第2話 進路指導と「居場所」の話
冬が終わりきらない午後の光が、職員室の窓から斜めに差し込んでいた。
海に近いこの町は、曇っていないのにどこか白っぽく霞んで見える日が多い。
今日も、そんな日だった。
「……それじゃあ、改めて、おめでとうね、シエルちゃん」
簡素な机の向かい側で、シスター・藤堂が柔らかく笑う。
年季の入った修道服に、薄い眼鏡。
慈愛の家の「進路担当」として、三年生とは何度も話をしてきた人だ。
机の上には、私立星ヶ丘女学院高等学校――通称:星女の校章が印刷された封筒が置かれている。
すでに開封済み
中には、合格通知と、特待生制度の案内が入っていた。
「授業料全額免除、って、本当にすごいことなのよ…
星女さん、最近は倍率も高いって聞くしねえ」
「……運がよかっただけです」
シエルは、目線を宙に泳がせながら答えた。
謙遜半分、本心半分、
受験は、もう全部終わっている。
公立の滑り止めにも合格していたが、費用面を考えれば、星女の特待以外の選択肢はほとんど現実味がなかった。
「運も実力のうちよ」
シスターはそう言って、書類の端を指でそっと揃える。
「で、高校に上がってからの生活だけど…
慈愛の家の規則上、シエルちゃんは高校卒業まで、ここに居ていいのは知ってるわよね」
「はい、一応、説明は、聞きました」
慈愛の家では、原則として十八歳――高校卒業まで、希望すれば在籍できる。
昔は中学卒業で出る子も多かったと聞くが、今は進学を前提にした制度に変わっていた。
それは、ありがたいことのはずだ。
少なくとも、路頭に迷う心配はない。
「星女に通うなら、通学距離もギリギリ許容範囲だしね
電車一本で行けるし、朝のミサには出られない日もあると思うけれど、それは仕方ないとして」
淡々とした実務的な言葉。
けれど、その奥には「ここを出て行かなくてもいいのよ」というメッセージが滲んでいた。
シエルは、膝の上で組んだ手に少し力を入れる。
「……高校を出たら、どうなりますか」
「それは、シエルちゃん次第よ」
即答だった。
「専門学校に行きたいっていう子もいるし、働きながら夜間に通う子もいる。公営の自立支援の仕組みも、前よりはずっと整ってきたわ。もちろん、早く自立したいって思うなら、それも応援するし」
「ここに、残るという選択肢は」
「職員として、ってこと?」
「いえ、その……そういうのも、あるのかなって」
自分でも、言葉にしながら違和感を覚える。
「残る」という表現が、なぜか喉に引っかかる。
シスターは少しだけ目を細めた。
「シエルちゃんが本当に望むなら、そういう道も探せるかもしれないけどね。
ただ――」
そこで言葉を切り、ほんの一瞬だけ迷うような表情を見せる。
「ここは、子どもたちが一時的に過ごす場所でもあるの
“ずっとここにいるための場所”では、あんまりないのよ」
それは、優しくも残酷な現実だった。
慈愛の家は、たしかにシエルの「生活の場所」だ。
けれど、「居場所」と呼ぶには、どこか心許ない。
他にも、そういう子はいる。
中学を出たあとも、高校を卒業するまでここで暮らす予定の子が、何人か…
それでも、最終的には、誰もが外に出て、自分で生きていかなくてはならない。
「ねえ、シエルちゃん」
シスターが、少し身を乗り出す。
「高校を出たあと、どんな大人になっていたいか、って考えたことはある?」
「……正直に言ってもいいですか」
「もちろん」
「特に、ありません」
沈黙が落ちるかと思ったが、シスターは笑った。
「正直でよろしい」
からかっている訳ではなさそうだった。
「私だって、高校生のとき“将来の夢はシスターになることです”なんて、これっぽっちも思ってなかったもの。
せいぜい、“どこでもいいから、ちゃんと働いて、自分の生活を自分で回せたらいいな”くらいで」
「……そうなんですか」
「そうなのよ
だから、今の時点で“これが天職です”なんて決まってなくて当然
ただね――」
シスターは、窓の外の光に視線を向けた。
「どこで、誰と、どうやって生きたいか…
それは、ぼんやりでもいいから考えておいて損はないわ」
どこで
誰と
どうやって
言葉が、胸の中で順番に反芻される。
どこで――
少なくとも、「ここ」ではないような気がした。
「……考えておきます」
そう答えるのが、精一杯だった。
夕方、食堂に戻ると、いつもの喧騒が待っていた。
長テーブルがいくつか並んだ広い部屋、年少組が走り回り、年長組がそれを適度に制止しながら、ご飯を運んでいる。
「あ、シエルねえだ」
「今日おそかったー」
小学校低学年の女の子が、エプロン姿のまま駆け寄ってくる。
両手にまだ皿を持っているのを見て、思わず受け取った。
「走りながら運ぶのは禁止って、前にも言われたよね」
「だって間に合わないんだもん」
「だからってね」
軽くたしなめつつ、配膳を手伝う。
手順はすでに身体に染み付いていた。
この食堂で何度、同じように夕飯を並べてきたか
この天井を見上げ、同じ蛍光灯を見つめてきたか
「ねえねえシエル、“とっかたいせい”なんでしょ?」
隣でお皿を並べていた小学生の男の子が、興味津々といった顔で囁いてくる。
「“特待生”」
「おんなじでしょ」
「全然ちがうよ」
笑いつつも、内心では少しだけ肩が重くなる。
星女の特待の話は、もう子どもたちにも広まっていた。
「すごいよなー、星女なんて、お嬢様学校ってやつじゃん」
「お嬢様じゃないよ、ただの制服がかわいい高校だよ」
「うそだー、絶対偉い人たくさんいるよ」
「偉い人って何」
そんな会話をしていると、ふいに別の声が割り込んできた。
「でもさ、すごいことには変わりないじゃない」
高校進学を控えた同世代の女の子、真由が椅子の背にもたれてこちらを見る
彼女は市内の公立高校に進む予定で、寮ではなく、卒業と同時に自立支援付きのアパートへ移ると聞いていた。
「シエルはさ、ここから通うの?」
「今のところは、その予定」
「ふーん
なんかさ、“帰る家がある”って感じで、ちょっと羨ましいな」
「……そう?」
「ここさ、私にとっては“一時的な避難所”って感じだから」
真由は天井を見上げて、肩をすくめる。
「もちろん感謝はしてるよ
でも、“ずっといたい場所”ではないかなって」
その言葉に、わずかに胸が騒いだ。
自分は、どうだろう…
ここを「帰る家」だと思ったことがあっただろうか…
「シエルはさ」
真由が、こちらに視線を戻す。
「どこを“帰る場所”だって思ってる?」
答えに詰まる。
ここ?
星女?
まだ見ぬ将来のマンションかアパートか…
あるいは――
「……分からない」
正直にそう口にすると、真由は「だよねー」と笑った。
それは、からかうのではなく、共感に近い響きだった。
その夜、シエルは一人で礼拝堂にいた。
日中は柔らかい光が入るステンドグラスも、夜になるとただの暗い壁になる。
祭壇の上に灯されたろうそくの火だけが、小さく空気を揺らしていた。
木のベンチに座り、背筋を伸ばす。
膝の上には、使い込まれた薄い聖書
ページの端はところどころ擦り切れている。
この時間帯、ここにいるのはたいていシエルだけだった。
自習の続きがしたいときも
頭の中が騒がしいときも
つい、ここに足が向いてしまう。
祈るため、というわけではない
ただ、この空間の静けさが、嫌いではなかった。
祭壇の上には、素朴な天使像が置かれている。
優しい顔をした、翼のある子どもの像。
きっと「守りの象徴」として置かれているのだろう…
(守り、ね)
心の中で呟く…
もし本当に、天使とやらがいるのなら、どうしてこの世界には、こんなに理不尽なことが溢れているのだろう…
ここに来る子どもたちの事情は、だいたい耳に入ってくる。
家族を失った子
暴力から逃げてきた子
手放された子
神や天使が守っている世界
祈りが届いている世界
そういうものだとするなら、この教会のベンチに座る子どもたちは、もっとずっと少なくていいはずだ。
シスター・藤堂は、神と天使を信じている。
下の子たちの何人かも、純粋な目をして「お祈りすれば天使が守ってくれる」と言う。
そのたびに、ほんの少しだけ、心が重くなる。
(天使なんて、本当にいるのかな…)
声に出さずに問う
別に答えを期待しているわけではない。
もし、いるとしても、きっと自分には関係のない遠い存在だ。
どこか高いところで、別の誰かのことを見ているだけの…
シエルは、膝の上で聖書を閉じる。
ページがぱたんと重なり合う音が、やけに大きく響いた。
バッグの中には、勉強用に買った伊達メガネが入っている。
レンズは度なし…
ただ、かけると少しだけ「勉強モード」のスイッチが入る気がして、試験前はよく使っていた。
今は、かける気になれなかった。
そんな気合の入れ方をするほど、今抱えているものは「勉強」ではない気がしたからだ。
代わりに、バッグから小さなノートを取り出し、ページを開く
これからの支出の見通しや、進学後のアルバイトの候補
自立までに必要なお金のざっくりとした計算
神さまよりも、天使よりも…
今の自分にとって切実なのは、そちらの方だった。
ボールペンが紙の上を走る音だけが、礼拝堂に静かに積もっていく。
(どこに行くにしても、結局、最後に頼れるのは、自分しかいない)
そう思うことでしか、自分を保てない夜がある。
ろうそくの火が、ふっと揺れたような気がした。
誰かが答えを返そうとしたのかもしれないし、ただの風のせいかもしれない…
シエルは顔を上げずに、ペンを走らせ続けた。
天使を信じるには、この世界での経験が少なすぎた。
そして、まだ…
本物の天使を見たことはない…
少なくとも、このときの彼女は、そう信じて疑わなかった。




