第26話 春の祭礼――境界をくぐる
朝の光は柔らかくカーテンの隙間から差し込む線が、部屋の埃を金色に浮かび上がらせている。
シエルは鏡の前で、前髪をそっと整えた。
黒髪。黒に近いこげ茶の瞳。
学校で通している“いつもの私”を、そのまま今日も連れていく。
(大丈夫。……ちゃんと休憩もあるし)
そう思って息を吐いた瞬間、胸元のロザリオがシャツの内側で小さく光った気がした。
お守りみたいに指で押さえ、鞄に手を伸ばす。
——そして、今日は「天宮家の外」へも出る日だ。
鳴瀬神社。春の祭礼。
階下では、もう結衣の足音が軽く跳ねている。
「シエル、起きてる? 体調はいい感じ?」
「はい。……大丈夫そうです」
「よし。今日は、雪に会えるね」
「……会えますね」
“雪”。
白くて、図々しくて、距離の詰め方が上手い——鳴瀬神社の猫。
呼び名を口にするだけで、胸の奥が少しだけ温まるのが分かった。
車に乗り込むも、街の空気はまだ冷たい。
制服も教科書もない。代わりにあるのは、背筋が少しだけ伸びる「神社の手伝い」という言葉。
結衣が助手席で、カメラの設定をいじりながら言った。
「ねえ、緊張してる?」
「……少しだけ」
「そっか。じゃあ、半分こね」
「半分こ……?」
「緊張は半分こ。雪は、取り合い」
「後半、急に強欲……」
運転席の武臣が、バックミラー越しに笑った。
「雪はともかく……無理はするなよ。具合が悪くなったら、ちゃんと下がって休め」
「はい」
その「はい」に、シエル自身が少し驚いた。
以前なら、“無理するな”なんて言葉は、ただの綺麗事にしか聞こえていなかった気がする。けれど今は、ちゃんと「守られてる言葉」に聞こえる。
山道に入ると、空気が変わった。
杉の匂いが濃くなり、道路の脇に、まだ薄い霧が残っている。
車がカーブを曲がるたび、胸のロザリオがわずかに揺れて、鎖の冷たさが肌に触れた。
九時前。
鳴瀬の山の中腹へ向かう分岐で、武臣はハンドルを少しだけ切る。
「今日は、表参道ではなく裏から入るからな」
舗装の幅が、ほんの少し狭くなる。
一般の参拝者が上がってくる参道とは別の、鳴瀬家と社務所へ抜ける管理用の道。
木立の間を縫うように、車は静かに登っていった。
——その瞬間だった。
視界の端が、薄く白くなる。
もちろん、実際に白い壁があるわけじゃない。
けれど、ここには確かに「線」がある。
日常と、非日常を分ける、薄い膜みたいな境界が…
社務所の裏手、砂利の小さな駐車スペースに車を滑り込ませると、すぐに人影が現れた。先に駆けてきたのは、細身で背の高い青年だった。手には段ボール。肩にはタオル。動きがやたら軽い。
「お、来た来た。おはよ!」
陽斗だ、と結衣が小さく手を振る。
大学生らしいラフさなのに、どこか“場の空気を読む”距離感がある――そんな印象のまま、陽斗の視線がシエルへ移った。
「……で、こっちがシエルちゃん?」
「は、はい。おはようございます……」
陽斗は一瞬だけ目を丸くして――すぐに、面白がるでもなく、からかうでもなく。
ただ、納得したみたいに口角を上げた。
「うん、落ち着いてて……普通に、めちゃくちゃ『お嬢さま』だわ」
「普通に、の圧が強いよ」
結衣が即ツッコミを入れる。
「いや、ほんとに。……で、今日は二人とも巫女さんだろ?
俺、今から駐車場の誘導に戻るけど、またあとでな」
陽斗は段ボールを抱え直すと、奥へ向かって少しだけ声を張る。
「父さーん! じいちゃん達、着いたよー!」
「来たか。おはよう、結衣。……シエルも」
鳴瀬宗一が、穏やかな顔で手を上げる。
“迎えられる”というだけで、胸の奥が少し温かくなる。
「おはようございます、宗一叔父さん」
挨拶をしてから、シエルは一瞬だけ迷う。
“髪と目の説明”を、どのタイミングで出すべきか。
けれど宗一は、先に笑った。
「雰囲気、変わったな。落ち着いた色だ、似合ってる」
「あ、えっと……入学を機に、落ち着いた感じにしたくて。髪も……目も、その……」
「カラコン? 今どきの子は大変だな」
からかうでもなく、ただ当たり前みたいに頷く。その軽さが、ありがたかった。
宗一に案内され、社務所脇の通路を抜ける。
境内へ繋がるところに、小さな鳥居——“裏側の入口”みたいな場所があった。
くぐる瞬間、宗一がふっと視線を細めて、ひとりごちた。
「色は変わっても……
ここの空気のほうが、馴染む子っているんだよな」
「……え?」
「いや。気にするな。さ、遥が待ってる」
気にするなと言われたのに、胸の奥に小さな棘が残る。
けれど、それは嫌な棘じゃない。
図書室で覗いた“余白”みたいに、「まだ言葉になっていない何か」の棘だった。
鳴瀬家に入ると、遥がすぐに出てきて、結衣の肩を軽く叩いた。
「結衣、よくきたわね! ……で、こっちがシエルちゃんね。うん、ちゃんと“学生さん”らしくなってる」
「よろしくお願いします、遥叔母さん……」
「堅くならなくていいよ。今日は“親戚の手伝い”なんだから」
そして、居間から出てきた由奈が、シエルを見た瞬間固まって、次に声をひっくり返した。
「えっ……え!? ……誰!? ……シエル!?」
「あっ、由奈お姉ちゃん……」
「ぐふっ……!
でもなんで!? 黒い! めっちゃ黒い! でも、ちゃんとシエルだ……!」
由奈が両手で口元を押さえ、目をきらきらさせ、結衣がすかさず肩を組んだ。
「ね? 言ったでしょ。シエルは“モード”があるの!」
「何その機能、うらやましい……」
「機能じゃないです……」
そう突っ込みながら、シエルは笑ってしまう。
由奈のリアクションは騒がしいのに、悪意が一ミリもない。
だから怖さが勝手に溶けていく。
着替えは奥の部屋で、遥に手伝ってもらった。
白衣を羽織り、紐を締め、袴の腰板を合わせる。
布が重なるたび、体の輪郭が「役目」に合わせて整っていく感覚がある。
「次、髪ね」
遥は手慣れた動きで櫛を取り出し、シエルの背中側へ回った。
鏡の中で、黒い髪が肩にかかっているのが見える。
「巫女さんの髪型って、派手じゃなくていいの。
ただ――神様の前だから、“きれいに整える”のが大事」
櫛がすっと入る。
細い音がして、頭の熱が落ち着いていくみたいだった。
遥は髪を結ばず、きちんと梳いて、左右の流れを揃える。
顔まわりだけ、黒いアメピンで目立たないように留めた。
――下げ髪。
背中に落ちる黒が、白衣の白と袴の朱を、妙に際立たせる。
「……うん。似合う。ちゃんと“鳴瀬の巫女”の顔」
その言い方が、胸に小さく刺さった。
“鳴瀬の”という言葉が、他人行儀じゃなく、親戚としての距離感で言われたからだ。
最後に赤い紐が結ばれた瞬間、鏡に映った自分が、ほんの少しだけ「知らない誰か」に見えた。
でも——確かに自分のままだった。
「……似合う」
小さく言うと、隣で結衣がニヤッとする。
「はい優勝」
「やめてください…」
「写真撮っていい? 背中だけとか、境内の端っことか」
「……条件付きで、です」
「了解しました、艦長」
そこに、隣の部屋から武臣の咳払いが入った。
「艦長呼び、やめろ」
笑いが起こる。
鳴瀬家の空気は、天宮家とは違うのに、似ている気がする。
“怖さ”にクッションをかけてくれる温かさがある。
午前中は、境内の掃除から始まった。
箒で落ち葉を集め、参道の端の砂利を均し、紙垂が風で絡まないように整える。
その途中で——足元に、ふわりと温かいものが触れた。
白い猫。
「雪……」
名前を呼ぶより早く、雪は当然のようにシエルの足に頬をこすりつけた。
それから、するり、と袴の裾の横に入り込み、ちょこん、と座る。
まるで「ここが自分の場所です」と言わんばかりに…
「いた!」
結衣が小声で叫び、カメラを構える。
雪は結衣を一瞥すると、やっぱり当然のようにシエルを選び直して、目を細めた。
「……え」
「シエル、雪に好かれすぎ問題!?」
「えっと……私、何もしてないです」
「それが一番強いんだよ……!」
由奈が笑い、結衣が悔しそうに唇を尖らせ、雪は我関せずと喉を鳴らす。
写真は——参道の端、参拝客のいない角度で。
雪と巫女装束の袖だけが写るように、結衣が妙に真剣な顔でフレーミングを行う。
「よし。家族アルバム用。世界に出さない。倫理クリア」
「倫理って言うな」
宗一の声が飛んで、また笑いが起こる。
昼前からは、社務所での手伝い。
お守りの補充、紙袋や簡単な案内用印刷物の用意。
結衣は受付横で在庫のメモを取り始め、由奈に「それ何?」と聞かれて即答した。
「数がズレると地獄見るから、最初から整えておくの。プロジェクト管理」
「神社でプロジェクト管理……」
「神事も段取りが命!」
由奈が笑って、遥が「助かるわ」と頷く。
結衣は得意げに胸を張り、ピースをした。
シエルは、紙の束を揃えながら、ふと「字」のことを思い浮かべていた。
図書室のプリント。弓道のメモ。自分の筆跡。
——紙と墨。
手元の書類に、鉛筆で小さくチェックを入れる。
そのとき、無意識に胸元へ指が触れた。
ロザリオの存在が、ほんの少しだけ“線”を引く。
(黒を保つの、今日は……意外と、重い)
学校の一日とは違う緊張感がある。
黒髪黒目モードを、半日以上続けるのは、今の自分でも簡単じゃない。
視界の端が、少しだけぼやけ、手がわずかに震えた。
意識して「黒」を保とうとしないと、銀色が透けてしまいそうな危うさがある。
そのとき——耳の奥で、かすかな声がした。
『ほどほどに』
女性の声。
怒っているわけでも、優し気なわけでもない。
ただ、糸の長さを測るみたいに、淡々としていた。
シエルは息を呑んで、周囲を見回す。
もちろん、社務所の中にそれらしき“誰か”の姿はない。
(……疲れてるだけ)
そう思い、ロザリオを指で押さえた。
存在感が、逆に落ち着きをくれる。
「……シエル?」
由奈の声で我に返る。
「次、御朱印帳の袋、お願い!」
「はい……!」
返事をして、袋を取り出す。
手はもう震えていない。
ちゃんと、戻ってきている。
祭礼が始まる頃、境内は少しだけ賑わっていた。
太鼓の音。鈴の音。子どもの笑い声。
向こう側に、人が増えていく。
シエルは社務所の端で、案内の声をあげながら、ふと鳥居の方を見た。
鳥居の下。
空気が、薄く揺れている。
それは図書室の棚の隙間とは違う揺れ方だった。
紙ではなく、風。
風の中に、糸みたいなものが一瞬だけ見えた気がして——
そのとき、参道の端でスマホを構える人が見えた。
観光客だろうか。背景の鳥居と一緒に、こちらも入れようとしている角度。
結衣が、すっと前に出た。
「すみません。写真は、参拝客の方のご迷惑になるので……ここの撮影は控えてもらえますか」
柔らかい声なのに、引かない目線。
相手が「あ、すみません」と慌ててスマホを下げる。
結衣が戻ってきて、小さく息を吐いた。
「ふう。危ない、危ない。あれ、上げられてバズったら目立ちすぎる」
「バズりません……たぶん」
「たぶん、が付くのが怖いんだよ!」
笑いながら、シエルは胸の奥でそっと確認する。
(……守られてる)
黒髪の私も。 銀髪の私も。 余白の私も……
まだ書かれていない空白は、確かに怖い。
でも、今日はそこに——ほんの一文くらいなら、書き足せる気がした。
春の祭礼は、まだ始まったばかりだった。




