第18話 銀髪問題と黒髪モードの相談
星ヶ丘女学院の入学式が、じわじわと近づいてきた、ある夜のことだった。
その日の天宮家のリビングには、夕食の片づけを終えた後特有の、少しゆるんだ空気が漂っていた。
テレビは消され、テーブルの上には湯気の立つお茶と、結衣がつまんでいたポテトチップスの袋がひとつ。
今日は、晃太の姿がない。
バイクのテストで遠征中らしく、家にいるのは武臣と美穂、咲、それから結衣とシエルの五人だけだ。
ソファには武臣と美穂。
一人掛けの椅子には咲。
ラグの上には、クッションを抱えた結衣と、その向かいにシエル。
なんとなく「全員集合」の配置が整ったところで、武臣が低く咳払いをひとつした。
「……さて」
その声色に、自然と視線が集まる。
「入学式も近い。今日はそれに関わる、大事な話をしておきたい」
「どうしても、ってやつ?」
ポテチをもぐもぐやっていた結衣が、首をかしげた。
武臣は、一瞬ためらうようにしてから、シエルの方を見る。
「――銀の髪と、碧い目の話だ」
シエルは、条件反射のように自分の髪を指先でつまんだ。
銀色のストレート。
この家に来てから、美穂と結衣に丁寧に手入れされて、以前より艶が増している。
「まあ、そこだよね」
咲が、あっさりと頷く。
「入学の書類には、“山本シエル”から“天宮シエル”に名字が変わる件は、もう処理済みだけど……学校側が知ってる見た目は、願書に貼った黒髪黒目のシエルなのよね…」
「あ……」
言われて、シエルは小さく目を瞬いた。
星ヶ丘女学院の入学願書。
撮影したのは、まだ「普通の黒髪・黒目」だった頃だ。
「だから学校としては、“やや成績のいい、ごく普通の日本人女子”が来るつもりでいるわけ」
咲は、指を一本立てる。
「そこに、何の前触れもなく銀髪碧眼で現れたら――少なくとも、職員室は騒ぎになると思う」
「ですよね……」
想像して、胃の奥がきゅっとなる。
慈愛の家でさえ、あれだけざわめいたのだ。
お嬢さま学校の教師たちが、平然としていられるとは思えない。
「事前に“髪の色が変わりました”って連絡する手もあるけど」
咲は、そこで首を振った。
「紙の上だけの情報って、受け取り方がバラバラなのよ。“髪を染めてきた不良”だと誤解されても困るし……私は、いきなり書類で揺さぶるより、実物を見せながら話したい派」
「ふむ」
武臣が静かに相槌を打つ。
「だが、その“実物”が、今のままの銀髪だと、どうしても目立つ。……本人が望んで目立つならともかく、そうではないのだろう?」
「はい……正直、できるなら、あんまり注目されたくないです」
それは、嘘の欠片もない本音だった。
銀髪と碧眼は、嫌いではない。
ただ、それがもたらす「視線」が、まだ怖い。
「そこでだ」
武臣は、真っ直ぐにシエルを見る。
「お前の“力”で、髪と目の色だけでも抑え込めないか――それを一度、試してみたい」
リビングの空気が、わずかに張り詰めた。
天使の翼。
光輪。
あの夜、リビングで短時間だけ見せた、常識から外れた光景。
「前にも少し話したがな」
武臣の視線が、シエルの胸元――銀のロザリオに向かう。
「“天使モード”とやらになったとき、お前は髪と目だけでなく、空気まで変わる。
だが、あの夜以降も、銀髪と碧眼だけは日常のまま残っている」
「はい……」
「逆に言えばだ」
武臣は、慎重に言葉を選んだ。
「髪と目の色だけを、もう少し“普通寄り”に寄せることができれば――学校生活は、少し、楽になるかもしれん」
「要するに、黒髪モードね」
咲がまとめる。
「銀髪モードと天使モードは封印。
学校では黒髪黒目で、“願書の写真と同じくらいの子です”って顔をして通う。……そういう案」
「名前だけ聞くと、なんかカッコいい」
結衣が、ぽつりと笑う。
「天使モード・銀髪モード・黒髪モード……何その多機能アバター」
「そんな大したものじゃないと思いますけど……」
シエルは苦笑しながらも、内心ではざわついていた。
(……できるのかな)
裏庭の闇
押し寄せる恐怖
世界が光に飲まれた感覚
あのとき、銀髪と碧眼になったのは、自分の意思ではなかった。
ただ、どうしようもない状況の中で、何かが勝手に溢れ出しただけだ。
「シエル」
美穂が、少し心配そうに覗き込む。
「無理そうだったら、やめてもいいのよ? 髪の色なんて、そのうち周りも慣れるかもしれないし……」
「……いえ」
シエルは、胸元のロザリオをそっと握った。
「やってみたいです」
「お?」
結衣が目を丸くする。
「髪の色を“変えたい”って、鏡の前で何回か試したことはあるんです」
正直に打ち明ける。
「でも、上手く行かなくて……。さっき、咲さんの話を聞いていて、少しだけ考え方を変えてみようかなって」
「考え方?」
「“変える”んじゃなくて、“目立たないようにする”。
今の銀色を塗り潰すんじゃなくて、覆い隠すイメージでやってみたら、何か違うかもしれないなって…」
自分で言いながら、言葉の違いを確かめる。
「銀髪を否定するんじゃなくて、“外に出すのは黒髪でお願いします”って、少しだけお願いする感じというか……」
咲が、目を細めた。
「……なるほどね。力の使い方を、“攻撃”から“防御”に切り替えるみたいな」
「そうです。それ、です」
思わず身を乗り出す。
「できるかどうか分からないですけど、やってみてダメなら、そのとき考え直します」
武臣は、短く息を吐いた。
「よかろう。だが、やるならきちんと見ている大人がいる場でだ」
その言い方には、「守る側の大人」としての癖が少しだけ滲む。
「体調がおかしくなったら、すぐ止める。……その前提で、試してみよう」
「場所、変えましょうか」
美穂が立ち上がる。
「ここだと、もし光ったりしたときに、外から見えちゃうかもしれないし……。二階のシエルの部屋なら、カーテン閉めておけば大丈夫でしょ?」
「観測班として、私も行く」
結衣が、クッションを放り出して立ち上がった。
「色の変化って、自分じゃ案外分かりづらいからね」
「じゃあ、全員で上がろう」
武臣はそう言って、ゆっくり腰を上げた。
晃太不在の今夜は、天宮家の四人と、一人の“元・他人の娘”が、同じ階段を並んで上がっていく。
シエルの部屋は、まだ「仮の住人」の匂いが残っていた。
大和から引き継いだ勉強机。
ベッド脇の小さな本棚には、大和の遺品から譲り受けた本と、星ヶ丘女学院からの案内パンフレット。
天井の照明を少し落とし、カーテンをしっかり閉める。
部屋の真ん中にシエルが立ち、その周りを半円形に家族が取り囲んだ。
「なんか、公開実験って感じね」
咲が苦笑する。
「やりづらかったらごめん…」
「いえ……ここまで付き合ってもらってる時点で、むしろ心強いです」
シエルは、ロザリオを両手で包み込むように持った。
銀の十字架。
孤児院で支給された、小さな祈りの道具。
今は、この家と、自分自身とをつなぐ「錨」のようにも感じている。
(変えるんじゃない。隠す)
ゆっくりと目を閉じる。
頭の中にイメージするのは、「黒く塗りつぶす」ことではない。
(目立たなくして。……お願いします)
銀の髪を、墨色の薄いフィルムで包むような感覚。
碧い瞳を、元の黒に近い色で、そっと覆っていくイメージ。
そのとき――
ロザリオが、かすかに熱を帯びた。
先ほどまで冷たかった金属が、体温とは別の温かさを帯びて、掌に広がり、胸の奥で、何かがゆっくりと目を覚ます。
世界の輪郭が、一瞬だけ、ゆらりと揺れた。
それでも――
光輪が現れたときのような、圧倒的な光の奔流はない。
翼が展開したときのような、空間そのものが書き換わる感覚もない。
ただ、ごくごく小さな波紋が、静かに広がっていく。
(……息は、できてる)
呼吸は乱れていない。
心臓の鼓動も、少し早くはなっているが、暴れているわけではない。
「シエル?」
結衣が息をひそめる気配。
「目、開けてみて」
言われるままに、ゆっくりと瞼を上げた。
視界に入ったのは――見慣れない、自分の髪の色だった。
「……」
思わず、指先で一房をつまむ。
光を失ったわけではない。
けれど、あの、夜の闇ですら跳ね返しそうな銀色ではない。
柔らかく、落ち着いた黒――
よく見ると、ごく薄く茶が混じったような、艶のある黒髪。
瞳も、深い黒に近い、こげ茶色に沈んでいた。
「うわ……」
結衣が、小さく息を呑む。
「誰だろう、この大和撫子ってレベルで雰囲気違う……
でも、ちゃんとシエルだ。なんか、きれいな“普通の子”になった感じ」
「願書の写真に、かなり近いわね」
咲が、一歩近づいてまじまじと見る。
「当時の写真より少し大人っぽいけど……“清楚寄りのきれいな子。街を探せば何人かいそう”ってラインに、ちゃんと落ちついてる」
「それ、褒めてます?」
「全力で褒めてる」
咲は、口元を緩めた。
「銀髪モードは正直、教会のステンドグラスから出てきた何かって感じだけど……今は、“学年に一人はいてほしい清楚系美少女”って印象かな」
「分かりやすいような、よく分からないような……」
それでも――
鏡に映る自分は、たしかに「銀の天使」ではなかった。
黒に近い茶色の瞳
艶のある黒髪
そこにいるのは、「山本シエル」でも、「天宮大和」でもなく――今ここにいる、自分だ。
「気分はどうだ」
武臣が、真正面から問う。
「苦しさは? 目眩は?」
「少し、全身に力を入れて立ってる感じはしますけど……息苦しかったりは、しません」
シエルは、正直に答えた。
「頭痛も、今のところはないです」
「ロザリオは?」
咲が視線を落とす。
「まだ、ちょっとだけ熱いです。……さっきよりは落ち着いてきましたけど」
掌を開くと、小さな十字架が、部屋の灯りを柔らかく反射する。
「これが、やっぱりスイッチなのかな!?」
結衣が、じっとロザリオを見つめる。
「天使モードの時もそうだったけど、シエル、これ握ったときの集中力が普段と違うもん」
「スイッチ……というより」
シエルは、少し考えてから言葉を選ぶ。
「えっと、“祈りの窓口”みたいな感じです。これを通して、自分の中の“おかしな力”に、ちょっとだけ手を伸ばしてる感じ…」
「おかしな力って……」
咲が肩をすくめる。
「天使寄りの存在が何言ってるのよ」
「“寄りの何か”ですから」
シエルは、軽く言い直した。
「時間、分かる?」
咲が、腕時計をちらりと見る。
「黒髪になってから、どれくらい経ってる?」
「今で……十五分くらい」
結衣が、スマホのストップウォッチを見せた。
「最初の五分くらいは、ちょっとふわふわしてたけど、今は安定してる感じ?」
「そうですね……逆に、あんまり長くやりすぎるのが怖いくらいです」
シエルは、そっと息を吐いた。
「いつまでなら、“大丈夫”と言っていいのか、まだ自分でも掴みきれていないので…」
「今日のところは、もう少しだけ様子を見て、無理はしないこと」
武臣が区切る。
「何事もそうだが、“できるからと言って限界まで試す”のは愚か者のすることだ」
「はい」
シエルは素直に頷いた。
それから、世間話を交えながら、二十分、三十分と時間が過ぎた。
好きな科目の話
制服のスカート丈の許容ライン
通学路で寄り道できそうなコンビニの場所
そんな他愛もない話をしている間も、黒髪と黒目は保たれていた。
集中しすぎると逆に疲れる気がして、シエルは「黒髪モードでいる自分」と「いつもの自分」の境界線を何度も確かめる。
(息は楽にできてる。……ここから先が、多分“持久力の勝負”なんだろうな)
「……そろそろ戻すか」
武臣の声で、意識が引き戻された。
「四十分を越えた。初回としては十分だろう」
「そうね。今日はここまで」
咲も同意する。
「これ以上は、“どれだけ持つか”じゃなくて、“どこでやめるか”を決めないと危ないだろう」
「分かりました」
シエルは、ロザリオを胸元でぎゅっと握り直した。
(ありがとうございました。……いったん、ここまでで)
心の中で、誰にともなくそう告げる。
ぱちん、と何かが弾けるような感覚。
次の瞬間、色のフィルターが一気に外れた。
銀髪と碧眼
世界が、いつもの「眩しさ」を取り戻す。
「ふぅ……」
思っていたよりも、ひどい疲労ではなかった。
長距離走のあと、歩きに切り替えて暫くしたときのような、ほどよい倦怠感だけが残る。
「大丈夫?」
美穂がすぐに隣へ寄ってくる。
「顔色、そこまで悪くなってないわよ」
「ちょっと、足がふわっとしましたけど……平気です」
シエルは、ベッドの端に腰を下ろした。
「今の感じなら――」
咲が、メモを見ながら結論を口にした。
「集中して維持し続けるのはおすすめしないけど、“日常生活で意識を乗せる”くらいなら、半日くらいなら何とか持つかもってところかな…」
「朝からお昼くらいまで黒髪でいて、あとは安全な場所で一度切り替える、くらいが今の実力かな」
結衣が、スマホをいじりながら言う。
「さすがに“一日中黒髪黒目”は、今の段階だとちょっと怖いけど」
「……そうですね」
シエルも、その見立てに頷いた。
「少しずつ慣らしていけば、いずれ丸一日もいけるかもしれないですけど……無理はしません」
「訓練の計画は、咲と一緒に立てなさい。独断で限界に挑戦しないことだ」
武臣が静かに念を押す。
「わかりました…」
「気合い入れるのはいいがな」
武臣は、ほんのわずかに口元を緩める。
「自分の体を軽んじるのは、昔の日本人がやりがちだった悪い癖だ。お前はそうなるな」
「はい…」
「ねえ、シエル」
部屋を出る前、結衣が振り返った。
「さっきの黒髪モードのときさ――」
「はい?」
「銀髪のときとは、別の意味でヤバかったからね?」
「ヤバかった……?」
「うん。銀髪モードは、正直、“異世界から来ました”って感じでみんなの目を止めちゃうけど」
結衣は、人差し指を立てた。
「黒髪モードは、“探せばいそうだけど、実際にはなかなかいないレベルの清楚できれいな子”って感じ。……あれはあれで、モテると思う」
「モテる必要は特にないんですけど……」
顔が少し熱くなるのを自覚する。
「でもまあ、学校ではずっと黒髪で通すって決めちゃえば、逆に楽かもね」
結衣が続ける。
「星ヶ丘女学院では“願書の写真どおりの子”として過ごして、
銀髪モードは“家族といるとき”とか“プライベートな場だけ”の秘密の姿ってことで」
「……それなら、私も助かります」
シエルは、ほっと息をついた。
「学校では目立ちたくないですし……。銀髪のことを知ってる人たちがいる場所だけの方が、まだ気が楽なので」
「じゃ、決まりね」
咲がまとめる。
「星ヶ丘女学院では基本黒髪モード固定。
銀髪モードと天使モードは、“天宮家と一部身内だけが知ってる裏設定”って扱いにしましょう」
「裏設定って……」
苦笑しながらも、その線引きには救われる思いがあった。
そうして、その夜の「第一回・黒髪モードテスト」は、お開きとなった。
その後の数日、シエルは咲と相談しながら、無理のない範囲で黒髪モードの訓練を続けた。
最初のうちは一時間。
慣れてきたら、休憩を挟みつつ二時間、三時間と伸ばしていく。
頭痛や吐き気が出たら即中止。
武臣と美穂も、そのたびに様子を見に来ては、さりげなく水を差し入れてくれる。
――入学式の前日。
「今のところ、半日くらいなら安定して維持できるって言っていいと思う」
咲が、メモを見ながら結論を口にした。
「朝、家を出る前に黒髪モードオン。登校から式、ホームルームまでは黒髪で行ける。
下校して、玄関に入ってから銀髪に戻す、くらいの運用なら、負担も許容範囲ね」
「はい。……銀髪に戻ったあと、ちゃんとご飯が食べられるくらいの余力は残ってます」
シエルも、実感を込めて頷いた。
「学校ではずっと黒髪。銀髪は、当面“オフの顔”専用」
結衣が、にやりと笑う。
「そのうち、黒髪モードで街に出て、“どこまで普通の女子として歩けるか”テストしたいね」
「それは……もう少し練習してからでお願いします」
シエルは、頬をかきながら答えた。
銀髪と碧眼
黒髪と黒目
どちらも、自分の一部だ。
その両方を抱えたまま、新しい生活へ踏み出すために――
天宮シエルの「準備運動」は、静かに、しかし確実に進んでいくのだった。




