第22話 放課後の弓道場
放課後のチャイムが鳴り、教室の空気が少しだけ弛緩した瞬間、
「じゃ、行こっか」
前の席から振り返った相田ほのかが、当然のように声をかけてくる。
「はい」
シエルは教科書を鞄にしまい、机の横に立てかけたカーディガンを手に取った。
「弓道場って、どこにあるんだっけ?」
「確か、クラブ紹介のプリントに地図が……」
二人でプリントを覗き込んでいると、廊下から聞き慣れた声がした。
「一組さーん、準備できてる?」
廊下から顔を出したのは、三組の天宮結衣だった。
片手で自分の鞄を肩にかけ、もう片方の手をひらひらと振っている。
「結衣」
「弓道部、見学行くんでしょ? 途中まで一緒に行く」
「結衣ちゃん、ありがとう」
ほのかがぱっと笑顔になり、鞄を肩にかける。
三人で教室を出ると、廊下には他の一年生たちも、思い思いの方向へと歩いていた。
運動部のジャージを着込んで走っていく子。文化部の教室の場所を確認し合う子たち。
「ねえシエル」
階段を降りながら、結衣が横目でシエルを見る。
「今日、弓道部見学したあと、メディア部の方も覗きに来る? いちおう動画とか写真とか、好きそうだなって思って」
「そうですね……時間があれば、ぜひ」
実際のところ、心はもう弓道部のことでいっぱいだった。
それでも結衣の誘いが嬉しくて、素直に頷く。
「天宮さん、結衣ちゃんは何部に入るの?」
「メディア系の部活、ですよね?」
「うん、情報メディア研究部。週一か二くらいのゆるゆる文化部。シエルたちが弓道部で“静の武道”やってるあいだ、私はカメラ片手に“静のオタク活動”する予定」
「静のオタク活動って新しい表現ですね……」
くすくす笑いながら、三人は中庭に面した渡り廊下に出た。
弓道場は、体育館のさらに奥、小さなロータリーを挟んだ先にあった。
低い瓦屋根。白い壁。
体育館や校舎とは少しだけ雰囲気の違う、和風の建物だ。
「わぁ……」
近づくほどに、足取りが自然と静かになる。
ガラス戸越しに中を覗くと、もう数人の先輩たちが、黙々と弓を引いていた。
ピン、と弦の鳴る乾いた音が、こちらまで届いてくる。
「なんか、空気が違うね……」
ほのかが小声で呟く。
「うん。体育館のワイワイした感じじゃなくて、“音が少ない”」
「静かですけど、怖い静けさじゃないですね」
シエルは、胸の奥がひんやりと澄んでいくのを感じながら言った。
ガラス戸をそっと開けると、畳の匂いと木の匂いがふわりと広がる。
「失礼します。一年の見学です」
入り口近くにいた女子の先輩が、柔らかい笑みを向けてくれた。
「はーい、どうぞ」
その先輩は、肩までの茶色がかった髪をひとつに結び、袴姿の裾をさりげなく整えながら言う。
「一年生? 三人とも?」
「いえ、私は別の部活を見学する予定で……」
結衣が一歩下がる。
「今日はこの子たちの付き添いです」
「そっか。ありがとね」
先輩は、シエルとほのかを見比べる。
「じゃあ一年生の子は、お名前教えてもらえる?」
「天宮シエルです」
「相田ほのかです」
「うん、天宮さんと相田さんね。私は二年の宮坂。今、副部長をしてます」
宮坂先輩は、にこりと微笑んだ。
「人数少ないけど、その分アットホームな部だから、気楽に見ていって」
射場の脇に並んだパイプ椅子に案内され、シエルたちは腰を下ろした。
正面には、的場。
白い的がいくつか並び、その手前に射位がある。
すでに練習をしていた先輩たちが、順番に弓を引いていた。
足を開き、腰を落とし、弓を立てる。
矢を番え、ゆっくりと弓を引き絞る。
その一連の動きが、驚くほど滑らかで、途切れがない。
広い弓道場の中で、音はほとんどしない。
弦の鳴る音。矢が的に当たる軽い音。
そして、先輩たちの呼吸の気配。
それだけだ。
(……きれい)
派手さはないのに、どこか目が離せなかった。
一本の矢が放たれるたび、空気がほんの少しだけ震えて、すぐに落ち着く。
「なんか、“すーっ”って感じだね」
隣で、ほのかが小声で言う。
「“ドカーン”とか“バシーン”じゃなくて」
「音まで控えめですね」
シエルも、小さく囁く。
「でも、的に当たるときの音、気持ちいいです」
「分かる。あれクセになりそう」
しばらく見ていると、宮坂先輩がこちらに戻ってきた。
「どう? 退屈してない?」
「いえ、とても……見ていて落ち着きます」
「よかった」
宮坂先輩は、少し嬉しそうに笑う。
「うちは週二回の活動で、基本はこんなふうに、黙々と引いてるだけ。
試合前は少し増えるけど、それでも他の運動部に比べれば全然ゆるい方だと思う」
「大会には、出ているんですか?」
ほのかが尋ねる。
「うん。希望者だけ、地区の大会に出る感じかな。
でも“全国制覇!”みたいなノリではないよ。
“高校生活の中で、長く続けていく武道”ってイメージでやってます」
その言葉に、シエルの胸がふっと軽くなる。
(“長く続けていく”)
好きなことを、長く続ける。
それは、前の人生の自分には、ほとんど許されなかったことだ。
「初心者の子も毎年何人か入ってくれるから、最初はゴム弓からゆっくりやっていって、大丈夫。
……よければ、少し触ってみる?」
「いいんですか?」
「もちろん」
宮坂先輩は、道具置き場から黒いゴム弓を二本持ってきた。
「本物の弓はちょっと重いし、形も独特だから、まずはこっちで」
両端を握ると、真ん中に張られたゴムがぐっと伸びるようになっている簡易練習用の弓だ。
「じゃあ、まずは“足を開くところ”から。相田さん、やってみる?」
「は、はいっ」
ほのかが立ち上がり、言われた通りに足を肩幅より少し広く開く。
前を向き、背筋を伸ばす。
「うん、いいね。スポーツやってた?」
「中学で、陸上を…」
「なるほど、道理で姿勢がきれい。じゃあ次、天宮さん」
「はい」
立ち上がった瞬間、足の裏に床の感触がじかに伝わる。
畳の上は、運動靴の体育館とは違う柔らかさがあった。
指示された通り、左足を少し前に出し、右足を開く。
重心を落とし、まっすぐ立つ。
「……」
宮坂先輩が、じっとシエルの立ち姿を見つめる。
「天宮さん、何か武道やってた?」
「いえ。特には……」
(“前の人生”でなら、大学の合気道サークルで体を動かしていたことはあったけど……)
「そう? じゃあ、すごく筋のいい立ち方してるだけか。重心の乗せ方が、変に力んでない」
「そ、そうでしょうか?」
「うん。自分で立ってみて、変なところに力入ってる感じ、しないでしょ?」
「確かに……足の裏が、全部床についている感じはします」
「それそれ。弓道は、そういう感覚をゆっくり育てていく競技だから」
宮坂先輩は、ゴム弓をシエルに手渡した。
「じゃあ、素引きだけ。
右手で弦、左手で握りを持って、ゆっくり広げてみて」
「はい」
シエルはゴム弓を持ち、指示通りに腕を開いていく。
ぐっと、ゴムが張る感触。
肩のあたりが軽く引っ張られる。
限界まで引き切るほどの力はいらない。
それでも、姿勢を崩さずに動くのは、意外と難しい。
「おお……」
ほのかが、隣で感心した声を上げる。
「初めてにしては、かなり様になってるよ」
「そうね…
肩の力も抜けてるし、視線もぶれてない」
宮坂先輩も、少し目を見張るように言った。
「弓道、向いてるかもしれないよ?」
「そ、そんな……」
褒められて、頬がかすかに熱くなる。
「じゃあ相田さんも。交代で」
「は、はいっ」
ほのかもゴム弓を受け取り、同じように素引きしてみる。
「うわ、思ったより重い……でも、なんかクセになりそう」
「でしょ?」
宮坂先輩が笑う。
「この“張り”と、“戻る感じ”が好きって言う子、結構いるんだよね。
走るのと違って、一瞬だけ全身を使って、あとはふっと抜く感じ」
「なるほど……陸上とは、たしかに全然違いますね」
ほのかも、目を輝かせている。
ひとしきり素引きをしたあと、三人でまた椅子に座った。
奥の方では、先輩が、本物の弓で射続けている。
「三年生の先輩は、もう引退したんですか?」
シエルが尋ねると、宮坂先輩は首を振った。
「ううん。星ヶ丘は二年の途中くらいから受験モードになるから、三年生は“続けられる範囲で”って感じかな。精神統一にもなるし、うちみたいに週二の部活なら、ぎりぎりまで残る先輩も多いよ」
「週二だと、勉強とも両立しやすそうですね」
「特待生とかだと、余計にね」
言いながら、宮坂先輩はさらりと視線を外した。
“特待生”という言葉に、シエルの心臓がほんの少し跳ねる。
でも、その声色に特別な重さはなかった。
「星ヶ丘は、“勉強第一で部活もほどほどに”って子が多いから、 うちみたいな部には、そういう子が集まってくる感じかな」
「……私も、その中の一人になれそうです」
気づけば、自然に言葉がこぼれていた。
宮坂先輩が、やわらかく微笑む。
「歓迎するよ。天宮さんも相田さんも、よかったらまた仮入部期間に来てね。何回か来てみて、“ここかな”って思ったら、入部届出しにおいで」
「はい」
「お願いします!」
ほのかと同時に頭を下げると、結衣が横からひょいっと顔を出した。
「本入部したら、シエルの“弓道姿撮影会”の予約しておいてもいいですか?」
「勝手にイベント作らないでください!」
慌ててツッコミを入れると、宮坂先輩がくすりと笑った。
「写真部じゃなくてメディア部なんだっけ?」
「はい。動画とか、編集とか、そういうのいろいろやるらしいです」
「じゃあ、そのうち“弓道部PV”とかお願いしようかな」
「喜んで!」
結衣が食い気味に答える。
「そのときは、シエルをセンターで」
「だから勝手に決めないでくださいってば!」
弓道場の静かな空気に、小さな笑い声が溶けていく。
一通りの見学を終え、三人は弓道場を後にした。
外に出ると、夕方の光が中庭をオレンジ色に染めている。
「どうだった?」
弓道場の戸を閉めたところで、結衣が改めて尋ねる。
「……すごく、落ち着きました」
シエルは、胸に手を当てながら答えた。
「静かなんですけど、何もない静けさじゃなくて……
矢を放つたびに、心の中の余計なものが少しずつ整理されていく感じで」
「詩人か!?」
ほのかが笑う。
「でも分かる。なんか、“空白の時間”って感じがした。頭の中が、いい意味でからっぽになるみたいな」
「ね! メディア部はメディア部で、情報がごちゃーっと詰まるところだからさ」
結衣が、少し照れたように笑う。
「シエルは弓道で“静”、私はメディアで“動”担当ってことで、役割分担ばっちりじゃない?」
「動とか静とか、そんな大げさなものじゃ……」
「あるよ。シエルが的に向かって矢を放つみたいに、私はカメラでいろんな“瞬間”を切り取ってく感じでさ」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく鳴った。
(瞬間を、切り取る…)
弓道場で見た先輩たちの姿
張り詰めた弦
放たれた矢
的に当たる、小さな音
その全部が、確かに「一瞬」の積み重ねだ。
ほのかが訊いてくる。
「……弓道部、どうする?
私は、たぶん仮入部して、そのまま入りたいなって思ってる。天宮さんは?」
「私も、入部届を出したいです。でもその前に、もう一、二回見学して、ちゃんと決めたいなって」
「真面目だなぁ」
ほのかは笑って、空を見上げる。
「じゃあさ。次の活動日も、一緒に来ようよ。ほら、前後の席なんだし、“弓道部コンビ”ってことで」
「……はい」
前後の席
同じ教室
同じ弓道部
新しい「組み合わせ」の存在が、そっと心の中に置かれた気がする。
「じゃ、今日はここまでにしておこうか」
結衣が腕時計をちらっと見る。
「シエル、あんまり初日から詰め込みすぎると疲れちゃうし。メディア部の方は、また別日にでも」
「すみません、付き合ってもらったのに……」
「いいのいいの。シエルが“ここかな”って思える場所を見つけてくれれば、それが一番だから」
その言葉に、胸の底がじんわり温かくなる。
校門を出て、駅へと続く坂道を三人で歩く。
夕方の光が、桜の並木を横から照らしていた。
風が吹くたび、花びらがゆっくりと舞い落ちる。
「……なんかさ」
ほのかが、ふいに言った。
「高校生活始まったばっかりなのに、もう結構いろんなこと決まってきた気がする」
「そうですね。席とか、クラスとか、部活とか…」
「“特待生”とか、“親戚の家から通ってる”とかさ。天宮さんは、最初からいろいろ背負ってる感じがしてたけど……」
「えっ」
思わず足が止まりかけた。
「でもさっき弓道場で、ゴム弓引いてるときの顔見てたら、“あ、この人はきっと、この学校でちゃんと居場所見つけるんだろうな”って思った」
「……そんな顔してましたか?」
「してた」
ほのかは、迷いなく頷く。
「なんか、“ここに立っててもいいんだ”って、納得してる顔」
それは、前の人生では一度も自分に向けたことのない言葉だった。
(ここに立ってても、いい)
星ヶ丘女学院の制服を着て
黒髪で
弓道場に立って
自分がそこにいてもいいと、胸を張って言える日が来るのだろうか。
「……そうなれるように、頑張ります」
絞り出すように言うと、ほのかと結衣が同時に笑った。
「じゃあ、その第一歩が弓道部ね」
「第二歩が、メディア部ね」
「なんだか、忙しそうですね」
三人の笑い声が、坂道にこだまする。
入学式の翌日。
放課後の弓道場で、シエルは初めて、「ここでなら、自分の居場所を育てられるかもしれない」と思えた。
まだ何も決まっていないようで、少しずつ決まりつつあること。
新しい友達
新しい部活動
新しい自分の立ち位置
それらを一つ一つ、確かめるように踏みしめながら――
天宮シエルの高校一年生としての時間は、ゆっくりと、けれど確かに進んでいくのだった。




