その背中に続いた。
鳴瀬家の住居側に入ると、畳の匂いがして、肩の力が少し抜ける。
居間の奥にいた武臣が顔を上げ、私たちを一度だけ見た。
「……戻ったか」
「戻った。休憩もらうよ」
結衣が言って、私の背中を小さく押す。
「おじいちゃん、シエル結構ギリギリだった。今は大丈夫だけど、祠のとこでちょっと……」
武臣の眉が、わずかに動く。
“叱る”じゃない。“状況を掴む”顔。
「座れ。まず、一息つくことだ」
「……はい」
私は畳に膝をつき、湯飲みを受け取った。
熱が掌に伝わって、ようやく指先の冷たさが消えていく。
結衣が襖を一枚引き、外の音を薄くする。
そこまでしてくれたのを見て、私は小さく息を吐いた。
(……ここなら)
ゆっくりと、力を抜く。
黒を保っていた緊張がほどけ、髪の根元がひやりとした。
黒の下から、銀が浮き上がる。
瞳の奥が、こげ茶から碧へ戻る。
視界の端の滲みが、すっと消えた。
「……うん。復帰だね!」
結衣が頷く。
雪はその瞬間、いきなり、どかりと私の膝へ乗った。
「……重いです」
「雪、正直すぎる」
「にゃぁ」
褒められていると思っている鳴き声。
その温かさが、現実の重みから解放されたみたいで、少し救いだった。
武臣は湯飲みを置き直し、私の手元――白い札に目を落とした。
「それが、“変な札”か?」
私は小さく頷く。
「はい。落ちていた、というより、置かれていたみたいで……」
武臣は一拍置いて、低く言った。
「宗一から、昼のうちに話は聞いてた。
“妙な札が出た。裏へ連れて行くかもしれん”ってな」
――聞いてた。
胸の奥が少しだけ軽くなる。誰も、私たちを無防備に放り込んだわけじゃない。
襖の向こうで足音が止まる。
「……入ってもいいか?」
宗一叔父さんの声だった。
私は反射的に背筋を伸ばし、これまでの経緯を鑑みて覚悟を決める。
「はい。どうぞ」
襖が静かに開く。
宗一叔父さんは私の銀髪碧眼を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「……戻してたか。今のほうが楽だろ」
「……はい」
何事もないように扱われる、ではなく。
ちゃんと“今のほうが楽だろ”と言われると、少し心が軽くなる。
宗一叔父さんは畳に座り、私の顔を見た。
「無理をしたな」
「……はい。でも、切らなくてよかったです」
宗一叔父さんは小さく息を吐いた。
「そうだ。……切るな、と聞こえたなら、切ってはいかん」
「聞こえたって……私だけじゃなかったんですか?」
「私にも、かすかにな…
祠は境目だ。境目が揺れると、境界も揺れる。――余計なものも寄ってくる」
余計なもの――
私は袖の内側で、白い札を握り直した。
「……じゃあ、この札は?」
宗一叔父さんは、少しだけ目を細める。
「“願い札”として落ちてたなら、普通は字がある。
だが、白いままだった。……それは、願いじゃない。札の使い方が違う」
武臣が言う。
「塞ぐ札、ってことか」
「近い。昔の言い方だと、“返し札”とか“迷い返し”。
迷ったものを境目へ戻すための札だ」
私は背中が少し冷たくなる。
「……じゃあ、なにも書かれてないのは?」
「書けないからだ。――名前が無い」
名前が無い。
その言葉が、畳の上に重く影を落とす。
結衣が、いつもの調子を崩さずに聞いた。
「名前が無いって……人じゃないやつ?」
宗一叔父さんは、曖昧に頷いた。
「“人じゃない”と決めつけるのも雑だが……少なくとも、表で扱う話じゃない。
だから裏に置かれた。……そして糸が祠へ繋がっていた」
私は息を呑む。
「……糸は、私には見えました」
「見えるだろうな。シエルは、そういう目を持っている」
さらりと言われて、胸が少しだけ熱くなる。
肯定されるのが怖いのに、嬉しい。
宗一叔父さんは、私の指先を見た。
「今日、祠で結び目を作った。水引で“留めた”。あれは正しいやりかただ」
武臣が短く息を吐く。
「切るんじゃなく、結ぶ……なるほどな」
「塞ぐというのは、乱暴に切ることじゃない。
“通り道を整えて、余計な道を閉じる”ことだ」
私は膝の上の雪を撫でた。雪が喉を鳴らす。
その音色だけが、妙に現実的で、救いみたいだった。
「……じゃあ、これからどうするんですか」
私が聞くと、宗一叔父さんは少しだけ視線を落とした。
「まず、祠を整える。紙垂も、注連縄も古い。
祭礼が終わったら、鳴瀬の家でちゃんと“塞ぎ直し”をする」
「塞ぎ直しって、儀式?」
結衣が首を傾げる。
「大げさなことはしない。
祠を掃除して、注連縄を掛け替えて、境目の作法を戻す。――それだけだ」
それだけ、という言い方が逆に重い。
“それだけ”を怠ると、境界が曖昧になる。
その怖さを、宗一叔父さんは知っている声だ。
武臣が、私へ目を向けた。
「で、シエル。お前は無理をするな。
今日はよくやった。だが、明日まで引きずるなら話は別だ」
私は頷いた。素直に頷けた。
黒を握り潰して切り離すんじゃない。
ちゃんと結んで、ほどけないように留める。
そのほうが、ずっと難しい。ずっと優しい。
宗一叔父さんが立ち上がり、襖へ手をかけた。
「今日は休め。
札は、こちらで預かる。……持っていると、また糸が張るだろう」
一瞬、手放すのが怖くなる。
けれど、宗一叔父さんの手は“奪う”手じゃない。“預かる”手だ。
私は白い札を差し出した。
「……お願いします」
札が離れた瞬間、胸の奥の張りが少し緩んだ。
糸が、遠のく。
宗一叔父さんは札を懐にしまい、最後に私へ言った。
「塞の神は、“迷わないため”の神さまだ。
お前が迷いそうになったら、境目で息をしろ。――今日は、それを覚えた日だ」
襖が閉まる。
部屋に残ったのは、湯気と畳の匂いと、雪の重み。
結衣が私の湯飲みを指でつついた。
「ほら。飲む。休む。……お願い」
「……お願い、好きですね」
「好き。今日は特に好き。
だってさ、“無理するな”って言われても、シエル、がんばっちゃうでしょ」
図星で、言い返せない。
私は湯飲みを持ち上げて、ひと口飲んだ。
熱が落ちていく。身体が戻っていく。
膝の上の雪が、満足そうに目を細める。
――境目で息をする。
塞いで、守って、迷わない。
その言葉が、胸の奥の“余白”に、静かに書き足されていくのを感じながら、私はゆっくりと息を吐いた。
外では、祭礼の余韻がまだ微かに残っている。
けれど今の私は、ちゃんとここにいる。
そして――名前の無い何かは、境目の外に、いったん戻った。
戻っただけで、消えたわけじゃない。
それが分かるからこそ、怖い。
でも、同じくらい――次に迷わないための“鍵”が、今日ここに増えた手ごたえも感じていた。




