第30話 春の祭礼――余白の鍵
通されたのは、帳面や朱印帳の控えが並ぶ小さな部屋だった。紙と墨の匂いが漂っている。
外の太鼓の音が、壁一枚だけなのに、やけに遠くに感じる。
宗一は戸を閉めると、シエルの顔を一度だけ確かめた。
「体調は?」
「大丈夫です。休憩できましたから」
「ならいい」
その言い方が、心配と同時に"測ってる"感じで、シエルは無意識に背筋を伸ばした。
宗一は机の上から、薄い一枚の紙片を取り上げた。願い札――短冊に近い、白い札。
「これが、さっき奉納箱の横に落ちていた」
「落ちて?」
「ああ。拾って戻そうと思ったんだが、変でな」
宗一がシエルにそれを見せる。
何も書かれていない。真っ白だ。
でも――
(白い、のに)
紙の白さが、普通の白じゃない。図書室で見た"余白"の白に似ている。
「誰かが、間違えて――」
「それならいい。ただ、これは"落ちていた"というより――」
宗一が言葉を切る。
「"置かれた"気がする」
シエルは息をのんだ。
「私に、何を?」
「見てほしい。触れて分かるなら……それでいい」
優しく、逃げ道もくれている声色。
(ほどほどに)
そう思って、手を伸ばす。白い札に触れた瞬間――皮膚の内側が、微かに引っ張られた気がした。
糸。
細い糸が、一本だけ。札の白から、外へ伸びている。外へ。遠くへ。透明で、冷たくて、張りつめた線。
耳の奥で、声が鳴った。
『測る』
怒りも、慈悲もない。ただ、淡々としている。
でも、今度は――
『切るな』
シエルは指先を強く握りしめた。
(切るな、って)
糸の先に、何があるのか。札の白の向こうに、一瞬だけ黒い景色が見えた。
光る四角い窓。文字列。意味が分からないのに、背中だけが冷える。
"警告"――?
シエルは瞬きをして、視界を戻した。
宗一が、静かに問う。
「何か、見えたか?」
嘘は、つけない。でも全ては言えない。
「糸、みたいなものが。一本だけ」
宗一はわずかに眉を上げた。驚きじゃない。"確認できた"という顔だ。
「やはり、見えるか!?」
「宗一さんも……?」
「はっきりは見えない。だが、空気が違うのは分かる」
宗一は息を吐いて、笑った。
「今日な。シエルが結び目を整えてたろ。あれは、ただ器用ってだけではない」
シエルの喉が詰まった。
「すみません。勝手に、手が」
「謝るな。助かった」
まっすぐな言い方だった。シエルは目を伏せた。
「この札は、表に戻すべきではない気がする。境内の“願い”に混ぜると、絡む。そんな感じがする」
「絡む!?」
「シエルが結び直せるなら、頼みたい。難しいが…」
シエルは札を持ち直した。
糸はまだ張っている。切れてはいない。
そして、"切るな"と声が聞こえた。つまり――切れば、戻せない。
(ほどほどに。測って、切らずに結ぶ)
シエルは頷いた。
「はい。できる範囲でなら」
宗一はふっと肩を落とした。張り詰めていたものが解けたように。
「無理はするな。"触れて分かった"だけで十分だ。祭礼が落ち着いたら、裏のほうへ行く。古い祠がある」
裏。管理用の通路の先。あのとき"違う"と告げられた方角。
薄く鳥肌が立った。
「そこに、この札を持っていく。糸の先が、どこへ繋がってるか……確かめたい」
「私も、行きます」
「結衣にも言っておけ。心配するだろ」
シエルは頷いて、札を胸の前で押さえた。ロザリオと札の白が、ひとつに重なる。
表に戻ると、結衣がすぐに気づいた。
由奈と声を掛け合いながらも、シエルの目だけを見てくる。
「何の話だった?」
「あとで、裏に行くみたいです」
「裏!?」
結衣が短く繰り返す。それから、シエルの胸元――札を押さえる指先を見た。
「それ、何?」
「願い札、です。白い、変な……」
結衣の目が細くなる。でも怖がらない。逃げもしない。
「分かった。今日は“逃げれる日”だから、それは覚えておいてね」
その言い方が、なぜだか、肩の力が抜けた。
「結衣」
「ほどほどにね。シエル」
その言葉に、シエルは一瞬だけ息を止めた。
(ほどほどに)
耳の奥の声と、結衣の声が重なる。偶然のはずなのに、偶然じゃないみたいに。
雪が、シエルの足元で尻尾を立てた。
「にゃ」
一緒に行く、と言っているみたいに。
シエルは札を握り直した。白の糸は、まだ張っている。
でも――ほどける前に、結び直せる。
そう信じて、祭礼のざわめきの中へ、もう一度戻っていった。




