第27話 春の祭礼――墨と糸
春の祭礼は、まだ始まったばかりだった。
社務所の前には、少しばかりの列ができている。
シエルは、案内の声をあげながら、ふと袖口を握った。
(……落ち着いて。今日の私は、普通)
黒髪黒目。
“入学を機に落ち着かせた”という、嘘ではない言い訳。
それを保ち続けるだけで、思ったより体力を使う。
視界の端が、ほんの少しだけ滲む。
気を抜くと、糸がほどけるみたいに、銀が透けそうになる。
背後から、小声が飛んできた。
「シエル、今のうちに交代する? 私、受付いけるよ」
結衣だ。
顔は笑っているのに、目だけが真剣だった。
「……大丈夫です。まだ、いけます」
「まだが付いてる」
「……付けたほうが、正しい気がして」
「正直すぎ」
くすっと笑い合ったところで、由奈が、社務所の奥から顔を出した。
「二人ともー! 御朱印の袋、残り少ないから補充お願い!」
「了解。補充してから、在庫も数え直す」
「え、ほんとにやるの? 神社でプロジェクト管理、ガチなんだけど……」
「段取りが命、って言ったのは由奈でしょ」
「言った。言ったけど、実行する人が怖い」
結衣が袋の束を抱え、シエルも手伝って奥へ入る。
社務所の中は、外の賑わいが嘘みたいに静かだった。
墨の匂いと、紙の乾いた匂い。
人の声は遠く、代わりに、筆が紙を擦る音だけが小さく響く。
宗一が、御朱印帳に筆を運びながら、ちらりと二人を見た。
「ありがとう。助かる」
「いえ……こちらこそ、です」
シエルが袋を棚に積み直すと、雪が当然のように足元へ来て、袴の裾に頭突きをしてきた。
「……雪、仕事中です」
雪は「知るか」と言わんばかりに喉を鳴らし、今度は結衣の足元に鼻先を突っ込む。
「……雪は男の子だから、いたずら好きなんですかね?」
「性別で片付けるのやめてあげて」
言いながら、結衣は姿勢を低くして、雪の首筋をわしゃわしゃと撫でた。
雪は満足そうに目を細め、ふと、シエルの胸元に顔を向ける。
ロザリオ
布の下に隠しているはずの十字架を、雪はなぜか正確に見つめているようだった。
「……だめです」
シエルが押さえるより早く、雪の前脚が、ちょい、と袖を叩いた。
その瞬間
紙の束の端が、ふわりと揺れた。
風が入ったわけでもないのに。
シエルは思わず、息を止める。
さっき鳥居の方で見た“糸”が、今度は、紙と紙の間に細く走った気がした。
(……また)
奥の方で、宗一が筆を止める。
「……シエル」
「は、はい」
呼ばれた声に、つい背筋が伸びた。
宗一は御朱印帳を一冊閉じて、紙を一枚、手元に置く。
「字、書けるか?」
「えっと……普通に、なら……」
「普通でいい。簡単な書き入れを手伝ってくれると助かる。今日は人が多いからな」
言われて、シエルは小さく頷いた。
心臓が少しだけ跳ねる。
書く。
紙に、線を刻む。
それは、図書室で感じた“余白”と、とても近い行為に思えた。
「これ、御札の台紙の裏に、日付だけ入れてくれ。筆ペンでいい」
「はい……やってみます」
結衣が横でニヤッとする。
「シエル、字きれい枠、回収された」
「枠……」
「いや、だってさ。あのノートの字とか、ほんとに優等生なんだもん。中身はたまにおじさんだけど」
「中身の話、しないでください……」
宗一が咳払いをして、二人とも「すみません」と小さく謝る。
由奈はなぜか「尊い……」と呟いた。
シエルは机に向かい、筆ペンのキャップを外した。
紙の白さが、少し眩しい。
手が震えないように、胸元をそっと押さえる。
ロザリオの存在が、指先に伝わってくる。
――落ち着け。
筆先を紙に置く。
日付を、一つずつ入れていく。
さらり。
線が引かれた瞬間、世界が一段階、静かになった気がした。
紙の上に黒が乗ると同時に、紙の外側にも、薄い“線”が伸びる。
まるで、見えない糸で、何かを縫い留めるみたいに。
(……なんだ、これ!?)
怖い、というより、背筋が正しくなる感覚だった。
雑に扱えない。
けれど、嫌じゃない。
由奈が、机の端から身を乗り出してきた。
「ねえ、シエル。いまの、手つき……すごいそれっぽい。巫女っていうより、なんか、儀式」
「……普通に書いてるだけです」
「その普通が違うんだよぉ……!」
結衣が「由奈、距離」と突っ込み、由奈が「ごめん」と素直に引っ込む。
次の台紙へ、次の一枚へ。
数枚書いたところで、ふいに外が騒がしくなった。
子どもの泣き声。大人の困った声。
「……どうした?」
宗一が席を立つより早く、遥が廊下から顔を出した。
「境内で、迷子。お母さんが青くなってる」
シエルの胸がきゅっと縮む。
迷子――それは、すぐに「どうしよう」に直結する言葉だ。
結衣が先に動いた。
「私、探しに行く!」
「りょ!」
由奈が社務所の外へ走り、結衣も続く。
シエルは立ち上がろうとして、ふらり、と視界が揺れた。
(……黒、保って)
意識を集中させる。
銀が透けるな。今は――今はだめ。
その瞬間、耳の奥で、また淡々とした声がした。
『そっちは、違う』
冷たいわけじゃない。
優しいわけでもない。
ただ、決められた糸の長さを測るみたいに――
シエルは、反射的に視線を動かす。
社務所の窓の外。
鳥居の方角ではなく、社務所横の小道、管理用通路へ抜ける脇道。
そこに、ほんの一瞬だけ、細い糸が光った気がした。
そして、その糸の先に、白い影。
「……雪?」
雪が、すっと立ち上がっていた。
耳を立て、迷いのない表情で、小道へ向かう。
(雪が、あっちに行く……?)
迷子、泣き声、糸の光、雪――
全部が一本の線で繋がった気がして、シエルは思わず袴の裾を持ち上げた。
「宗一叔父さん、私……少し外、見てきます」
宗一は一瞬、驚いたように目を見開き、それから小さく頷いた。
「無理するな。……何かあったら、人を呼べ」
「はい」
外へ出ると、境内は人の波で、視界が白っぽく揺れていた。
迷子を探す声が飛び交う。
けれど、雪はその波の外縁をすり抜け、社務所横の小道へ入っていく。まるで「こっち」と言っているみたいに。
シエルは、目立たないように、その後を追った。
小道は、社務所の裏手から、管理用道路へ抜ける細い道だ。
一般の参拝者があまり入らない場所。
そこに、小さな背中があった。
木の根元にしゃがみ込み、背中を丸め、膝に顔をうずめて震える肩からは、漏れ出すような嗚咽が聞こえた。
「……あの」
声をかけると、子どもがびくっと肩を跳ねさせた。
顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃだ。
「……おかあ、さんはどこ?」
「大丈夫。近くに、いる……よ」
シエルは膝をつき、距離を詰めすぎないように、手を差し出した。
雪が、その子の横に座り、しっぽをゆらゆら揺らす。
子どもの目が、雪に吸い寄せられる。
「……ねこ」
「うん。雪っていうの。男の子だよ」
「ゆき……」
子どもが、ぼんやりと雪の頭を撫でた。
雪は満足そうに目を細め喉を鳴らす。
その瞬間、シエルの胸の奥が、すっと落ち着いた。
(……よかった)
助かった、という感覚より先に、糸がほどけずに済んだ、という妙な安堵が来る。
遠くで、結衣の声がした。
「いた! ……いたよ!」
結衣が駆けてくる。由奈も一緒だ。
その後ろから、青い顔をした母親が走ってきて、子どもを抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね……!」
子供の泣き声が、今度は安堵の泣き声に変わる。
周囲の空気が、ようやく柔らかくなった気がした。
結衣が、シエルの袖をそっと引いた。
「……シエル、どうやって見つけたの?」
「雪が、こっちに行ったので……」
「雪、凄すぎない?」
「……神社の猫です、って顔してますね」
「ほんとそれ…」
由奈が、涙目の母親に「大丈夫です、良かったです」と何度も言い、母親が何度も頭を下げる。
その光景の端で、雪は何事もなかったように、シエルの袴の裾に頬を寄せた。
「仕事したぞ」とでも言いたげに。
シエルは、雪の頭をそっと撫でた。
「……ありがとう」
そう呟いた瞬間、視界の端がまた揺れた。
黒が、薄くなる。
(……まずい)
意識して保つ。
でも、今日はもう、糸の張りが限界に近い。
結衣が、すぐに気づいた。
「シエル、戻ろ。休憩。今すぐ」
「……はい」
社務所へ戻る途中、宗一がすれ違いざまに、小さく言った。
「境界の匂いは、やはり変わらないな――
落ち着くまで、しばらく休んでなさい」
シエルは、答えられなかった。
代わりに、胸元のロザリオを服の上から押さえる。
冷たさが、糸を結び直すみたいに、意識を繋いだ。
社務所の奥に戻ると、結衣が湯飲みを押し付けてくる。
「飲む。座る。目、休める。」
「……命令形」
「命令。今日は逃げれる日だから」
その言い方が、なぜだか優しくて――
シエルは湯気を吸い込みながら、小さく笑った。
「……分かりました」
外では太鼓が鳴っている。
人の声も、鈴の音も、まだ続く。
シエルの指先には、さっき書いた黒い線の感覚が残っていた。
紙に刻んだはずの線が、世界にも薄く続いているような、妙な手応え。
――ここは、まだ、書かれていない。
でも、書き足すことはできる。
そう思ったとき、膝の上に、雪が当然のように乗ってきた。
「……重いです」
言いながらも、どかす気になれない。
雪の体温が、ロザリオの冷たさと、ちょうど釣り合っている。
結衣が、くすっと笑った。
「はい。雪、定位置確保」
「……仕事したあとの顔してますね」
「今日のMVPは、雪だね」
雪は目を細め、喉を鳴らした。
その音を聞きながら、シエルは静かに目を閉じる。
糸はまだ張っている。
でも――ほどける前に、結び直せる。
春の祭礼は、まだ続いていた。




