第29話 春の祭礼――糸を結び直す
湯気が、畳の上でほどけていく。
甘いチョコの香りと、畳の匂いと、雪の体温。
シエルは湯飲みを両手で包みこみ、口元にはこんだ。
温かさが喉を通って、胸の底に落ちる。
「目も戻ったね!」
結衣が、シエルの顔を覗き込む。覗き込むというより、"確認"に近い。
「戻りました」
「うん。よし。じゃ、あと二十分」
「二十分……」
「無理そうなら延長して休憩しようか! おじいちゃんもいるし、私は現場に戻るけどさ」
現場。
その言い方が妙に可笑しくて、笑いそうになった。笑うと糸が緩む。緩むと、また全部が崩れそうで――
だから、笑う代わりに、雪の背中を撫でる。
「にゃぁ」
雪は膝の上で、当然だと言わんばかりの顔をしている。やたら堂々としていた。
「雪、ほんと"ここは俺の席"みたいな顔するよね!?」
「してますね」
「してる。してるんだよ。神社の主は猫だった!」
結衣が小声で笑って、スマホをポケットから出した。
「はい。撮るよぉ!」
「え」
「SNSに上げない。絶対。私のフォルダにしまう。"ここだけの銀髪"は、私だけのもの!」
シャッター音が、やけに大きく響いた。シエルは思わず肩をすくめる。
「今の、顔……変じゃなかったですか?」
「変じゃない。むしろ、ほっとしてる顔だった!」
言われて、喉の奥が詰まった。
襖の向こう側では、祭礼のざわめきが続いている。太鼓の低い音。鈴の音。人のざわめき。
――戻らなきゃ。もう、戻れる。
「よし、戻る準備しよっか。シエル行けそう?」
結衣が立ち上がる。
「はい。大丈夫です。だいぶ楽になりましたから」
しかし、雪は動かない。「置いていくの?」と言いたげだ。
「雪、仕事だよ。私も戻るよ」
「にゃ」
返事だけは一丁前だ。雪はようやくシエルの膝から降りた。床に着地した瞬間、しっぽをぴんと立てて、先導するみたいに廊下へ向かう。
「猫が先導役……」
「完全に連行されてる」
「言い方」
結衣が襖を開ける。
隣の部屋の奥で、武臣がこちらへ目だけ向けた。
「行けるか?」
「はい」
返事は、嘘じゃなかった。さっきまでの“限界の滲み”は引いている。
武臣はそれ以上何も言わない。
ただ、湯飲みの位置を動かし、静かな動作で空気を整えてくれる。
「無理はするな。休憩も、仕事のうちだ」
また、同じ言葉。
でも、その言葉が、今はきちんと支えになる。
「はい」
シエルは頭を下げて、結衣の後ろへ続いた。
部屋から出ると、空気がひんやりと頬に触れた。
人の気配が薄い場所だからこそ、色がほどけたままでも歩けそうな気がして……
――慌てて意識を引き戻す。
(戻す。黒に。――黒髪黒目)
社務所に戻る前に、住居の脇にある洗面所へ入った。鏡の中に、銀がいる。本来のシエル。
結衣が背後から、髪を軽く梳いてくれた。
「はい。整える。下げ髪も、毛先の方向揃えて……で、変身!」
「変身って言わないでください」
「変身でしょ。見た目の設定、切り替えだし」
結衣の指が前髪を整え、それから、白衣の襟元に触れた。
ロザリオ。布の下で、冷たい鎖が肌に触れている。
指先でそれに触れた瞬間、耳の奥がすっと静かになった。
『ほどほどに』
淡々とした声。怒ってはいない。慰めてもいない。
ただ、糸の長さを測るみたいに――
シエルは息を深く吸い、ゆっくり吐いた。
(大丈夫。今は、ほどほどでいい。やることは戻ることだけ。単純に考えよう)
黒を、引き寄せる。
糸を、結び直す。
銀がゆっくり沈んでゆく。髪の根元から色が落ち着き、瞳の碧が深いこげ茶へ変わっていく。視界がわずかに曇る。でも、さっきみたいな崩れそうな曇りじゃない。ちゃんと、守りきれる曇りだ。
「よし」
結衣が、鏡越しに頷く。
「黒髪モード、復帰。ついでに、下げ髪も完璧」
「完璧は、言い過ぎです」
「言い過ぎじゃないよ! ほら、行くよ。由奈が泡吹いて倒れる前に」
洗面所を出ると、雪が待っていた。
待っていた、というより、当然のようにそこにいた。
「にゃ」
「はいはい。先導、ありがとね」
社務所へ戻ると、空気が一段と賑やかになっていた。午前より人が増えている。
「結衣ー! シエルー! こっち、こっち!」
由奈が、社務所の入口から手を振っている。髪が乱れているあたり、一度波が来たらしい。
「ごめん、待たせた?」
「待たせたっていうか、ここがもう祭りのピークっていうか……! 次、子ども向けコーナー回すから! ちっちゃい願い札の 紐結びを手伝ってほしい!」
子ども向けコーナー。武臣の段取りメモにあった"午後の可能性"が、現実になる。
シエルは自分の指先を見た。さっきまで震えていた指が、今は震えていない。
(できる。たぶん。ほどほどなら)
社務所の端に設けられた小さな机。色とりどりの短冊のような願い札と、白い紐が束になっている。
子どもたちが列になって、手のひらサイズの紙を握っていた。泣いている子はいない。笑っている子はいる。
「はい、順番ねー。押さないでよー」
結衣は子どもたちに指示をとばしていた。シエルは隣で、紐を一本ずつほどいていく。
最初の子が来た。小学校低学年くらい。手が小さい。
「お願い、書いた?」
結衣が聞くと、子は頷く。紙の上には、たどたどしい字で「かぞくがずっとげんき」と書いてある。
シエルの息が、一拍止まった。
「じゃ、ここに結ぶの。結び方、教えるね」
結衣が見本を見せる。シエルはその横で、結び目の癖を整えるように指を添えた。
指先が紐に触れる。
その瞬間――また、薄く"糸"が見えた気がした。
空中に、透明な細い線。子どもの願いが、どこかへ伸びる線。
(見えてる? 私だけに?)
怖いより先に、手が動いた。結び目を締める。
すると、子どもの肩がふっと下がった。書いた願いが紙の上から"ちゃんと空へ上がる"みたいに。
「できた!」
子が笑って走っていき、結衣が小声で言う。
「今の、めっちゃ早かったね。ていうか、紐結び職人!?」
「分かりません。手が勝手に……」
勝手に動く指先。勝手に見える糸。
雪が机の下から顔を出して、紐の端をちょいちょいと叩いた。遊んでいるというより、確認しているみたいだった。
『測る』
声が、また耳の奥で鳴る。今度は言葉がひとつ増えた。
『測って、結べ』
シエルは呼吸を乱さないように頷いた。
(分かりました。ほどほどに、測って、結びます)
次の子。その次の子。
願い札の字は、どれも素直で、無垢で、眩しい。
「サッカーがうまくなりたい」
「ねこをかいたい」
「ママとけんかしませんように」
そのたびに、結ぶ。結び目を整える。
ほどほどの力で。
由奈が少し離れたところから、こちらを見ていた。目がキラキラしている。危ないキラキラだ。
(由奈、今、何か変な妄想してそう……)
結衣が由奈の視線に気づいて、目だけで「やめろ」と、圧を飛ばす。由奈は口を押さえて頷いた。が、たぶんやめるつもりはない。
しばらくすると、列の最後に、小さな女の子がいた。紙を握りしめたまま、動かない。
「どうしたの?」
結衣が腰を落として目線を合わせる。
女の子は唇を噛んで、紙を差し出した。
そこには、ひらがなで、ひとこと。
「こわくない」
結衣が一瞬だけ言葉を失って、それから、いつもの声に戻した。
「うん。書けたね。すごいね」
女の子の指は冷たい。震えているわけじゃない。ただ、固く握られている。
シエルは結衣の横で紐を一本取った。
手が自然に動く。でも今度は"早さ"じゃなく、"丁寧さ"を優先した。
結び目を作り、指先で形を整える。締める直前、息をひとつ吸った。
(強すぎず、弱すぎない)
結んだ瞬間、女の子の指から力が抜けた。肩がふっと落ちる。目がわずかに潤んで、それでも泣きはしない。
「できた」
女の子が言う。声は小さいのに、力強い。
結衣が笑って、頭を撫でようとして――やめて、手を振った。
「持って帰っていいよ。ポケットに入れてもいいし、カバンでもいい。"願い札"は、持ち歩けるやつだから」
女の子は頷いて、願い札を胸に抱えて走っていった。
シエルは結衣の横で、こっそりロザリオに触れた。冷たい鎖が、皮膚を刺す。
声はもうしない。けれど、空中の糸だけが、まだ薄く残っていた。
結衣が、シエルの袖をちょんと引いた。
「シエル」
「はい」
「今の、すごく良かった。"巫女"って、こういうことなんだろうね」
シエルは頷くしかできなかった。言葉にしたら、崩れそうだった。
そのとき、社務所の奥から宗一の声がした。
「――シエル。少し、こっちへ」
呼ばれた瞬間、心臓が強く跳ねた。
何かが来る予感がした。
シエルは結衣を見た。結衣は、いつもの顔で頷いた。
「行って。ここは回しとく。雪は貸さないけどね」
「にゃ」
雪が、なぜか得意げに鳴いた。
シエルは一歩、社務所の奥へ踏み出す。そこでまた、空気の色が変わった。紙の匂い。墨の匂い。
そして――見えない糸が、わずかに濃くなった。
(書かれるのかな)
図書室で見た"余白"の文言が、よみがえる。
『ここは、まだ、書かれていない。けれど、書き足すことはできる』
宗一の横顔が、こちらを向いた。
「頼みがある。少し難しいが……」
シエルは緊張しながらも頷いた。
「はい。できる範囲でなら」
"ほどほどに"の声は、今度は聞こえない。でも――測る糸は、そこにあった。
シエルの指先は、もう震えてはいなかった。




