第15話 天宮シエルとして、そして――
春休みが、気づけば終わりに近づいていた。
桜にはまだ少し早いけれど、空気の冷たさはどこか、丸みをおび始めていた。
冬の透明な冷気に、ほんのり湿り気と柔らかい匂いが混じり始める、そんな午後だった。
その日、天宮家のポストに、一通の封筒が届いた。
差出人は、市役所。
宛名は、天宮武臣。
リビングのテーブルに封筒が置かれ、咲がカッターで端を切り開く。
中から取り出した書類にざっと目を通し、ふっと表情を緩めた。
「……受理されたわ」
ほんの少しだけ、声が震えていた。
「養子縁組届、正式に通ったって。
これで戸籍上も、《天宮シエル》になる」
その言葉に、美穂が胸の前で手を組み、そっと息を吐く。
「そう……よかった……」
武臣は、一度だけしっかりとうなずいた。
「咲、学校の方は?」
「もう連絡してある。
入学式の一週間前に役所から受理通知が来るって分かってたから、そのタイミングで。
名簿の名字も《天宮》に変えてもらえたわ」
その一文は、あとでシエルが日記の隅に、こっそり書き留めることになる。
(……本当に、天宮シエルになるんだ)
山本シエルでもなく
天宮大和でもなく
天宮シエル
見慣れないはずなのに、ここ最近、少しずつ自分の中にしみ込んできた名前。
胸の奥で、カチリと小さな音がしたような気がした。
テーブルの端には、体育のジャージと新しい通学カバンが置いてある。
さっきまで、自分で体操服の指定箇所に名前を入れていた。
天宮シエル
と、書き込まれている。
(名字って……こんなに、重かったっけ…)
孤児院では、苗字はただの記号だった。
書類の上の、区別するための線。
今は、家族に繋がる“端っこ”だ。
だからこそ――胸の奥にひっかかっているものが、いっそう濃くなる。
(……まだ、全部は話してない)
大和としての記憶のことは、すでに話した。
アルバムの中の自分を見ながら…
泣きながら…
けれど、あの夜。
銀の髪と碧い目の“はじまり”になった、裏庭での出来事は…
翼と光輪のことは……
まだ、誰にも言っていない。
(このまま、“普通の高校生”のふりを続けて、天宮の名前だけもらうのは……)
ズルい……
その言葉が、喉の奥にひっかかる。
(今日、言おう)
胸のどこかで、決意という名のスイッチが静かに入る。
前世の記憶よりも、よほど説明しがたい真実
信じてもらえなくても、おかしくない話
それでも――この家の人たちにだけなら、聞いてほしいと思った。
その夜。
夕食の片付けが済み、テレビのバラエティ番組がゆるく流れ始めた頃。
リビングの座卓の端で、シエルは膝の上の手をぎゅっと握った。
「……あの」
思いきって声を出す。
「みなさんに、お話ししたいことがあります」
その一言で、テレビの電源が落とされる。
武臣がリモコンを置き、美穂がクッションを抱え直す。
咲はマグカップを手のひらで包み込む。
晃太はソファの背にもたれた姿勢のまま、こちらに視線を向ける。
結衣は携帯ゲーム機の画面を落とし、テーブルにそっと置いて、真面目な顔つきになった。
天宮家の全員の視線が、自然とシエルへと集まる。
逃げようと思えば、まだ逃げられなくはなかった。
「やっぱりなんでもないです」と笑ってごまかすこともできる。
けれど――ここまで来て背を向けたら、多分、一生後悔する。
「前に、その……大和としての記憶のことは、晃太さんにもお話ししました…」
なるべく落ち着いた声を装いながら、言葉を選ぶ。
「でも、全部は言っていませんでした。髪と目の色が変わったときのこと…
孤児院の裏庭で、何があったのか……」
武臣の目が、わずかに細くなる。
「――話せるところまででいい。無理に思いだす必要はない」
「いえ……ちゃんと、話したいです」
胸の奥のひっかかりが、いま一度きゅっと蠢いた。
「中学の卒業式の日でした」
静かに、記憶の扉が開く。
「中学を卒業できて、星ヶ丘女学院への合格も決まって……
それなのに、ぜんぜん嬉しくなくて……」
卒業式のお祝い。
教会の礼拝堂。
子どもたちの、浮き立った声。
「これからどうしたらいいのか、分からなくて…
ひとりで裏庭にゴミを出しに行って……
そのままブロック塀のところに立ち尽くして、ぼーっとしてたんです」
そこまで話したところで、美穂がそっと胸に手を当てる。
「そのとき、後ろから足音がして」
名前を呼ばれ、振り向いた。
「田島さんっていう、男性の職員さんがいました。
いつもは事務室にいて、事務的な話ししかしない人で…
その人が、“卒業おめでとう”って言ってくれて……」
ここまでは、まだ“普通”の話だ。
「でも、だんだん雰囲気が変わっていって…
“ここで育ててもらったこと、感謝してるよね?”とか。
“ご飯も学校も全部ここが用意してきたんだから、少しくらい恩返ししてもいいんじゃない?”って……」
咲が、ほんのわずかに顔をしかめた。
「それで、“もう子どもじゃないよね”って、言われて……」
手首に絡みついたあの指の感覚が、ありありと蘇る。
肩に置かれた手。
逃げ道を塞ぐように、じりじり詰めよってくる距離。
「背中が塀に当たって……逃げられなくて…
“いやだ”って思ってるのに、声がなかなか出なくて……」
喉が、きゅっと細くなる。
「“離してください”って言ったんですけど、全然離してくれなくて…
そのとき、体の中で……何かが、落ちていく感覚がしました」
落ちて、落ちて、底に届いた瞬間――
「――世界が、改変されたような気がしました」
その表現に、晃太がわずかに目を見開く。
「音が消えて、風の音も遠くなって…
代わりに、鐘の音みたいなのが、頭の奥で鳴り響いて…
目を閉じてるのに、光がいっぱいになって…」
あの白金色の光。
夜の裏庭を内側から押し広げるような、静かな爆発。
「掴まれてた手首から、ふって力が消えて…
代わりに、自分の中から、すごく大きなものが溢れてきました。
……怒り、とかとも違うんですけど……」
「違う?」
武臣が、小さく問い返す。
「私を傷つけようとした田島さんへの怒り、っていうより……
世界そのものの理不尽に対する、すごく古い憤り、みたいな…」
自分で言っていても、形容しがたい感覚だと思う……
「次第に、頭の上に、冷たくて優しい光が浮かんで…
背中の肩甲骨のあたりから、熱が噴き出して…
服を突き破るんじゃなくて、布をすり抜けるみたいに、光の翼が生えてきて……」
そこまで言ったところで、リビングの空気がはっきりと変わった。
誰も、すぐには続きの言葉を促そうとしない。
「白銀の翼が三対――
そこにあるだけで……裏庭の空気が変わる感じで…
頭の上には、光輪みたいなのも出てました…」
自分の口から出ているとは思えない言葉の並びだ。
「田島さんは、それ見て……崩れるみたいに倒れて…
でも、もっとたくさんの人にこんな姿を見られたら、二度と普通の生活には戻れないとおもって……」
「全部消えてって必死に願ったんです……
そしたら、光輪と翼だけは、溶けるみたいに消えてなくなりました。そのあと、田島さんにケガはなかったみたいですが……
意識を失っていたので、そのまま救急車で運ばれていきました」
救急隊員の顔
医師の「外傷は見られませんが」の声
「でも孤児院の人たちにどう説明していいか分からなくて…
“裏庭に行ったら倒れていました”ってだけ、言って…
――その時は嘘じゃないって自分に言い聞かせて……」
最後の一文だけは、はっきりと言う。
「結局、髪と目の色だけは、戻らなくて…
――それ以来です、“目立つようになった”って言ってたのは……」
言い終えたとき、喉がからからだった。
リビングに、しばし沈黙が落ちる。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
「……以上です」
それだけ付け足して、シエルは視線を落とした。
誰も、すぐには何も言わない。
美穂の手が、小さく震えている。
咲はマグカップを握りしめたまま、目を伏せている。
晃太は顔を伏せ、何かを必死に咀嚼しているようだった。
結衣は、膝を抱えた姿勢のまま、じっとシエルを見ている。
最初に口を開いたのは、咲だった。
「……田島って、その人の名前ね?」
声が低い。
「今も入院中だって、シスターから聞いてる。
“急性のストレス性ショック”で、しばらく療養が必要だって……」
「シエル!」
咲は、額を指で押さえながら、息を吐いた。
「ごめん…
まず最初に出てきた言葉が、こんなふうで本当に申し訳ないんだけど」
顔を上げる。
「それ、“夢”とか“幻覚”だった可能性とかは、全くない?」
真正面からの質問。
責める調子ではないけれど、職業柄の慎重さが滲んでいた。
「トラウマによる一時的な解離、とか…
そういう線は、まったく?」
シエルは、少し考え、それから首を振った。
「分かりません。でも……頬に当たっていた風も、服をすり抜けて出てくる翼の感触も……
全部、夢にしては、はっきりすぎた気がします」
「そう……」
咲は、しばらく黙り込む。
今度は、美穂が口を開いた。
「髪と目の色は、あの日からもう、戻らないのよね」
「はい」
「染めてるわけでも、カラーコンタクトでもないって、私たちが一番よく分かってるし…
病気とか、外的な要因で説明はつかないって、お医者さんにも言われてるし……」
そこで言葉を切り、少しだけ笑う。
「でも、“翼と光輪”って言われたら……ごめんなさい、ちょっと、すぐには信じきれないわ」
その正直さが、むしろありがたかった。
「俺もだ」
武臣が、低く言う。
「シエル
お前を疑っているわけではない。お前が“そう見えた”と言うなら、そのとおりなのだろう。だが、“天使のようなもの”が実際に、この現実に顕現したなどとすぐに言い切れるほど、俺の頭は柔らかくない」
元自衛官らしい、現実主義者の言い方だ。
「晃太は?」
武臣が話を振る。
「いやぁ……」
晃太は、頭をかきながら苦笑した。
「正直、話だけ聞いてると、“すげえファンタジーだな”って思っちゃうよね。
サーキットのピットでも、怪談みたいなのはよく聞くけどさ…
“翼が三対”って、なかなかのインパクトだよ」
「でしょうね……」
シエルは、膝の上で手を握りしめる。
(そうだよね。普通、そう思うよね)
“実は前世はおじさんでした”のときより、反応は慎重だ。
そりゃそうだ。
「……それでも」
結衣が、小さな声で口を開いた。
「私、シエルが嘘ついてるようには見えない」
その言葉に、視線が集まる。
「だってさ、もし“ただの妄想”とか“夢”だったら、“髪と目の色が変わった”っていう結果だけ話せばよかったんだよ…
わざわざ、田島のことまで……ああいう形で話す必要ないじゃん!」
その「形」に、また美穂の顔が曇る。
「自分が怖かったことまで、わざわざ晒して…
それでも話そうとしたのは、多分……“信じてほしいから”じゃなくて、“隠したくなかったから”でしょ?」
図星だった……
「……はい」
喉の奥から、小さな声が出る。
「隠したまま、名字だけもらうのは、ズルい気がして…
天宮の名字で学校に行って、“普通の子ども”のふりをしながら。
翼と光輪のことを、ひとりだけで抱えるのが……嫌で…」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
「それで、“嫌われてもいいから話そう”って思いました」
「嫌われる前提なんだ……」
結衣が、少し呆れたように笑う。
「でもさ。
“信じる・信じない”って、今ここで決めなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「だって、“翼が生えて光輪が出た”って話だけ聞かされて、“はい、信じました!”って言えるほうが、逆に怖くない?
私、多分、その場で宗教勧誘断れないタイプになっちゃう…」
「例えがひどい」
咲が苦笑する。
「だから、とりあえず今は、“シエルがそう感じたこと”は信じる。
“世界の仕組み”としてどうなってるかは、保留…
……それでよくない?」
結衣の言い方は、その年齢に似合わないくらい現実的だ。
「でっ!」
彼女は、シエルをまっすぐ見た。
「もうひとつ、大事なこと聞いていい?」
「なんでしょう……」
「その翼と光輪って、今も出せるの?」
リビングの空気が、ぴん、と張る。
「ちょ、結衣……!」
美穂があわてて声を上げる。
「だってさ、
もしまた、どこかで勝手に出ちゃったときに、私たちがパニックになるの嫌なんだもん。“あ、これね”って思えた方がいいじゃん!」
理屈としては、妙に筋が通っている。
「シエル」
武臣が、ゆっくりと問う。
「お前の身体に負担がかからないのなら、ここで一度見せてもらう、というのもひとつのやり方だ。だが、嫌なら断っていい。“証明しろ”と言いたいわけではない」
「……出せます」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「完全にコントロールできるわけじゃないですけど、あの夜以来、何回か……こっそり練習して、短い時間なら、出して、すぐ戻すくらいは…」
自分で言いながら、喉がからからになっていく。
「じゃあ」
結衣が立ち上がった。
「カーテン、全部閉めよう」
ガラリ、とレースカーテンと厚手のカーテンが引かれていく。
外の街灯の光が遮られ、リビングの中は、天井の灯りだけの空間になった。
いつも見慣れた部屋が、少しだけ非日常の匂いを帯びる。
シエルは座卓から立ち上がり、部屋の中央に移動した。
胸元には、いつもの銀色のロザリオ。
それをそっと握りしめる。
「……じゃあ、少しだけ」
深呼吸をひとつ。
(大丈夫)
ここは天宮家のリビングだ。
孤児院の裏庭ではない。
誰かに追い詰められているわけでもない。
目を閉じる。
意識を、自分の内側へと沈めていく。
胸の奥。
あのとき世界を白く染めた光の源泉――
静かに、そこに触れる――
背中の内側で、ぬるい熱がじわりと膨らんだ。
肩甲骨のあたりから下へ、それが…ぐっと押し広げられる。
空気が、わずかに震えた。
ひゅ、と、風が通るような小さな音がした気がした。
銀の髪が、目に見えない風に揺れる。
足もとに落ちていた影が、柔らかく押し広げられていくように消えていく。
シエルの背中から、白い光が静かに溢れ出した。
それは、物理的な「羽根」ではなかった。
光の粒子が集まり、輪郭を持ち、形を成す。
左右三対の翼が、背中のすぐ後ろに展開する。
羽ばたきはしない。
ただ、そこに在る。
それだけで、部屋の“空気の重さ”が変わった。
頭上には、柔らかな光の輪が浮かぶ。
眩しいのに、不思議と目に痛くない光。
天井の蛍光灯の白とは別種の、薄い金色を帯びた輝き。
照明の明かりが、その輪郭に溶けていく。
――天宮家のリビングは、一瞬だけ、どこかの礼拝堂のように見えた。
「……」
誰も、息をするのを忘れていた。
美穂は、口元に手を当てたまま、瞳を大きく見開いている。
咲は、ハンカチを握りしめたまま、言葉を失っていた。
晃太は、「マジか……」と、かすれた声で呟くのが精一杯だった。
武臣だけが、ゆっくりと悟ったような顔で、その光景を見つめていた。
結衣は――なぜか、じっと凝視していた。
「……きれい」
最初にこぼれたのは、その一言だった。
怖い、より先に……
「なんか……ずるくない?」
結衣は、半ば呆れたように笑う。
「“怖い”とか“気味悪い”とか言わせないビジュアルしてるの、ずるいよね……!?」
「すみません……」
シエルは、光の中で小さく苦笑した。
緊張で足が震えているのは、翼が隠してくれている。
「もう……いいか?」
武臣が、静かに問う。
「長くは、きついだろう?」
「はい」
シエルは、光の源からそっと意識を切り離した。
背中の翼が、薄い霧のようにほどけていく。
頭上の光輪が、朝靄のように溶けて消える。
光が完全に消えたあとも、部屋にはまだ、微かな温かさが残っていた。
膝から力が抜け、シエルはその場にぺたりと座り込んでしまう。
「シエル!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、美穂だった。
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
「だ、大丈夫です……ただ、ちょっと疲れただけで……」
美穂が片腕で支え、結衣が反対側から支えて、ソファまで連れて行く。
「前に“普通にしんどい”って言ってたやつ?」
「だから、“少しだけ”って……」
そんなやりとりさえ、愛おしく感じる。
ソファに座らされ、クッションを背に押し当てられたところで――
武臣が、座卓の向こうから、深く頭を下げた。
「すまん」
「えっ?」
「お前の話を、半分しか信じられなくて、すまんと言っている」
顔を上げた武臣の目は、うっすらと濡れていた。
「今は元だが自衛官というのは、どうにも、見たものしか信じられん。
だが――今のは、どう足掻いても、“見た”としか言えん」
ひとつひとつ、言葉を選ぶように。
「翼も光輪も、理屈では説明がつかん。
だが、説明がつかんからといって、“なかったこと”にはできん」
武臣は、ゆっくりと言葉を続けた。
「シエル
お前は、天宮大和の記憶を持って生まれてきた。
同時に、《天宮シエル》として、この家を選んで来てくれた。
そこに“人間かどうか”だの、“天使かどうか”だのを挟み込む余地は、俺にはない」
「お父さん……」
美穂も、涙をにじませながら頷く。
「さっき、“すぐには信じきれない”なんて言ったのに、いざ目の前で見たら……
信じるとか信じないとかを飛び越えて、“ああ、この子、やっぱり大変なんだな”って思っちゃった……」
クッションをぎゅっと抱きしめる。
「髪の色が変わっても、目の色が変わっても…
背中から翼が出て、頭の上に光の輪が浮かんでも…
ご飯を食べて、お風呂で泣いて、布団で眠って……ってしてる子は、私にとっては“うちの子”よ」
「理屈、豪快だなぁ、お母さん……」
咲が、涙声で笑う。
「でも、私も同じかな」
咲は、封筒から養子縁組の書類をひらりと持ち上げる。
「戸籍上、《天宮シエル》って名前は、もう正式に受理された。
役所は、“天使だから”って理由ではじいたりしなかったわ」
「そんな却下理由、見たことないですけど……」
シエルは、思わず笑ってしまう。
「戸籍上は、ちゃんと日本国民で、もうすぐ高校一年生の女の子。
問題になるとしたら、“天使みたいなことができるせいで、シエルが傷つくかどうか”それだけよ」
咲は、真剣な目でシエルを見つめた。
「だから、その部分に関しては、遠慮なく私たちを使って。制度のこと、学校とのやり取り、変な噂への対応。そういう“面倒なこと”は、全部大人の仕事だから」
「……はい」
晃太は、頭をかきながら、どこか照れ臭そうに笑う。
「俺さ、さっきまで“いやぁ、さすがに翼と光輪はないだろ”って思ってたんだよね」
「正直ですね……」
「でも、目の前で見ちゃったからさ…
もう、“ある”前提で考えるしかないわけで……」
晃太は、指先でテーブルの木目をなぞりながら続ける。
「レースの世界でも、“どう考えても人間だけじゃ辿り着けない領域”ってあるんだよ。奇跡みたいなセーブとか、ギリギリの判断とか…
そういうの見るたびに、“何か上から見てるやついるんじゃないかな”って、勝手に思ってた」
「……はい」
「もし、その“何か”の一部がシエルだって言うなら……正直、“すげぇな”って感想しか出てこない…
でも、それと同時に……」
少し声を低くする。
「危ないことするときは、ちゃんと相談しろよ。
“二回目の死”とか、シャレにならないから……」
「……がんばって、死なないようにします」
「“がんばって”って言うな」
思わず、笑いがこぼれる。
最後に、結衣が、そっとシエルの手を握った。
「ねぇ、シエル」
「……なに?」
「前にも言ったけどさ…」
結衣は、指先に少しだけ力を込める。
「ひとりで背負わないでね」
その一言が、胸の奥にまっすぐ落ちていく。
「翼のことも、光輪のことも、怖かったなら、“怖かった”って言って…
怖くなかったなら、“ちょっとすごくない?”って、ちゃんとドヤって...」
「ドヤる、って……」
「だって、それも含めて“天宮シエル”でしょ?
“天宮大和の記憶を持ってる誰か”じゃなくて……」
言われてみれば、その通りだ。
「だからさ……」
結衣は、少しだけ照れたように笑う。
「これからも、普通に文句言っていいし、普通に甘えていいし、翼が出ちゃったときは、一緒に隠す方法考えるし、どうしても隠せなかったら……一緒に怒られよ」
「一緒に、ですか?」
「そう。一人で怒られんの、嫌じゃん!」
その理屈に、いつもの天宮家らしさが詰まっていた。
シエルは、握られた手に、そっと力を返す。
「……はい!」
喉の奥に、また熱いものがこみ上げてくる。
「鬱陶しいくらいに、頼らせてもらいます」
「よろしい」
結衣が、満足そうに笑った。
その夜――
天宮家のリビングには、いつもより少し遅くまで灯りが点いていた。
翼も光輪も、もうどこにも見えない。




