第25話 鳴瀬神社――黒のままで
その日の夕食が終わり、テーブルの上には食器と湯呑の湯気だけが残っていた。
シエルは食器を台所へ運ぶのを手伝い、ふと時計を見る。
まだ、夜と言うには少し早い時間帯。
「よし、今から――少しだけ“家族会議”だ」
美穂がテーブルを拭き終えると、武臣がわざとらしく咳払いをした。
その声に、シエルも結衣も自然と姿勢を正す。
「悪い話じゃないですよね?」
「悪い話だったら、もっと怖い顔してるから大丈夫」
結衣がそっと耳打ちしてきて、シエルは小さく笑う。
リビングのソファに、武臣と美穂、咲とシエル、結衣が向かい合って座る。
テーブルの上には、温かいお茶。
「まあ、その前にだ」
武臣が湯呑を手に取りながら、シエルを見た。
「シエル、高校のほうはどうだ。……学校にも、部活にも、少しは慣れてきたか?」
「えっと……はい。まだ分からないことも多いですけど……」
シエルは言葉を選びながら答える。
「クラスの子たちも優しいですし、弓道部は、仮入部で何回か行かせてもらってます」
「弓道か」
武臣の目が、わずかに柔らかくなる。
「性に合ってそうだな。あんまりガチャガチャした部活より、シエルには向いてるかもしれん」
「……私も、そんな気がします」
「結衣はメディア部だったか?」
今度は結衣に視線が移る。
「うん、週一か二くらいで、動画とか編集とかいろいろ。
まだ“見学&お試し”って感じだけど」
「で、シエルは――弓道一本でいくか、メディア部も兼ねるか、迷ってるところだな?」
図星で、シエルは思わず目を瞬かせた。
「……はい。どっちも楽しそうで」
「特待生だからって、何もかも我慢しろとは言わん」
武臣はゆっくりと言葉を継ぐ。
「ただ、勉強あっての部活だってことだけは、忘れないでいてくれればいい。
自分で『これならちゃんと両立できる』って思えるものを、時間をかけてでも探すことだ」
「……はい」
真正面から受け止めて、シエルは小さく頷いた。
(ちゃんと、見てくれている)
そう思うと、胸の奥が少し温かくなる。
「で、本題はこれからなんだが…」
武臣が湯呑をテーブルに置き、今度は二人をまとめて見やった。
「結衣から話を聞いてると思うが……鳴瀬神社から、“春の行事の手伝い”の打診が来てる」
鳴瀬神社――
山の中腹の石段。澄んだ空気。畳の匂い。
春休みに訪ねたあの景色が、胸の奥にふわりと立ち上がる。
「由奈からLINEで、来てたやつね」
結衣が補足する。
「うむ。電話でだが宗一とも話した」
武臣は、どこか仕事モードの口調で続ける。
「今週末、鳴瀬神社の春の祭礼でな。例年より参拝客が多くなりそうだってことで、人手が欲しいらしい。具体的には――」
指を折りながら、項目を挙げていく。
「境内の案内と、お守り・御朱印あたりの手伝い。それから、子ども向けの縁日コーナーの見守り、片付け。時間は朝から夕方まで。途中でちゃんと休憩と昼食もある」
「……本気のやつだね」
結衣が苦笑する。
「本気のやつだな」
武臣も少し笑ってから、真顔に戻った。
「で、宗一のほうからは、シエルにも来てほしいと。 “あの子が境内にいると、空気の澄み方が違う”って、えらく買ってる」
その言い方が、どこかくすぐったい。
シエルは思わず視線を落とした。
(……銀髪のときの、私を)
初めて鳴瀬の家を訪ねた日。
自分は、銀髪で、碧い瞳のまま、あの石段を登った。
それでも、鳴瀬の人たちは「怖がる」でも「物珍しがる」でもなく、ただ親戚として受け入れてくれた。
(今度は、違う姿で行くことになるのだろうか…)
黒髪と黒い瞳。
高校では、この姿が“普通”になりつつある。
でも、鳴瀬でどう説明すればいいのか――その不安が、胸の奥で小さく渦を巻いていた。
「一応、確認しておくぞ」
武臣が、意識して声を柔らかくする。
「星ヶ丘は、原則アルバイトは禁止だ。だが、今回は“親戚の神社の行事を手伝う”という扱いで、学校にも話は通す。謝礼も、いわゆる『お小遣い程度のお礼』の範囲にしてもらうつもりだ」
「先生にも言う、ってことですか?」
「ああ。高梨先生にも、明日、結衣づてに伝言を渡してもらう。
“親戚の神社の春祭りの手伝いで、一日だけ休む可能性がある”ってな」
そこまで聞いて、シエルは少しだけ肩の力が抜けた。
(ちゃんと、正面からやってくれる)
自分が無許可でどこかへ行って、あとで怒られる――
そんな展開にはならないと分かって、ほっとする。
「もちろん、断るのも自由だ。シエルが、まだ余裕はないって思うなら、今回は見送ってもいい」
武臣の言葉に、シエルは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……行きたいです」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。
「鳴瀬神社のこと、もっと知りたいですし。鳴瀬のみなさんのことも……親戚として、ちゃんとお手伝いしたいです」
横で、結衣が嬉しそうに笑う。
「うちもセットで。由奈からのメッセージ、シエルと私二人って前提だったしね」
「そうだな。宗一からも『シエルと結衣、二人来てくれたら助かる』って言われてる」
武臣が納得したように頷いた。
「二人とも、体力的にきつくなったら、途中で抜けてもいい。そのへんは宗一と遥にも話を通しておく」
「はい」
答えながら、シエルは胸元のロザリオを、服の上からそっと押さえた。
「で、もうひとつ大事な問題」
結衣が、ぽん、と手を打つ。
「髪と目、どうするか問題」
たしかにそれは、見逃せないテーマだった。
「春休みに行った時は、シエル、銀髪碧眼フル装備だったからねぇ……」
結衣が横目で見る。
美穂も、少し苦笑いを浮かべた。
「今回は、高校のルールもあるしね。黒髪黒目で通ってるって話は、鳴瀬にも伝えてあるわ」
「……そうなんですか?」
「うん。“学校の方針もあるし、髪は落ち着いた色にした”って。宗一さんたちも、『今どきの子だし、そのくらいはあるよね』って感じで笑ってたわよ」
武臣が腕を組む。
「だから、鳴瀬には“髪を黒くした”ってことで通す。目の色についても――」
「そこは、“黒いカラコン入れました”で行こうかと」
自然に、結衣の言葉が続く。
「ほら、前からシエル、“勉強用メガネ”とか小道具をうまく使うタイプじゃん。あれと同じノリで、“落ち着きたいから黒コンにしました”って言えば、納得されると思う」
「カラコン……」
前の人生では、そこまで外見をいじろうと思ったことはなかった。
でも今は、鏡の前で“黒髪モード”と“銀髪モード”を切り替える自分がいる。
「一応はね」
咲が指を折る。
「カラコン自体は、度なしのやつを買っておくといいわ。ケースごと持って行って、由奈に『これ予備だけど同じの入れてる』って見せれば説得力も出るし…」
「でも、実際には――」
「実際には、入れなくていいわ」
咲はあっさりと言い切った。
「シエルの“黒髪黒目モード”で行けば、それで十分だし…
カラコンは“物理証拠”として持っとくだけね」
武臣も、静かに頷く。
「無理に目に異物を入れて、体調崩しても仕方ないからな」
「……なるほど」
シエルは小さく息を吐いた。
(“黒髪と黒い瞳の私”で、鳴瀬神社へ)
銀髪だった頃の自分と、今の自分。同じ場所に、違う姿で立つことになる。
それでも――鳴瀬の人たちなら、きっと受け止めてくれる。
そんな予感があった。
「あと、もう一点」
今度は、美穂が口を開いた。
「結衣がさっき、こっそり聞いてきたんだけど……“巫女姿、写真撮ってもいい?”って」
「おばあちゃん!」
結衣が慌てて抗議する。
「写真は、条件付きで」
武臣が咳払いして、三本の指を立てる。
「一つ。参拝客や、他の子どもたちの顔が映り込まないように撮ること。
二つ。ネットには上げない。SNSも含めてな。
三つ。鳴瀬の家族にもちゃんと見せた上で、“これは家族アルバム用です”って筋を通すこと」
「了解しました、艦長」
結衣が敬礼のポーズを取り、すぐ後でくすっと笑う。
「ローカル保存オンリーね」
「……私の変な顔の写真は、消してほしいです」
「それは約束できません」
「ひどい」
くだらないやりとりなのに、胸の中の不安が少しずつ溶けていく。
「じゃあ、当日の段取りを決めておこうか」
武臣がテーブルの端からメモ帳を取り出し、さらさらと書き始めた。
「当日は、朝八時に家を出る。
車で鳴瀬まで行って、九時前には神社に着く予定」
「朝、早い……」
「春祭りの日は、準備もあるからな。
着いたら、まず鳴瀬家で挨拶して、着替える。
シエルと結衣の巫女装束は、向こうで用意してくれるそうだ」
「サイズ、大丈夫かな……?」
結衣が自身の体を見下ろすと、美穂が笑う。
「由奈から、二人のサイズはだいたい聞かれてるから大丈夫よ。どうしても合わないところがあったら、紐で調整すればいいし」
「着替えのあと、午前中は境内の掃除と、参道の点検。昼前からは、お守りと御朱印の受け付けの補助に入る予定だ」
「御朱印……」
シエルは、ほんの少しだけ喉が鳴った。
紙と墨。
図書室の棚と、どこかでつながっているような感触。
「シエルは、最初は受付の横で、お守りの補充や、書類の整理を手伝ってもらいたいそうだ」
「はい」
「午後は子ども向けのコーナーの手伝いにも入ってもらうことになるかもしれん。そのへんは当日の流れ次第だ」
メモに走り書きされた字が、だんだん予定表の形になっていく。
「休憩は、午前に一回、午後に二回。
途中で具合悪くなったら、遠慮なく鳴瀬家のほうに下がって休め」
「……分かりました」
本気の仕事。
でも、その中にちゃんと“逃げ道”が用意されているのが、ありがたかった。
ひと通り話が終わると、リビングの空気がふっと軽くなる。
「質問はあるか?」
武臣が訊ねると、結衣がすかさず手を挙げた。
「鳴瀬の猫も写真撮りたい!」
「ああ、あいつか」
武臣が思い出したように目を細める。
「宗一のところの、あの白いのは雪といっか…
“最近、神社のほうに居着く時間が長くなってる”って言ってたな」
「神社と猫…たくさん写真撮りたい!」
「それも、ちゃんと許可取ってからな」
「はーい」
シエルは、そのやりとりを聞きながら、小さく笑った。
(鳴瀬神社の猫……また、会える)
春休みのあの日、足元にすり寄ってきた温かさを思い出す。
自分が黒髪であろうと銀髪であろうと、きっとあの猫は気にしない。
それだけで、少し勇気が出た。
その夜、部屋に戻ってからも、シエルはしばらくベッドの上で仰向けになって天井を見ていた。
(鳴瀬神社で、黒髪の私……)
高校の制服
弓道場
図書室
そして、山の中腹の神社
世界のいろんな場所に、少しずつ、自分の“居場所”が増えていく。
(書かれるかな…)
図書室のカードに浮かんだ言葉を思い出す。
――ここは まだ 書かれていない。
鳴瀬神社で過ごす一日が、その余白に一文を刻むかもしれない。
怖さと、少しのわくわくを抱えながら、天宮シエルは、静かに目を閉じた。
春の祭礼の日は、もうすぐそこまで来ている。




