第19話 制服に袖を通す
入学式前日の夜、星ヶ丘の坂の上の家には、いつもより少しだけ張りつめた空気が漂っていた。
夕飯も片づいて、お風呂も順番に済ませて…
リビングのテレビはついているものの、誰も内容にちゃんと集中してはいないようだった。
「……そろそろ、やる?」
ソファから立ち上がりながら、咲がそう言った。
「うん……」
シエルは、小さく息を吸って頷く。
胸の奥が、期待と緊張でそわそわしていた。
「何それ。意味深な会話」
ゲームのコントローラーを置きながら、結衣が首をかしげる。
「決まってるでしょ」
キッチンから顔を出した美穂が、やわらかく笑う。
「明日の制服、ちゃんと皺がないか見て、試しに袖を通しておきましょうって話よ」
「あー」
結衣が、あからさまに嬉しそうな声を上げた。
「ついに“制服姿のシエル”お披露目会か!」
「お披露目会とか言わないでください……」
シエルは、こそばゆさに頬をかきながらも、少しだけ笑った。
2階の結衣の部屋──ではなく、その隣。
大和が使っていた部屋を片づけて、新しく「シエルの部屋」になったその場所の、クローゼットを開ける。
そこに掛けてあるのは、まだ新品特有の香り漂うブレザーとスカート。
星ヶ丘女学院の制服一式だった。
濃紺のブレザー。
胸には、星の丘と百合をモチーフにした校章のエンブレム。
白いブラウス。
濃紺、チャコールグレー、細いボルドーラインのチェック柄、ボックスプリーツ寄りのプリーツスカート。
それから、首元を飾るリボンタイ。
(……本当に、ここまで来ちゃったんだ)
ハンガーにかかった制服を見つめるだけで、喉の奥がきゅっと狭くなる。
「アイロンは軽くかけておいたわよ」
後ろから、美穂がブレザーの裾をそっと整える。
「梱包されてたときの皺は、もう気にならないはず」
「ありがとうございます」
この制服を最初に申し込んだのは、まだ「山本シエル」として、慈愛の家の事務室で書類を書いていた頃だ。
シスターと、市の相談員に付き添われて、指定の制服店で採寸した。
そのときに頭の中で描いていたのは──
(慈愛の家から通う、自分だった)
朝、裏庭を通って門を出て、バス停まで歩き、制服姿の自分が、あの古い建物を振り返る未来。
けれど今、その制服は星ヶ丘の住宅街の一角、天宮家の二階の一室に掛けられている。
同じ布地
同じデザイン
けれど、そこに込められている意味は、まったく違っていた。
「そうだ」
咲が、ブレザーの内側をそっとめくる。
「ここのネームタグ、ちゃんと確認しておきましょう」
内ポケットの裏に縫い付けられた白い布。
そこには、少し前まで「山本」と書かれていたはずの場所がある。
今、そこにあるのは──
丁寧な刺繍糸で縫われた、「天宮」の二文字だった。
「……」
「養子縁組の受理通知が届いたでしょ」
咲が、少しだけ誇らしげに笑う。
「その日のうちに制服店に電話して、名前の縫い直しをお願いしたの。
ギリギリだったけど、なんとか間に合ったわ」
「……そう、なんですね」
布の裏から、指先でそっと名前の縁をなぞる。
その感触は、思っていたよりもしっかりしていた。
針目のひとつひとつが、「ここにいる」と告げているみたいで……
(私、本当に──)
「じゃあ、着てみる?」
結衣が、待ちきれないといった様子で身を乗り出した。
「サイズおかしかったら、前日のうちに分かってた方が安心だし」
「そうですね……」
シエルは、ブレザーとスカート、ブラウスをハンガーから外す。
手触りの良い布が、さらりと指の間を滑り落ちていく。
「じゃ、いったん出る?」
結衣が周りを見回す。
「えっと、その……」
視線がシエルと、美穂と咲の間をうろうろする。
「何よ、その顔」
咲が笑う。
「“見るな”って言われたらちゃんと出て行くわよ?」
「いえ……できれば、いてほしい、です」
自分でも少し驚くような言葉が、口からこぼれた。
「ここで、この家で、最初に袖を通すところ…… 一緒にいてもらえたら、嬉しいから…」
言ってしまってから、頬が熱くなる。
「……だそうよ!」
咲が、美穂と目を合わせ、少しだけ柔らかい笑いを浮かべた。
「じゃあ、見ているのもなんだし、壁の方を向いて待ってるわね」
「覗かないから安心して」
美穂も、くるりと背中を向ける。
「結衣は?」
「私は、ちゃんと“女子同士”枠で残るから」
結衣は、当たり前のような顔で言う。
「リボン曲がってたりしたら、すぐ直してあげる役」
「……じゃあ、お願いします」
制服を抱えたまま、シエルは深呼吸をひとつ。
(よし)
パーカーを脱ぎ、シャツを着替え、ブラウスのボタンを上から順にとめていく。
白い布地が、鏡の中の自分の輪郭をきゅっと整えていく。
スカートをはき、ウエストの位置を少しだけ合わせて。
最後に、ブレザーの袖に腕を通した瞬間──
(……あ)
肩に、すっと何かが乗る感覚があった。
重いわけじゃない。
けれど、目には見えない何かが、「ここから先の時間」を預けてきたような重み。
袖口からのぞく、自分の手首が、さっきまでより少しだけ「大人」に見える。
「結衣……どう?」
「うん」
結衣は、真剣な顔で前ボタンを確認してから、リボンタイを手に取った。
「ちょっと前向いて」
ふわり、と襟元に布の感触が落ちる。
結衣の指先が、喉元で器用にリボンを結んでいく。
「きつくない?」
「大丈夫です。……苦しいほどでは」
「じゃあ、こんなもんかな」
結衣が、最後に形を整えて、一歩下がる。
「……完成」
「咲さん、美穂さん」
シエルは、小さく呼びかけた。
「どうぞ」
くるり、と二人が振り向く。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
「……」
咲の目が、わずかに見開かれる。
美穂は、手に持っていたハンカチをきゅっと握りしめた。
濃紺のブレザーに、白いブラウス
胸には、星ヶ丘女学院のエンブレム
そこに立っているのは、銀髪碧眼の十五歳の少女──
星ヶ丘女学院一年生、天宮シエルだった。
「……似合ってる」
最初に口を開いたのは、咲だった。
「うん、すごく似合ってる」
「ありがとう……ございます」
美穂は何か言おうとして、言葉がうまく出てこないようだった。
代わりに、目尻に浮かんだ涙をハンカチでそっと拭う。
「ごめんね。こういうの、どうも弱くて」
「……いえ」
シエルは、首を振る。
「そんなふうに……見てくれることの方が、嬉しいです」
(慈愛の家の、共有スペースの鏡で見たときと……全然、違う)
採寸のあと、試着用の制服を着せてもらったとき。
あのときも、自分でも驚くくらい胸が高鳴っていた。
けれど、あれはあくまで「準備段階の、自分」。
今、ここで袖を通しているのは──
(この家から通う、自分だ)
鏡の前に立つと、そこには「孤児院から通う予定だった山本シエル」ではなく、
天宮家の一員として、これから星ヶ丘女学院へ通う「天宮シエル」が映っている。
同じ制服
同じ身体
けれど、その肩越しに見える背景が違うだけで、こんなにも世界の見え方が変わるのか、とシエルは不思議な感覚にとらわれた。
「……ねえ」
結衣が、少し照れくさそうに笑う。
「星女の制服ってさ、式典のときとか“お嬢さま校”っていじられること多いんだけど……
シエルが着ると、そういう言葉の意味が全部いい方に持ってかれる感じがする」
「褒められているんでしょうか?」
「めちゃくちゃ褒めてる」
結衣は、胸を張って言った。
「見慣れた制服なのに、“初めて見る制服みたい”に見えるもん」
「……ところで」
咲が、少しだけ真面目な声を出す。
「学校では、基本黒髪モードで行くんだったわよね」
「はい」
シエルは、こくりと頷いた。
「……練習、しておきますか?」
「そうね。明日の朝ぶっつけ本番だと、こっちが緊張しちゃうし」
美穂が笑う。
「じゃあ、ちょっとだけ」
制服の裾を軽く握りしめたまま、シエルは深く息を吸い込んだ。
意識を、静かに内側へ沈めていく。
頭の奥で、かすかな光の流れが切り替わり、根元からするり、と色が落ちるように、銀の髪に静かに黒が降り積もっていく。
碧い瞳も、やがて、夜の街を映したような黒へと変わっていった。
「……どう、ですか?」
顔を上げると、そこには、結衣とよく似た黒髪黒目の少女が、星女の制服に身を包んで立っていた。
銀髪のときよりも、ぐっと「日本の高校生」らしい輪郭。
けれど、それでもちゃんと整った顔立ちで、どこか「大和撫子」みたいな雰囲気さえ纏っている。
「わぁ……」
美穂が、素直な感嘆の声を漏らした。
「これはこれで……すごくきれいね」
「うん。探せばいそうなんだけど、実際に見かけたら絶対二度見するタイプ」
結衣も、じっと見つめながら言う。
「でも、“異世界の子”っていうより、ちゃんと星女の一年生って感じがする」
「それが、いちばん安心する評価かもしれません」
シエルは、少しだけ肩の力を抜いた。
「……銀髪の方も、嫌いじゃないですけど」
「銀髪はうち専用ね」
咲が、どこか楽しそうに言う。
「家族と、ごく限られた人だけの“特別モード”。
学校では、まずはこの黒髪のシエルで行きましょう」
「はい」
その言葉に、制服の襟元をそっと整えながら、
シエルは心の中で小さく区切りをつけた。
ひととおり姿を確認してから、黒髪のまま制服を脱ぎ、丁寧にハンガーに戻す。
ブレザーの肩に、シワがつかないように
スカートのプリーツが崩れないように
「……明日、ちゃんと起きられるかしらね」
美穂が、半分冗談めかして言う。
「私が起こす」
結衣が即答する。
「シエルを起こす役を取られたら、私の存在意義がなくなる」
「そんな大事な役だったんですか、それ」
笑い声が、部屋の中に柔らかく広がった。
それでも――
クローゼットの中で静かに佇む制服を見つめていると、胸の奥で、もうひとつの感情が、じんわりと広がっていく。
(慈愛の家から通うはずだった高校の制服を──)
今、自分は天宮家の娘として袖を通そうとしている。
十五年分の「おはよう」と「おやすみなさい」が詰まった孤児院から離れて、
この家の「おかえり」と「行ってらっしゃい」をもらうために……
(ちゃんと、両方にありがとうって言えるようになりたい)
クローゼットの扉がそっと閉じられる音が、
小さな祈りの終わりの合図のように聞こえた。
その夜、シエルはなかなか寝つけなかった。
ベッドの上で何度か寝返りをうち、暗がりの天井を見上げながら、明日の自分の姿を想像する。
黒髪モードで制服を着て、玄関の鏡の前に立つ自分。
武臣と美穂が、それを見てどんな顔をするか…
結衣は、どんな軽口を叩くか…
考えれば考えるほど、胸が高鳴って、目が冴えてしまう。
(……楽しみ、なんだ)
その自覚が、少しだけくすぐったかった。
不安もある。
怖さも、きっと消えない。
それでも――
制服の重みを、もう「一人きりで背負うもの」だとは思わなくていい。
そのことが、何よりの救いだった。
そして、入学式当日の朝。
「シエル、起きてー。人生初・女子高生の朝だよー」
結衣の声と、ドアを叩く小さな音で、シエルは目を覚ました。
「……はい、いま起きました」
まだ少し重いまぶたをこすりながら、ベッドから身を起こす。
カーテンの隙間から差し込む光が、春の空気を連れてきてくれていた。
深呼吸をひとつして、黒髪モードに切り替える。
鏡の前で前髪のラインを整え、制服に袖を通す。
昨夜より、少しだけ手際がよくなっているのが、自分でも分かった。
「シエルー、リボン手伝おうかー」
「お願いします」
扉を開けると、すでに制服姿の結衣が廊下で待っていた。
同じ学校の、同じ一年生。
色も形も同じ制服なのに、それぞれの胸に抱えているものは、きっと違う。
それでも、今はただ──
「はい、完成」
結衣がリボンを結び終え、親指を立てる。
「星ヶ丘女学院一年、天宮シエル。誕生の瞬間」
「そんな大げさな」
「大げさでいいの。記念日だから」
一階へ降りると、ダイニングにはすでに武臣と美穂が待っていた。
武臣は、いつもより少しきちんとしたシャツ姿。
美穂は、エプロンの上からカーディガンを羽織っている。
二人の視線が、階段を降りてくるシエルに向いた。
「……」
ほんの一瞬だけ、時間が止まる。
それから、武臣が、照れくさそうに咳払いをした。
「似合っている」
それだけの言葉。
けれど、その声には、いくつもの感情が詰まっていた。
「ありがとうございます」
「写真、撮りましょう」
美穂が、スマホを手に立ち上がる。
「玄関の前で、家族全員で」
「撮ったやつ、慈愛の家にも送ろうか」
咲が言う。
「きっと、みんな喜ぶわよ。“ちゃんと高校生になりました”って報告」
「……はい」
シエルは、小さく笑った。
「送ってください。……きっと、あっちの子たちも、からかいながら見てくれると思うので」
「お嬢さまだー」「お姉ちゃんすげー」とか。
そんな声が、耳の奥でよみがえる。
玄関の扉を開けると、春の光が一気に流れ込んできた。
制服の袖口を、そっと握りしめる。
(慈愛の家から通うはずだった制服で──)
(今、天宮家の玄関を出る)
その事実が、胸の奥にじんわりと染みこんでいく。
「じゃあ、行ってきます」
星ヶ丘女学院一年・天宮シエルの、最初の「行ってきます」の声が、朝の空気に溶けていった。




