第24話 弓道場と二人の距離感
入学式から四日目の朝。
天宮家の門を出た瞬間、風が桜の花びらを舞い躍らせ、足元に落ちたそれは、踏まれる前にひらりと回って、道の端へ逃げていく。
「……散り始めましたね」
隣を歩く結衣が、うん、と小さくうなずく。
「咲いてる時は永遠に続けって思うのに、散り始めると早ってなるよね」
「分かります」
並んで歩くこの道も、まだ新しいのに、少しずつ“日常の”輪郭を帯びてきた。
校門が見えてきたところで、結衣がちらりとシエルの横顔を覗く。
「今日、放課後は弓道?」
「はい。仮入部で、もう一回行ってみようと思います」
「ほのかちゃんも?」
「来るって言ってました」
「じゃ、私は先に帰ってるかも。三組、ちょっと用事があって」
「無理しないでくださいね」
「それ、こっちのセリフ」
軽く手を振り合って、結衣は三組の階へ、シエルは一年一組へ向かった。
一年一組の教室。
席に鞄を置くと、前の席の相田ほのかが、待ってましたと言わんばかりに振り返った。
「おはよ、天宮さん。例の“好きな場所紹介文”、今日提出だっけ?」
「おはようございます。……明日までだったはずです」
「うわ助かった。まだ途中なの」
ほのかは机に突っ伏して、情けない声を出す。
「弓道場のこと書くって決めたんだけどさ、“静かで落ち着く”しか出てこなくて。あと資料引用ってやつ、むずいんだよね」
「昼休みに図書室で一緒にやります?」
口に出してから、心臓が少し跳ねた。
昨日の図書室――棚の端の“余白”が、一瞬だけ頭をよぎったからだ。
けれど、ほのかの顔がぱっと明るくなる。
「いいの!? 天宮さん、マジ天使……」
「天使じゃないです」
「じゃあ救世主。とにかくお願い!」
勢いに押されて小さくうなずいたとき、ほのかがふと、声の調子を落とした。
「ね、天宮さんって呼ぶの、なんかさ。固くない?」
「……えっ」
「私、別に“さん付けしないと失礼”って距離じゃなくていいかなって思ってるんだよね。」
ほのかは照れたみたいに鼻の頭をかく。
「シエル、って呼んでいい?」
呼ばれる想像だけで、胸の奥がこそばゆくなる。
でも――嫌ではなかった。
「……はい。大丈夫です」
「よし。じゃ、ほら」
ほのかが、わざとらしく胸を張る。
「シエル。昼休み、図書室ね」
その呼び方は、たった二文字なのに、距離を一気に縮める。
「……じゃあ、私も」
シエルは少し迷ってから言った。
「ほのか、って呼んでいい?」
「もちろん! 呼び捨てで!」
ほのかがにっと笑って、指でピースを作る。
「はい、今日から“ほのか”と“シエル”。決まり!」
その瞬間、教室の空気がほんの少しだけ彩づいた気がした。
昼休み。
二人で図書室へ向かい、扉を開けると、紙と木と静けさの匂いが、昨日と同じように迎えてくれた。
(落ち着く……)
奥の棚を思い出して、胸の底に小さな棘が触れる。
けれど今日は、そこに近づきすぎないと決めていた。
ほのかは弓道の本を開き、嬉しそうに指を滑らせる。
「見て見て。“胴造り”とか“弓構え”とか、名前がもう強そう」
「強そう、じゃないと思う…」
そう返した瞬間、ほのかが吹き出しそうな顔になる。
「え、いまの“シエル”感あった」
「何それ……」
笑いをこらえながら、シエルはプリントの指示を指でなぞった。
「引用は短く、要点を一文で拾って、そのあと自分の言葉で続ける形がいいと思う」
「なるほど。じゃあ、ここ――“呼吸を整えることが射の前提である”って感じの一文、使える?」
「うん。そこ、いいと思う。ほのかの“静かで落ち着く”って感想にもつながるし」
ほのかは一度頷いてから、少しだけ真面目な目をした。
「……シエルさ。なんか文章の作り方、うまいよね。説明が優しい」
「そんなこと……ない」
否定しかけて、やめた。
“受け取る”って、弓道場でも言われた。
「……ありがとう」
ほのかの目が丸くなる。
「うわ、今の“ありがとう”は刺さる。シエル、たまにまっすぐすぎる」
「ほのかが大げさ」
「大げさでも助かるから言うの!」
静かな図書室で、二人の小さな笑いが、ページをめくる音に混じって消えていった。
放課後。
弓道場は今日も、騒がしさとは別の“気配の多さ”があった。仮入部の一年生が何人か来ていて、廊下の空気が少しだけ温かい。
「いらっしゃい。天宮さん、相田さん」
宮坂先輩が穏やかに出迎えてくれる。
シエルとほのかは顔を見合わせて、小さく頷いた。
(先輩の前では、“さん”に戻そう)
(うん、そこは礼儀)
口に出さずに意思疎通ができてしまうのが、少し可笑しい。
「まずは礼。弓道はね、道具を触る前に気持ちを整える」
一礼。足踏み。胴造り。
余計な力を抜く。呼吸を深くする。
「相田さん、いいね。足がちゃんと地面を掴んでる」
「元・陸上の亡霊です」
「天宮さんは……肩が上がりやすい。息を一回、深く」
「はい」
吸って、吐く。
肩が落ちると、世界の輪郭が少しだけ静まる。
宮坂先輩が小さくうなずいた。
「うん。今の感じ。
“当てる”より先に、“整える”ができる子は伸びるよ」
「……ありがとうございます」
ほのかが横で、わざとらしく腕を組む。
「ね、天宮さんもう“整う系女子”じゃん」
思わず、先輩の前なのに笑いそうになった。
でも、その笑いが場を壊さないのが、弓道場の不思議なところだった。
練習の終わりに、二人は素引きを少しだけ体験させてもらう。
本物の弓は、ゴム弓より重くて冷たくて、一本の線のようにまっすぐだった。
「怖くない?」
宮坂先輩に聞かれて、シエルは正直に答えた。
「少しだけ。でも、嫌じゃないです」
「それなら向いてるよ。怖さって、雑に扱えないってことだから」
胸の奥に、その言葉が残った。
怖さは、悪いものじゃない。
大事なものを、大事にするための感覚なのかもしれない。
校門を出て坂道を下り始めた桜並木の下で、結衣が待っていた。
スマホを片手に、いつもの調子で手を振る。
「おかえり、弓道コンビ」
「結衣ちゃん!」
ほのかが先に声を上げる。
「今日も良かったよ! ね、シエル」
呼び捨てが自然に出て、結衣が一瞬だけ目を瞬かせる。
「お、呼び方変わった?」
「うん。ほのかって呼ぶことにした」
「シエルも、呼び捨てでいいって言ってくれたから!」
ほのかが得意げに胸を張る。
「いいじゃん。距離が縮むやつ。青春」
「……青春って便利な言葉」
シエルが小さく突っ込むと、結衣は笑ってから、スマホを握り直した。
「で、ここからが相談なんだけど」
結衣の声のトーンが、少しだけ変わる。
「昼休みにさ、由奈からLINE来たの。今週末、鳴瀬神社の春の行事で、人手が足りないって」
鳴瀬神社――その名前が出た瞬間、シエルの中で石段の景色が浮かび上がる。
鳴瀬家を訪ねた日の、あの空気。
「鳴瀬神社……」
「うん。由奈が“巫女さんの手伝い、できそう?”って。
バイトってほどじゃなくて、親戚の手伝いみたいな感じらしいけど」
結衣は、軽い調子を保ったまま、目だけを真面目にした。
「でね。由奈からの相談は相談として、帰ったらおじいちゃんから話があるだろうって。 たぶん、大人同士でちゃんと筋を通したいんだと思う」
“正式に”という言葉が、少しだけ背筋を正す。
「……分かりました」
シエルが答えると、結衣はほっとしたみたいに笑う。
「無理なら断っていいからね。シエルは今、学校のリズム作ってる最中だし」
「うん。でも……鳴瀬神社なら、一回行ったから」
「そうそう。私も行くし“知らない場所に放り込む”感じじゃないのが救い」
ほのかが横で、目を輝かせる。
「え、鳴瀬神社ってあの? 巫女さんって……シエル、絶対似合う!」
「似合うかどうかは、まだ分からないよ」
けれど、嫌な想像ではなかった。図書室で覗いた“余白”みたいに、まだ書かれていない行が、そこにもある気がする。
桜の花びらが、三人の足元をもう一度だけ舞っていった。
踏まれそうになっても風がさらっていく。
弓道場の静けさ。
名前の距離。
そして鳴瀬神社の白い境界。
世界は少しずつ、シエルの手の届く場所から形を変えていく。
怖さはまだある。
けれど――雑に扱わないで進めばいい。
そう思えるだけの、四日目だった。




