第20話 星ヶ丘女学院──桜の門をくぐる
星ヶ丘女学院高等学校入学式当日。
校門の前は、控えめながらも騒めきに包まれていた。
まだ八分咲きの桜並木。
門の横には「入学式」と書かれた立て看板。
その前で、親子連れや新入生たちが代わる代わる立ち止まり、スマホやカメラのシャッター音が途切れなく響いている。
「こっちこっち。はい、看板の横に並んで」
咲が、スマホを構えながら手招きする。
「シエル、もうちょっとこっち寄って」
「は、はい」
黒髪黒目モードのシエルは、結衣と肩を並べて立った。
お揃いの星女の制服。
同じ一年生なのに、結衣はどこか「この場所に慣れている」空気をまとっている。
「はーい、“新入生コンビ+じいちゃんばあちゃん”ショットいきまーす」
咲の声に合わせて、武臣と美穂も看板の後ろに回り込む。
「晃太がいないのが残念だな」
武臣がぼそりとつぶやく。
「しょうがないでしょ。バイクのテスト、今日しかサーキットの枠が取れなかったらしいから」
咲が苦笑する。
「でもほら、さっきビデオ通話で“頑張ってこいよー”って言ってたじゃない」
「お父さん、ピットからの中継みたいなテンションだったけどね」
結衣が肩をすくめた。
「……はい、笑ってー。3、2、1」
カシャ。
シャッター音と同時に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
(高校の入学式で、家族と写真を撮るなんて……)
前世の自分には、もうとうの昔に過ぎ去っていた時間。
今世の自分には、あると思っていなかった未来。
それが、当たり前みたいな顔をして目の前に広がっている。
「もう一枚。今度はシエル、ひとりで」
「えっ……わ、私だけですか?」
突然の提案に、思わず声が裏返った。
「だって、制服姿のソロショットは必須でしょ。この写真も慈愛の家に送りたいし」
咲が、当然だと言わんばかりに言う。
「みんな、きっと喜ぶわよ。“すっかりお嬢さんになって”って」
美穂も、目を細めた。
「……分かりました」
立て看板の横に、一歩進み出る。
黒髪を耳の後ろで軽くまとめた自分が、スマホのレンズに向かって小さく息を吸う。
(慈愛の家から通うはずだった制服で――
天宮家の家族に見守られて、この門をくぐるんだ)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。
「はい、撮れた」
咲が満足げに頷く。
「……じゃ、そろそろ行こうか」
武臣が腕時計をちらりと見た。
「保護者席が埋まってしまう」
昇降口までの道は、在校生と先生たちが立って、新入生に挨拶をしていた。
「ご入学おめでとうございます」
「おめでとうございます」
明るい声のシャワーを浴びながら、シエルは校舎を見上げる。
白い壁。
大きな窓。
パンフレットで見たのと同じ、すこしクラシカルな校舎のシルエット。
(今日から、ここが“通う場所”になるんだ……)
どんな教室があって、どんな人たちがいて、
どんな日常が待っているのかは、まだほとんど知らない。
それでも、胸の奥で、期待と不安が静かに混ざり合っていた。
「じゃ、新入生はこっちね」
昇降口の前で、在校生の案内係が声をかけてきた。
「保護者の方は、体育館の二階席になります」
「シエル、靴箱分かる?」
「大丈夫です。番号、覚えてますから」
二人で下駄箱の列へ向かう。
小さな札に記された自分の番号。
「天宮……」
プレートに刻まれた名字を、指でそっとなぞる。
(ほんの少し前まで、ここには“山本”って書かれるはずだった……)
その文字が変わるまでの間にあった、いくつもの出来事。
慈愛の家の裏庭
天宮家の玄関
鳴瀬神社の石段
その全部が、この一枚のネームプレートに、ぎゅっと圧縮されている気がした。
上履きに履き替え、案内表示に従って体育館へ向かう。
新入生たちの列が、白い廊下に連なっていく。
制服から漂う柔軟剤の香り
緊張で少し早くなる足音
「シエル、ちゃんと黒髪、持ちそう?」
小声で結衣が聞いてきた。
「今のところは平気そうです……たぶん」
シエルも、小声で返す。
黒髪黒目モードの維持。
今の自分にとって、それは一種の「変身」であり、「守り」でもある。
意識を少しでも緩めたら、銀髪が顔を出しそうで――
それが、怖くもあり、名残惜しくもあった。
(でも、ここでは普通の高校生でいたい)
星ヶ丘女学院の教師たちは、銀髪碧眼のシエルを知らない。
願書に貼られていた写真は、まだ黒髪黒目だった頃のものだ。
だから今、自分が黒髪でいる限り――
「ちょっと雰囲気の落ち着いた新入生」の一人でいられる。
体育館の扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
床には、椅子が整然と並べられている。
前方にはステージ。
その上には校旗と国旗、校長席。
保護者席は二階のギャラリーだ。
見上げると、すでに何人もの大人たちが腰掛け、こちらを見下ろしているのが見える。
(あのどこかに……)
目を凝らすと、武臣と美穂、咲の姿があった。
武臣は腕を組み、美穂はハンカチを握りしめ、咲はスマホを構えたり下ろしたりしている。
シエルは、ほんの少しだけ手を振った。
気づいた三人が、小さく手を振り返してくる。
それだけで、胸の奥の緊張が少し和らいだ。
(前は――)
前世の高校の入学式で、保護者席を見上げたとき。
そこに両親の姿はなかった。
仕事が忙しいからと……
それを、当時の自分は「そういうものだ」と飲み込んでいた。
今、その同じ場所に、自分のためだけに時間を使ってくれている人たちがいる。
(……なんだか、ずるいくらい恵まれてる気がする)
そんな思いが、少しだけ苦笑と一緒にこぼれていた。
入学式は、式次第通りに進んでいった。
開式のことば
国歌斉唱
校長の式辞
どれも、少しだけ眠気を誘うような、穏やかな声の連なり。
けれど、その退屈さすら、「高校の入学式」に与えられた一つの様式なのだと思うと、妙にいとおしく感じられた。
「――続きまして、新入生代表宣誓」
壇上に上がったのは、落ち着いた雰囲気を纏った少女だった。
星ヶ丘女学院中等部から上がってきた子なのだろう。
よく通る声で、宣誓文を読み上げていく。
校則を守ること
勉学に励むこと
心身を鍛えること
(ちゃんと、がんばれるといいな……)
完璧にはいかないかもしれない。
それでも、今ここで「守ります」と宣言することに意味がある。
(前の人生で、こうやって何かに“誓った”ことなんて、ほとんどなかった気がするし)
形だけの社訓
形だけのスローガン
それらに心を込められなかった大人の自分を、
今は、少しだけ遠くから見下ろしているような、不思議な感覚だった。
式の途中、新入生の名前がクラスごとに読み上げられる場面があった。
「一組――」
担任と思しき教師が、マイクの前で名簿を読み上げていく。
知らない名字が、ひとつひとつ音になっていく。
そのたびに、「はい」という返事と、立ち上がる制服の気配。
やがて、
「天宮……シエル」
自分の番が来た。
「はいっ」
立ち上がった瞬間、体育館の空気が少しだけ澄んだ気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、ステージから見下ろす教師たちの視線が、一瞬だけこちらに集まったのが分かった。
黒髪に、どこか異国の血を思わせる輪郭。
それでも、「奇抜」ではなく、落ち着いた雰囲気に見えている――と、思いたかった。
(山本じゃない……)
名簿に刻まれた名字も…
ギャラリーから自分を見つめる「家族」の立場も…
すべてが、ほんの少し前とは違う……
(ちゃんと、ここで――天宮シエルとして呼ばれた)
ほんのそのことが、泣きそうになるほど嬉しかった。
式が終わると、新入生たちはそれぞれのクラスへと移動した。
「一年一組は、こっちでーす」
案内係の先輩の声に従って、流れが分かれていく。
「結衣は?」
「私は三組だよ」
結衣が、プリントをひらひらと振る。
「シエルは?」
「一組……みたいです」
「そっか。やっぱ別クラスかぁ」
少しだけ名残惜しそうに眉を下げる結衣。
「でも、外部から来た子もいるけど、中等部からの友だちもいっぱいいるし…
なにかあったら、“同居人呼び出しボタン”押すから」
「呼び出しボタンって……。でも、いつでも押していいですよ?」
「そっちもね。クラスの雰囲気が合わないなーってなったら、昼休みにでも逃げてきていいから」
「はい。……ありがとう、結衣」
短いやり取りを交わして、それぞれのクラスへと分かれていく。
一年一組の教室は、廊下の突き当たりにあった。
窓側の席からは、中庭の桜がよく見える。
黒板には、担任の名前と「入学おめでとう」のチョークで書かれた文字。
(……懐かしい)
机と椅子
教壇
黒板
形こそ少し違えど、前世で通っていた高校と、きっと大差はない。
それなのに、今の自分は、そのどれもを「初めて見るもの」のような目で見ている。
「えっと、それじゃあ座席は――」
担任と思しき女性教師が、名簿を手に教室に入ってきた。
短めのボブカットにメガネ。
まだ若く、柔らかい雰囲気の先生だ。
「この紙に書いてある通り、一旦今日は仮の席ね。
しばらくこれで行って、様子を見てから最終決定にします」
プリントに記された座席表を確認すると、
シエルは窓側の前から二番目の席になっていた。
(……なんだか、“物語っぽい”ところだなぁ)
思わず、心の中で苦笑する。
物語の主人公が座りそうな、あの位置…
(私は、そういうポジションじゃないと思いたいんだけど…)
そう自分にツッコミを入れながら、指定された席に腰を下ろした。
出席確認、教科書の配布、学校生活全般の説明。
午前中いっぱいを使って、担任の先生の話が続いた。
校則
登校時間
スマホの扱い
アルバイト禁止
そのひとつひとつを、ノートにメモしながら聞いていく。
(高校って、こんなに“ルールの説明”から始まるんでしたっけ……)
前世の高校生活の記憶は、もうだいぶ薄れている。
細かいことは覚えていない。
けれど今の自分には、このひとつひとつの説明が、
「これからここで生きていくためのガイドライン」のように感じられた。
ふと、前の席の子が振り返る。
「ねぇ」
「はい?」
ショートボブの、どこかスポーツ少女っぽい雰囲気の子だった。
「ノート、ちゃんと取ってる? ――わ、すごく見やすい……」
覗き込んだその目が、素直な驚きを浮かべる。
「字もきれいだし、色の使い方も分かりやすいね。
中学、どこだったの?」
「えっと……鳴海市立の、第二中学校です」
慈愛の家から通っていた、市立中学の名前を告げる。
「そうなんだ。私は星ヶ丘女学院中等部からそのまま上がってきたんだけどさ。
外部から来る子って、あんまり知らないから……えっと」
そこで一度言葉を切り、少し照れくさそうに笑う。
「よかったら、仲良くしてくれる?」
「……はい。こちらこそ、お願いします」
あまりにまっすぐな申し出に、
シエルは少しだけ肩の力を抜いて頷いた。
名前は、まだ聞かない。
聞いてしまったら、その瞬間から「ちゃんと覚えておかなきゃいけない責任」が発生しそうで。
(でも――)
こうやって話しかけてくれる誰かがいるだけで、「まったくの新しい場所」だったはずの教室が、少しだけ柔らかく見える。
ホームルームの最後に、担任の先生が言った。
「じゃあ今日はこの辺で。
午後は、希望者だけクラブ見学ができるけれど……疲れている子は、無理せず真っ直ぐ帰ってね」
黒板に、主要クラブの名前がいくつか書き出される。
運動部
文化部
知らないクラブ名も多い。
でも、どれもこれからの生活に、少しずつ色をつけていくのだろう。
(どこか、一つくらいは……顔を出せる場所が見つかるといいな)
そう思いながら、配られたプリントに目を落とした。
教室を出て廊下に出ると、新入生たちのざわめきが一気に押し寄せてきた。
中庭を見渡せる踊り場で、スマホを覗き込む。
――《昼休み、中庭のベンチ集合》
結衣からのLINEが届いている。
(同級生で、同居人で、家族)
そう自分で言ったからには、
ちゃんと「同級生の顔」も見せておかなければならない。
中庭のベンチには、すでに結衣が座っていた。
「お、来た来た」
結衣と同じクラスらしい子が二人ほど隣にいて、
シエルを見るなり、目を丸くする。
「あ、この子がさっき言ってた――」
「家に住んでるっていう同い年の子?」
「星女一年一組、天宮シエルです。……はじめまして」
黒髪黒目モードの自分を、
誰かに「はじめまして」と紹介する。
その行為に、妙な浮遊感と、確かな手応えが同居していた。
(ここでは、天宮シエルとしての三年間が始まるんだ)
山本シエルとして過ごした十五年
天宮大和として過ごした三十五年
そのどちらとも違う、新しい時間。
放課後
保護者説明会を終えた武臣たちと合流し、校門へ向かう。
「どうだった?」
咲が、真っ先に聞いてきた。
「すごく……疲れました」
シエルは、正直に答える。
「でも、楽しかったです」
体育館の緊張感
クラスの空気
名前を呼ばれたときの嬉しさ
それら全部をひっくるめて、「もう二度と味わえない種類の一日」だったと、そう思えた。
「黒髪、まだ持ちそう?」
結衣が小声で尋ねる。
「はい。ちょっと頭がぼんやりしてますけど……なんとか」
「帰ったら、銀髪に戻してゆっくり休みなさい」
美穂が、心配そうに言う。
「今日は、それだけで十分頑張ったんだから」
「……はい」
星ヶ丘女学院の門を振り返る。
白い門柱の上に、まだ「入学式」の看板が残っている。
(ここが、これから“行ってきます”と“ただいま”を何度も言うための場所になるんだ)
そう思うと、足元からじんわりと力が湧いてくる気がした。
天宮の家
慈愛の家
鳴瀬神社
そして、星ヶ丘女学院
少しずつ増えていく、「帰ってきていい場所」
それでも――
(その中に、自分の足で立てるように……)
黒髪の下で、銀の髪が静かに眠っている…
天使とも人ともつかない、自分という存在が、ようやく「自分の居場所」を探すためのスタートラインに立ったのだと……
その日の夕暮れになってから、ようやく実感が追いついてきた。
こうして――
星ヶ丘女学院一年・天宮シエルの高校生活は、静かに幕を開けた。




