第31話 春の祭礼――糸の先へ
祭礼のざわめきの中へ戻った私は、いったん胸の奥の“余計なもの”を棚に上げることにして、目の前の仕事へ意識をむけた。
「こちら、お守りです。お足元に、お気をつけください」
声に出しているあいだは、黒が保てる。
笑顔を作っているあいだは、黒が保てる。
――けれど
袖の内側。握りしめた白い札が、時々、ぴん、と引かれる。
(……また張ってる)
あの“糸”
透明で、冷たくて、張りつめた線。
札がただの紙片じゃなくなってしまった瞬間から、それはずっと私の指先に残っている。無視しようとすると、むしろ意識の端に浮かび上がって、皮膚の内側を引っ張ってくる。
人波が一段落するたび、私は袖口の中で札を確かめた。
『切るな』
耳の奥の声は、相変わらず淡々としている。
怒りも慈悲もないくせに、言葉だけは妙に重い。
「シエル、顔、ちょっと固いよ」
横から、結衣が肩をつついてきた。
「固くないです」
「固いよ。ほら、眉間が寄ってる」
「寄ってません」
「寄ってる」
言い合っているあいだに、雪が私の足元で尻尾を立てた。
そして、私の袴の裾に、当然のように頬をこすりつける。
「にゃ」
「……あなた、ここ好きですね」
雪は返事の代わりに、ゴロゴロと喉を鳴らした。
結衣が小さく笑う。
「雪、シエルに懐きすぎ問題!」
「そんなことないです!」
「だって、私には来ないもん」
「結衣は動きが大きいからじゃないですか」
「ひどい。撮影担当に対する偏見だ」
笑いながらも、結衣の目は私の袖——札の在処を、きちんと見ている。
怖がらない、騒がない。
ただ、測ってくれている。
その視線に、私は少しだけ呼吸が楽になる。
(……ほどほどに)
言い聞かせるのは、いつも自分に対して。
でも今日は、結衣が隣にいるから、言い聞かせる声がひとり分じゃなくなる。
午後に入ると、境内の空気が少しずつ変わっていった。
賑やかさがほどけて、代わりに片付けの気配が混じってくる。
紙袋の山が少し低くなり、奉納箱の前の人の流れも穏やかになる。
太鼓の音も、一定のリズムから、少しずつ締めに向かうような間へ変わっていった。
そのタイミングを見計らったみたいに、社務所の奥から宗一叔父さんが出てきた。
いつもより声が低い。
「……シエル。結衣。少し、時間とれるか?」
私は反射的に背筋を伸ばした。
袖の中の札が、また、ぴん、と引かれる。
「はい」
結衣が即答する。
「あります。シエルもあります!」
「私の返事を勝手に言わないでください…」
「決めていいやつ! たぶん今の、決めていいやつ!!」
宗一叔父さんは笑わない。けれど、目だけが少しだけ柔らかくなる。
「境内が落ち着いたら、裏へ行く」
——裏
その言葉だけで、糸の張りが強くなった気がした。
夕方。
最後の参拝客が鳥居をくぐっていき、境内のざわめきが潮が引くみたいに遠のいたころ。
遥さんが帳面を閉じ、由奈が「終わったぁ……!」と大げさに机に突っ伏した。
その横で、私は袖の中の札にもう一度触れた。
白の糸は、まだ張っている。
——でも、さっきより、引かれ方が方向を持っている。
まっすぐに……
雪が先に立った。
尻尾を立てて、当然のように社務所の外へ歩き出す。
「……猫が誘導してるの、面白すぎる」
結衣が小声で言う。
「面白がらないでください」
「でも、ほら。“行くよ”って顔してる」
宗一叔父さんが社務所の灯りを一つ落とし、鍵束を鳴らした。
「こっちだ。……足元に気をつけろ」
管理用通路は、昼間とは別の顔をしていた。
鳥の声が希薄になり、風が木々の間で擦れる音が目立つ。石と土の匂いが濃ゆい。
社務所から遠のくほど、私は自分の“黒”を意識しなければいけなくなる。
なぜだろう。人目がないのに、むしろここでは色が落ち着かない。
袖口を握る指先が冷たくなる。
視界の端が、ほんの少しだけ滲む。
(……黒、保って)
その瞬間——耳の奥。
『……測る』
淡々とした声。私は、息を止めた。
「シエル?」
結衣が半歩だけ近づく。そして、小さく囁く。
「ほどほどにね」
その言葉が、胸の奥の怖さを少しだけ緩和してくれた。
林の奥に、古い石段があった。
参道とは違う、誰かのためだけの道。苔むして、端が欠けている。
宗一叔父さんが足を止めた。
「ここだ」
木々に隠れるように、小さな祠が見えた。
注連縄は古く、紙垂は半分ちぎれて風に揺れている。
“祀っている”というより、“放置してある”に近い。
そして——
袖の中の白い札の糸が、まっすぐに祠へ伸びている。
(……やっぱり)
糸は、祠の前で少しだけ沈み、石の隙間へ吸い込まれていく。
まるでそこに、見えない穴があるみたいに……
「……ここ、何ですか」
私は声を落とした。
「古い祠だ。今は表の祭神とは別扱いになってる。……正直、普段は誰も近寄らない」
宗一叔父さんの言葉は淡々としている。
けれど、“ここに何かがある”と知っている人の声だった。
雪が祠の前へ進み、立ち止まる。
そして一度だけ、低く鳴いた。
「にゃ……」
いつもの甘え声じゃない。
警戒でもない。
確認みたいな声。
私は、袖の中の札を取り出した。
真っ白。
なのに、白が白じゃない…
指先が触れた瞬間、糸がぴん、と張った。
視界の端が、また黒く染まる。
——光る四角い窓
——意味の分からない文字列
——“警告”らしき気配
(……だめ。引きずられる)
私は一歩引こうとして、足が止まった。
止まった、というより——糸が止めた。
『切るな』
声が、もう一度。
宗一叔父さんが、私の手元を見ている。
結衣が、私の背中に掌を当てている。
逃げ道はある。でも、ここで逃げたら——糸は、ずっと張ったままになる。
(切らない。……切らないなら)
じゃあ、どうする?
——結ぶ。
ふいに、その言葉が胸の奥に落ちてきた。
さっきから私が繰り返していた言葉。ほどける前に、結び直せる。
「叔父さん……」
私は宗一叔父さんを見る。
お願いの言葉を形にするより先に、宗一叔父さんが理解したみたいに、腰の袋から細い紐を取り出した。
紅白の、短い水引。
「使え」
「……いいんですか」
「切れないのなら、結べ」
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
“信じてる”と言われたわけじゃないのに、そう受け取ってしまう。
私は白い札の糸——他の人には見ることができない線を、指先でそっと、つまむように意識した。
水引を、糸の位置へ重ねる。
祠の前で、息を深く吸って、ゆっくり吐く。
(……ほどほどに)
黒を保つ。
怖がりすぎない。
でも、雑に扱わない。
私は水引で、見えない糸に結び目を作るつもりで、指先を動かした。
梅結びみたいに。
ほどけにくくて、ほどけても、また結べる形。
——その瞬間。
糸の張りが、少しだけ緩んだ。
張りつめていた線が、ほんのわずかに“呼吸”をするみたいに…
視界の黒が薄くなる。
四角い窓が、遠のく。
私は膝の力が抜けそうになるのをこらえ、祠の前の古い注連縄の端へ、水引をそっと結びつけた。
見えない糸の結び目が、そこに“留まる”ように。
風が一度、抜け、紙垂の残骸が、ひらり、と揺れて——
雪が、静かに尻尾を下ろした。
「終わった?」
結衣が、息を潜めて聞く。
「まだ、分かりません…」
私は札を見る。
札の白は、相変わらず白い。
けれど、さっきまでの刺さる感じが、少しだけ丸くなっている。
耳の奥の声が、最後にひとつだけ落ちてきた。
『……測った』
それだけ。
褒めでも、叱責でもない。
ただ、結び目の位置を確認するみたいな、無機質な一言。
宗一叔父さんが小さく息を吐いた。
「……戻るぞ。今日はここまでだ」
私は頷いた。
札を胸の前で包み込むように握りしめる。
糸はまだある。
でも、さっきみたいに引きずり込まれるような張りじゃない。
結衣が私の袖を引く。
「ねえ、シエル」
「はい」
「今の、怖かった?」
私は少しだけ迷ってから、正直に言った。
「……怖かったです」
「うん」
結衣はそれだけ言って、私の手を握った。
その指先が温かい。
「じゃあ、帰って、ちゃんと休憩。ね。」
私は小さく笑ってしまった。
「……命令ですか?」
「お願いかな…」
雪が先に歩き出し、私たちは祠に背を向けた。




