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第1話 天使のいない空の下で

 鐘の音が、まだ薄暗い夜明けの空を震わせていた。

 高台の上に建つ小さな教会

その脇に寄り添うように並んだ二階建ての古い建物が、児童養護施設「慈愛の家」


 冬の朝の冷え込みは厳しいが、廊下には暖房のぬるい風が行き渡っている。

 それでも窓ガラスの向こうの空気は白く、港の方から吹き上げてくる風が、どこか潮の匂いを運んでくる。


 山本シエルは、洗面所前の行列をさばきながら、欠伸を噛み殺した。

「はい、次。歯ブラシ貸し借りしない、コップはちゃんと自分の名前のやつ使ってね」

「はーい」

「シエル姉ちゃん、タオルどこー?」

「昨日乾燥機に入れたやつ、棚の二段目。ほら、背伸びすれば届くでしょ」

 次々に飛んでくる子供たちの声、絡んでくる手、小学生たちがわちゃわちゃと動き回り、その間を縫うように中学生組が支度を終えていく。


 シエルは、その中で一番年長の一人だった。

 中学三年生、春には卒業

 ここ「慈愛の家」では、高校を卒業するまで生活を続けることが許されているとはいえ、中三という区切りはやはり特別だ。


「シエル、朝のお祈り、あと五分で始まるからね」

  廊下の向こうから、シスターの穏やかな声が飛ぶ。

 教会併設のこの施設では、一日の始まりに小さな礼拝がある。

 長く暮らしているから、その流れはもう身体に染みついていた。


「はーい、みんな、顔洗って歯磨き終わった子から礼拝堂行くよー」

「えー、眠いー」

「文句言うな、ちゃんと起きてるだけ偉いの」

 軽口を叩きながら、シエルは最後尾の子の襟を直し、濡れた袖を拭いてやる。

 自分の制服の襟も、鏡の前で手早く整える。

 公立中学のブレザーは、もう少しでお別れになる制服だ。





 礼拝堂は、朝の光をまだ十分には取り込めていなかった。

 ステンドグラスの向こう、港町の空は鈍い灰色で、ところどころに霞んだ青が覗いている。

 木の床、長椅子の列、十字架と祭壇

 そのすべてが、シエルにとっては「当たり前の風景」だった。

 子どもたちが前の方から順に座り、静かになりきれないざわめきが、少しずつ鎮まっていき、前に立った神父が咳払いを一つし、聖書を開いた。


「――では、今日も始めましょう。神と、その御使いである天使たちの守りのうちに、この一日が置かれていることを感謝します」

 天使、という言葉に何人かの小さい子が、わずかに目を輝かせる。

 絵本に出てくる白い翼、光の輪、優しい笑顔

 夜、怖い夢を見たときにシスターが語ってくれた「あなたを見守る存在」

 この教会の教えでは、神や天使は当たり前のように肯定されている。

 神父もシスターも、「あなたたちは神と天使に守られている」と繰り返し語ってきた。

 それでも、シエルの胸の内は静かだった。


(もし本当にそんなものがいるなら、そもそもここに来る子どもなんて、もっとずっと少ないはずだわ)

 天井を見上げるふりをしながら、心の中で淡々と思う。

 祈りの言葉を口にする、姿勢も整える、歌うときはちゃんと声を出す。

 けれど「神や天使が自分を守ってくれている」と、素直に信じたことは一度もなかった。


(いたらいいな、とは思うけど)

 それは、きれいな物語としての“あればいい”であって、現実の話ではない。

 孤児院にいる子どもの半分くらいは、親に捨てられたか、どこかで折り合いがつかなくなって辿り着いた子だ。

 神も天使も存在する世界で、なぜそうなるのか――答えは用意されていない。


 だから、シエルは「いると教えられた天使」と、「目の前で泣いている子ども」なら、迷わず後者を優先することにしていた。


 祈りの時間が終わり、聖歌が流れ、礼拝堂から子どもたちがあふれ出す。

 小学生たちはランドセルを背負いに部屋へ駆け戻り、中学生組は玄関へ、シエルはブレザーのボタンを留め、一足先に外へ出た。


 高台の上で吹く風は冷たく、海の方には低い雲が垂れ込めている。

 神も天使も、相変わらずいなかった。


 天ヶ浜市立第三中学校

 慈愛の家から歩いて二十分ほど、坂を降りて住宅街を抜けた先にある、ごく普通の公立中学校。

 始業前の教室では、受験結果の話題が飛び交っていた。


「ねえねえ、私立どうだった?」「やめてそれは聞かないで」

「えー落ちたの?」「補欠だからワンチャン」「ワンチャンって言葉、現実はあんまり優しくないのよね...」

 黒板の隅には、受験日程を書いた一覧がまだ残っている。

 公立組、私立組、推薦組、特待組、進学先をすでに決めた者もいれば、これからが本番という者もいる。


 シエルの名前は、そのどこにも書かれていなかった。

 一覧に書かれるのは、確定した進路だけだ。

 彼女には、まだ「合否」が届いていない。


「シエル」

 後ろの席の女子が、机に肘をついて顔を覗かせる。


「この前言ってた女子高、受験どうだった?」

「まだ結果は出てないわ。来週までお預け」

「そっかー……あそこ、学費かからないんだっけ?」

「授業料は、ね。特待生として通うことになれば、の話だけど」

 言いながら、自分でもそれがどれほど大きな意味を持つかは理解していた。


 孤児院では、高校卒業まで生活を続けることができる。

 だが、学校にかかる費用をすべて施設が負担できるわけではない。

 公立高校ならまだしも、私立となればなおさらだ。


(ここを出ていくのか、このままここに残るのか)

 それは「高校進学」という単純な選択を超えた意味を持っている。

 慈愛の家は、高校を卒業するまで「いていい場所」だ。

 逆に言えば、高校を終えるまでは「ここにいてもいい理由」がある。

 その先のことは、自分で決めなければならない。


「私さ」

 隣の女子が、照れくさそうに笑った。


「ずっと、ここを出たい出たいって思ってたんだよね。何でもいいから“ここと違う場所”に行きたいって」

「……今は?」

「んー、ちょっと変わったかも。出たい気持ちはあるけど、ここが完全に嫌いなわけじゃないっていうか...

 バカな男子はいるし、面倒な先生もいるけど、全部まとめて“今の場所”なんだなって」


 外から差し込む光は弱く、教室の窓ガラスに室内の影を映している。

 シエルは、そのぼんやりとした反射に自分の横顔を見つけた。

 黒い髪、黒い瞳、どこにでもいるような日本人の中学生、自分の姿に特別な何かを見出すほど、夢見がちな年頃はとうに過ぎていた。


「シエルは、ここ出たい?」

「……正直に言えば、どちらとも言えない、かしら」

 少し考えてから、慎重に言葉を選ぶ。


「ここにいれば、生活は守られる。高校を卒業するまでの屋根とご飯は保証されてるし、シスターも先生も、それなりに気にかけてくれる。でも、それだけに頼り切っていたら、多分、その先で困るわ」

「その先?」

「高校を出た後よ。ここにいられなくなったとき、何も持っていなかったら、きっと苦しくなる」

 言ってから、少しだけ言い過ぎたかと思う。

 だが、隣の女子は怒るでも笑うでもなく、ただ「そっか」と小さく頷いた。


「シエルってさ、たまに大人っぽいこと言うよね」

「良い意味なら受け取っておくわ」

「良い意味だよー。……でもさ、大人って、あんまり楽しそうじゃないよね」

「それは、否定しづらいわね」

 思わず苦笑が漏れる。


 帰りのバスで見かけるスーツ姿の人々は、皆どこか疲れていた。

 電車の中で立ったまま眠り、ため息をつき、スマートフォンを覗き込み、どこか遠い場所を見ている。


 神や天使の話をする日本人の大人は少ない。

 神父とシスターを除けば、大半は黙々と今日と明日のことだけを考えて生きているように見える。


(神様に守られてる顔じゃない、とは思う)

 だからと言って、「守られていない」と断言できるほど傲慢にもなれず、ただ「自分は自分でどうにかするしかない」と思うだけ。





 放課後、空はもう暗くなりかけていた。

 冬の一日は短い


 西の空に残った薄い陽光が、港の方をかすかに照らし、その下で車のテールランプが細く赤く線を描く。


 慈愛の家へ戻る道は、少し上り坂になっていて、坂の途中で、シエルは立ち止まり、振り返った。

 街の灯りが、遠くで瞬いている。

 そのずっと向こう、見えない場所に、自分の進学先になるかもしれない高校があり、まだ見ぬ人たちの生活がある。


 ここに残るのか、外へ出るのか、どちらが正しいとも言えない。

 ただ、選ばないまま時間だけが過ぎてしまうことだけは、どこか怖かった。


(……できれば、あまり無理をしないで済む方がいい)

 心の奥で、ふとそんな願いが浮かぶ。

 誰かを押しのけてまで前に出たいわけじゃない、何か大きなことを成し遂げたいわけでもない。


 ただ、壊れるまで頑張る生き方だけは、したくなかった。





 教会に戻ると、礼拝堂の灯りがまた点いていた。

 夕方の祈りの時間、子どもたちの何人かは部屋で宿題をしていて、全員参加ではないが、参加したい者は自由に入ってよい、という形になっている。

 シエルは一瞬迷い、靴を脱いで礼拝堂へ入った。

 長椅子の後ろの方に腰を下ろし、前に座るシスターたちの背中を見つめる。


 神父の声が響く

「――神は、天使を遣わして、弱き者を守り給う」

 繰り返し語られてきた言葉、それを否定したくなるほど、世界を知っているわけではない。

 ただ、無条件には頷けないだけ...


(もし本当に天使がいて、弱い者を守るなら)

 どうして、自分たちはここにいるのだろうか

 どうして、あの子は泣きながら親の名前を呼ぶのだろうか

 どうして、誰も迎えに来ないのだろうか


 問いには、いつも答えがなかった。

 だからシエルは、祈りの言葉を口にしながらも、それが「世界を変える()()()()()()」とは思わないことにしていた。

 祈りは、心を落ち着かせるためのもの

 天使は、怖い夜に眠れるようにするための物語

 それ以上でも、それ以下でもない...





 夜、二段ベッドの上段で横になりながら、シエルは天井の薄い影を見つめていた。

 窓の外には、街灯の光がぼんやりと広がっていた。


(天使なんて、きっといない)

 そう決めつけるには、心はまだ子どもすぎるし、そう信じるには、現実を知りすぎている。

 その中間で揺れながら、日々をやり過ごしてきた。

 高校を卒業するまで、ここにいてもいい、出ていくこともできる。

 どちらにしても、明日の朝になれば、また鐘が鳴り、祈りがあり、学校があり、宿題がある。


 世界は、そう簡単には変わらない。

 奇跡も、天使も、どこか遠い話だ。

 せめて、自分の手の届く範囲にいる子たちくらいは、泣かせずに済むように...

 せめて、自分だけは壊れないように......


(それくらいの願いなら、天使じゃなくても、きっと...)

 思考はそこで途切れ、眠気が静かに意識を攫っていく。

 このときのシエルはまだ知らない。


 自分の中に、世界の均衡を揺らすほどの「何か」が眠っていることを...

 そして、やがて自分自身が「天使」と呼ばれる存在へと変貌していく未来を......


 ただ、冬の夜の静けさの中で、小さな寝息だけが規則正しく続いていた。

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