第23話 図書室――世界の“余白”
入学式から三日目の朝。
シエルは鏡の前で、リボンの結び目を指で押さえた。
黒髪。黒に近いこげ茶の瞳。――学校では、この姿。
(今日も、大丈夫)
胸の奥で小さく確認してから、鞄を肩にかける。
階下では、結衣がすでに靴を履きながら、玄関の段差に腰かけて待っていた。
「おはよ。昨日の弓道で腕は痛くなってない?」
「ちょっとだけ……でも、変な痛みじゃないです」
「それなら良かった。筋肉痛は青春の勲章」
「勲章……」
苦笑しつつ、二人で外へ出る。
天宮家から星ヶ丘女学院までは、歩いて十五〜二十分。
朝の空気はまだ少し冷たく、制服の袖口から入り込む風が、肌の上を滑っていく。
「今日さ、一組は何かあるの?」
「午前はオリエンテーション続きで、午後は“施設の使い方”の説明があるって」
「施設、ってことは……図書室とか?」
「たぶん」
結衣が少し嬉しそうに笑う。
「中等部のときから共用だから、何回も入ってるけどさ。 あそこ、本の量と静寂が“格別”なんだよね。入った瞬間に声が勝手に小さくなるやつ」
「そんなに……?」
「うん。外から見学したいって言う人がいるのも分かるよ」
桜並木を抜け、校門が見えてくる。
花びらは少しずつ風に散り始めていて、道の端に淡い色彩の帯を作っていた。
「じゃ、今日も解散」
「はい。あとで」
いつもの短い別れを交わして、結衣は三組へ、シエルは一組へ向かった。
一年一組の教室
席につくと、前の席の相田ほのかが、待ってましたと言わんばかりに振り返った。
「おはよ、天宮さん。昨日の弓道、どうだった?」
「おはようございます。……楽しかったです。思ってたより、落ち着く場所でした」
「だよね!? あの“静けさ”いいよね。
私、帰ってからも心の奥が静かっていうか、落ち着いたままだった」
ほのかは、机の上のプリントを指先で弾く。
「で、今日の午後はさ、図書室の案内あるんだって?」
「先生が言ってましたね」
「じゃあ、一緒に行かない?
なんか“施設を使ってミニ課題出す”って噂聞いたんだよね」
言われて、シエルは担任の高梨先生の顔を思い出す。
あの先生は、さらっと大事なことを宿題にしてくるタイプだ。
「……行きましょう」
「決まり!」
ほのかが満足げに頷いたところで、教室の扉が開いた。
「はーい、席についてくださーい」
高梨先生が、いつもの明るい声で教壇に立つ。
「今日の午後は図書室の利用説明があります。
それと、ついでにミニ課題出します。――“星ヶ丘女学院の好きな場所を一つ選んで、短い紹介文を書くこと”」
教室が、ざわっと小さく揺れた。
「場所は図書室でも、礼拝堂でも、校庭でも、保健室でもいいです。ただし、説明に“本や資料”を一つ使ってください。つまり――」
先生が黒板に書く。
『資料を引け。引用しろ。自分の言葉でまとめろ。』
「星ヶ丘は、ちゃんと“調べて、考えて、書ける子”を歓迎します。まずは、校内に慣れつつ、やってみてね」
ほのかが小声で囁いた。
「絶対、図書室推しの課題じゃん」
「……たしかに」
シエルはプリントを受け取りながら、なぜか胸の奥が少し高鳴るのを感じていた。
(図書室……)
本がある場所
知識が眠る場所
そして――自分の中の“前の人生”が、いちばん自然に息づくであろう場所。
午後の案内で、クラスは図書室へ向かった。
校舎の一角、静寂が先に漂ってくるような廊下の先に、ガラス扉がある。
「星ヶ丘女学院図書室」
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
少しだけ温度が落ち、音が吸い込まれる。
紙とインクと木の匂い――時間が間延びしたような匂いが、鼻先を撫でた瞬間、胸元のロザリオが、ひやりとした。
普段は存在を忘れるくらいの小さなものなのに、今日は妙に輪郭がはっきりしている。
シエルは無意識に指先で十字を押さえ、息をひとつ整えた。
高い天井。整然と並ぶ書架。
窓から入る光が、本の背表紙の上をすべって、淡い帯を作っている。
案内役の司書教諭――白石先生が、穏やかな声で説明を始めた。
「ここは高等部・中等部共用です。貸し出し冊数、返却期限、検索端末の使い方……基本はプリントの通り。それから、奥の“参考図書コーナー”は貸し出し不可。必要な場合はコピー申請をしてくださいね」
説明が続く中、ほのかが小さく肩を震わせて笑っている。
「ね、天宮さん。ここ、ほんとに圧で殴ってくる」
「言い方……」
けれど、確かに圧はある。
本の量というより、「積み重なった時間」の重さ。
説明が終わると、先生が手を叩いた。
「では十五分だけ自由に見てください。ミニ課題の“資料”を探してもいいですよ」
途端に、教室の外では元気だった生徒たちが、図書室仕様の物静かな動きに切り替わっていく。足音が小さくなり、声も自然とひそひそになる。
ほのかが、シエルの袖を引いた。
「どこ見る? 私は弓道について調べたいな。絶対、武道の棚あるでしょ」
「私は……どうしよう」
“好きな場所”。
頭に浮かぶのは、昨日見た弓道場の静けさと――
けれど、まだ自分の言葉にしてしまうのが少し怖い。
視線を泳がせたとき、奥の方に「郷土・文化」「宗教」「哲学」といった棚札が見えた。
(……あっち)
理由は分からないのに、身体がそちらへ引かれる。
「相田さん、私はちょっと奥、見てきます。あとで合流しましょう」
「オッケー」
ほのかは武道の棚へ、シエルは奥へ。
棚と棚の間の通路は、思ったより狭い。
本の背表紙が両側から迫ってくるようで、少しだけ息が詰まる――はずなのに、不思議と落ち着く。
(この感じ……)
前の人生で、仕事帰りに寄った深夜の書店。
疲れているのに、棚の前に立つと少しだけ呼吸が整った、あの感覚に似ている。
「郷土・文化」の棚に指を滑らせる。
星ヶ丘周辺の歴史。町の成り立ち。古い地図。
背表紙の色が古びていて、それだけで時間が透けて見えるようだった。
そのとき。
――ふっと。
棚の端、いちばん下のあたりに、妙な“空白”が見えた。
同時に、胸元のロザリオが、微かに温度を変えた気がした。
気のせいだと思いなおす前に、指先が勝手に十字の形をなぞっている。
(……行くな、ってこと? それとも――)
(……?)
本が詰まっているはずの隙間に、ほんの指一本分くらいの、何もない空白。
そこだけ、空気が違う。
言葉にするなら、“印刷されていない行間”みたいな違和感。
シエルは息を止め、そっとしゃがみ込んだ。
空白の奥に、薄いカードの端が見えた。
古い、図書カードみたいな厚紙。
(落ちてる?)
指を伸ばし、触れた瞬間――
ひやり、としたものが、指先から胸の奥へ流れ込んだ。
音が消える
ロザリオの鎖が、服の下で小さく鳴った。
自分の意思とは無関係に、物事が自然にあるべき状態に整っていく感覚。
シエルは反射的に胸元の十字へ服越しに手をあてた。
手のひらだけが、確かに“こちら側”に残っている感覚がした。
視界の端が、少しだけ白む。
そして、カードの“何も書かれていない面”に、薄い文字が浮かぶのが見えた。
印刷ではない。インクでもない。
光が、文字を形取っている。
『ここは まだ 書かれていない』
シエルの喉が、こくりと鳴った。
(……なに、これ)
次の瞬間、その文字が――ふわりと崩れて、紙に溶けた。
カードは、ただの古い厚紙に戻る。
周囲の音も戻る。
遠くでページをめくる音。椅子の軋む音。誰かの小さな咳。
シエルはカードを握ったまま、しばらく動けなかった。
(今……“私が見たもの…”?)
黒髪の自分。普通の制服。普通の図書室。
それなのに、確かに“普通じゃない何か”が混ざっていた。
そっとカードを裏返す。
裏面は無地。何もない。
(……世界の、余白)
言葉が、胸の奥で勝手に形になった。
“世界は完成していない”?
でも今――世界には、まだ書き記されていない行がある。
誰かが、誰かのために、これから書いていく余白が……
シエルはカードを元の隙間に戻し、棚の端を軽く押した。
空白は、さっきより小さくなった気がした。
……気のせいかもしれない。
立ち上がって深呼吸する。
(落ち着いて。今は、課題を……)
現実に戻るために、手元のプリントを握り直す。
“好きな場所を一つ選んで紹介”。
資料を引いて、まとめる。
(……図書室でいいかもしれない)
胸の中で、結論が静かに固まっていく。
しばらくして、ほのかと合流した。
ほのかは武道の棚から、分厚い一冊を抱えて嬉しそうにしている。
「見て見て。弓道の基本が写真つきで載ってるやつ見つけた!
これ引用したら、課題いける気がする」
「良かったですね」
シエルは、笑って頷く。
「天宮さんは? 何か見つけた?」
「……図書室自体を、書こうかなって」
「いいじゃん。星女の図書室、ガチで強いもん」
ほのかは満足げにうんうん頷いたあと、急に声をひそめた。
「……ね、さっき顔色ちょっと変わってなかった? 大丈夫?」
鋭い!
でも心配してもらえることで、シエルは救われた気がした。
「大丈夫です。……ただ、思ったより静かで、びっくりしただけです」
「だよね。静かすぎて逆に心臓の音がうるさく感じるやつ!?」
「それです」
嘘ではない。全部ではないけれど。
帰り道。
桜の花びらが、朝よりも多く舞っていた。
校門を出たところで、結衣が待ち構えていたように手を振る。
「おかえり、一組さん。今日は図書室だったんでしょ?」
「はい。すごかったです……」
「でしょ? なんか、“本が建物を支配してる”感じするよね」
「表現がまた……」
ほのかも、横で勢いよく頷く。
「結衣ちゃん、弓道の本あったよ。今度、天宮さんの弓道姿を撮るなら、フォームも研究しないと」
「任せて。フォーム研究→撮影→編集→PV化までワンセットで」
「勝手にプロジェクト化しないでください……」
三人で笑いながら、坂道を下る。
天宮家へ続く道は短い。
けれど今日は、いつもより少し長く感じた。
図書室の棚の隙間
古びたカード
浮かんだ文字
(“ここは まだ 書かれていない”)
あの言葉が、胸の奥に小さく波紋を残している。
怖いのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ――
(私のこれからも、まだ書かれていないんだ)
そう思った瞬間、呼吸が少し楽になった。
特待生だとか。
親戚の家に預けられているとか。
黒髪で通うとか。
そういう設定の上に、ようやく立ち始めた自分の日常。
その上に、まだ書ける余白がある。
シエルは歩きながら、そっと桜の花びらを掌に受けた。
淡い色彩は、すぐ風にさらわれて消える。
それでも――確かに一瞬、そこにあった。
入学式から三日目。
天宮シエルは、星ヶ丘女学院の図書室で、世界の“余白”をほんの少しだけ覗いてしまったのだった。




