閑話3 晃太、帰宅す──ピットの中の戦争
それは、星ヶ丘の空がすっかり群青に沈みきった頃だった。
「……あ、帰ってきたわね」
キッチンで皿を拭いていた天宮美穂が、窓の外をちらりと見て呟く。
玄関先に、見慣れたワンボックスが滑り込んでくるのが見えた。
車体には、さりげなくレーシングチームのロゴ。
派手ではないが、分かる人には分かるやつだ。
「晃太か?」
ソファでニュースを見ていた天宮武臣が、リモコンを置いて立ち上がる。
「お父さん、帰ってきた?」
二階から、どたどたと足音が下りてきた。
自室から飛び出してきた天宮結衣だ。
その少し後ろ、階段の踊り場で様子を伺っていた銀髪碧眼の少女も、そっと顔を覗かせる。
(……レースエンジニアの人、か…)
シエルは、胸の奥が少しだけざわつくのを感じていた。
大和だった頃、何度か顔を合わせたことがある男…
今目の前に現れようとしているのは、「天宮家の婿」であり、「レーシングチームのエンジニア」だ。
ドアの向こうで、ドアノブの回る音がした。
「ただいまー……って、おっと」
玄関のドアが開いた瞬間、結衣が勢いよく飛びついた。
「おかえり、お父さん!」
「お、おう、ただいま、結衣」
黒髪を後ろでラフにまとめた男が、少しよろめきながら笑う。
天宮晃太
四十前後、細身なのにどこか筋肉の線が浮き出ている体つき。
目の下にはうっすらクマがあるが、その目は妙に生き生きとしていた。
作業着っぽいジャンパーの袖から覗く手首には、古びたクロノグラフ。
(……“現場の人間”だ)
シエルは、一目見てそう思った。
サーキットのピットで、走り終わったマシンを迎えるときの、あの空気を纏っている。
「おかえりなさい、晃太さん」
美穂が笑顔で迎える。
「ご飯は温め直せばすぐだから、先に手だけ洗ってきて」
「助かります。今日、移動長くて……あ、武臣さんも、ただいま戻りました」
「うむ。無事に帰ってきたなら何よりだ」
武臣は立ち上がりながら、ふと階段の方を見る。
「……シエル。降りてきなさい」
「は、はい」
慌てて姿勢を正し、階段を降りる。
今日の服装は、結衣プロデュースの「清楚寄りカジュアル」だ。
銀髪はいつもより丁寧に梳かしてあり、ロザリオは控えめに胸元で光っている。
外面を、以前より少しだけ気にするようになった自分を、内心で苦笑しながら…
「この子が、例の――」
晃太の視線が、シエルに向く。
一瞬だけ、驚きが走り、それからすぐに柔らかい笑みに変わった。
「はじめまして。山本シエルです。……お邪魔しています」
頭を下げると、胸元のロザリオが小さく揺れた。
「おお……」
晃太は、思わずといった調子で息を呑む。
「話で聞いてたより、ずっと……本当に銀髪なんだね。写真とかSNSじゃなくて、実物で見るとインパクトが違う……」
「ちょっと晃太、第一声それ?」
咲が、エプロン姿のまま廊下の奥から現れた。
「あなた、いい大人なんだから、もうちょっと言い方を――」
「いや、だってさ。銀髪碧眼の美少女が家にいるって聞いてたから、どんなコスプレイヤーさんがいるのかと思ったわけですよ…」
「コスプレイヤーじゃないです……」
シエルは、小さく抗議する。
(中身はおじさんですとか、言えるわけないですし…)
「晃太」
武臣が、咳払いをひとつした。
「この子は、うちで預かっていて、いずれ養子に迎えるつもりでいる子だ。
星ヶ丘女学院に通う予定の子でもある。……変な目で見るなよ」
「見てない見てない!
仕事柄、つい“絵になるなぁ”って思っただけで…」
晃太は両手をひらひら振って見せた。
「改めまして。天宮晃太です。レース屋の端っこで、バイクとパソコンに向かっている存在……よろしくね、シエルちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
差し出された手は、思っていたよりも固く、指先には細かな傷がいくつもあった。
(機械いじりしている手……かな)
鉄と油の匂いが、うっすらと残っていた。
夕食は、少し遅めの時間になった。
メインは、生姜焼きとサラダ、それに味噌汁。
レース遠征から帰った晃太のために、咲が「普通のご飯」に全力を注いだメニューだ。
「はぁ……家庭の味だ」
晃太は、生姜焼きを一切れ噛みしめて、しみじみと言った。
「遠征先だと、どうしてるの?」
結衣が、ご飯をかき込みながら尋ねる。
「基本、サーキット周辺のレストランかケータリングかな…
あと、コンビニとファストフード」
「うわぁ……それ、何レースも続いたら、体おかしくなりそう」
「だから、こういう家庭の飯はマジで沁みるのよ…」
晃太は、味噌汁の椀を両手で持ち上げた。
「大和さんも、生前はよく言ってたよ。“母ちゃんの味噌汁は世界一”って」
晃太のその一言に、テーブルの空気がほんの少しだけ揺れた。
美穂の手が、箸を持ったまま小さく止まる。
武臣も、視線を一度だけ落とした。
「……そうね」
美穂は、穏やかな笑みを浮かべる。
「文句ばっかり言いながら、最後の一滴まで飲んでたわよね、あの子」
シエルは、湯気の向こうでそっと息を吸い込んだ。
(覚えて、いる)
味噌汁の香り…
仕事帰りに、疲れた体で飲み干した味と温度…
そんな記憶が、胸の内側で小さく波を立てる。
「ところで、晃太さん」
シエルは、思い切って口を開いた。
「お仕事の、その……レースのエンジニアって、具体的にはどういうことをされているんですか?」
(細かいことは、当時余裕がなくって聞いてなかったんですよね…)
晃太の箸が、そこで止まる。
「お、興味ある?」
「はい。あの……サーキットとか、昔から好きで。動画サイトでオンボード映像を見たりするのが……」
「WeTube漬けだもんね、この人」
結衣が、呆れたように笑う。
「レースの動画と軍用機や艦艇解説、それと猫ばっか見てるから、私のおすすめが全部それに侵食されてるんだけど…」
「それは申し訳ないです……」
「いやいや、いいことだよ」
晃太は、目を細めた。
「二輪のレースってさ、表から見ると“ライダーとマシン”なんだけど、裏側は数字と会議でできてるから」
「数字と……会議!?」
「そう。ラップタイム、タイヤの温度、路面温度、燃費、ギヤ比、空燃比、サスのストローク量……
それを全部データで見て、“このコンマ一秒をどう詰めるか”って、ひたすら考える仕事」
その言葉の端々に、妙な熱が混じっていた。
「シエルちゃん、もしよかったら、あとでちょっと見る? この前のテストのログとか…」
「えっ……いいんですか?」
「機密に触れない範囲ならね。ラップチャートとか、オンボード映像くらいなら問題ないでしょ」
「見たいです!」
思わず、いつもより少し大きな声が出た。
結衣が、にやりと口元を緩める。
「お父さん、ちょろいね」
「なんだその評価は」
「でも、シエルはガチで好きだから、見せてあげた方がいいと思う。
私、“速いバイクカッコいい”くらいの雑な理解しかないし」
「お前はそれでいいんだよ」
笑い声が、ようやく食卓から緊張を追い払っていく。
夕食後
「じゃ、ちょっとだけね」
晃太は、天宮家の一番奥の部屋――自分の作業部屋のドアを開けた。
中に足を踏み入れた瞬間、シエルの呼吸が、ほんの少しだけ変わる。
壁際には、本棚と工具箱
レース関連の資料、バイク雑誌、ファイルされたテストデータ
中央には、どっしりしたデスクと、大きめのモニターが三枚
デスクの脇には、ハイスペックなタワーPCが鎮座していた。結衣の部屋にある、お古のタワーPCとは別の、晃太がレース用のデータ解析に使っている“本気マシン”
(……これが)
以前から、結衣の話の中にたびたび出てきた「晃太のマッチョPC」。
今、こうして目の前にある。
「シエル」
晃太が、モニター前の椅子をぽん、と叩いた。
「ここ、座りな」
「えっ……」
「大丈夫。触っちゃダメなところはちゃんと言うから」
言われるまま、シエルは椅子に腰を下ろした。
晃太は、その後ろから少し覗き込むように立つ。
(わぁ……)
モニターに映し出されたのは、サーキットの俯瞰図と、ラップタイムの一覧。
別のウィンドウには、速度や回転数のグラフが並んでいる。
「これはね、この前のテストのデータ。縦軸が速度、横軸がコースの距離。
このピークがストレートエンドで、この谷がブレーキング。ここが立ち上がり」
「……きれい」
シエルの口から、思わずそんな言葉が漏れた。
速度の波形が、まるで音楽の譜面みたいに見える。
一本のラップの中に、攻めと守り、リスクと安全マージンのバランスが刻まれている。
「きれい?」
「はい。あの……“走りの癖”が、線の形に出ているというか……
この辺り、ブレーキちょっと早めに入ってますよね?」
「お」
晃太の声色が変わる。
「分かる?」
「ここだけ、立ち上がりで回転が安定してるように見えて……。他のラップと比べると、少しだけ慎重なラインというか」
「……マジで分かってるな、君」
晃太は、感心したように笑った。
「そう。この区間、朝イチにちょっとハイサイド(*)未遂があってね。
ライダーが、無意識にブレーキを早めにかけ始めてる。
本人は“攻めてるつもり”なんだけど、データはちゃんと怖がってるのを教えてくれるんだ」
モニターを指しながら、晃太の声には、ピットの匂いが混ざっていた。
「じゃ、次はオンボード映像行ってみようか。音、ちょっと大きいから気をつけて」
画面が切り替わる。
視界いっぱいに、サーキットのホームストレート
轟音とともに、マシンが加速していく
「わ……」
思わず、シエルの心も一緒に加速する。
左コーナー
軽くブレーキを当てて、車体を倒し込む。
立ち上がりでスロットルを、ほぼ全開にして、縁石をかすめていく。
次のコーナーで、前車が少しふらついた。
(そこで突っ込めぇぇ……!)
思わず、声が出そうになる。
代わりに、膝の上でぎゅっと手を握りしめる。
「これ、ライダーさん……何考えてるんでしょうね」
「たぶん、“ここで無理したら死ぬ”って思ってる」
晃太が、少しだけ真面目な声で言う。
「テストのときはね、攻めるラップと、タイヤの持ちを優先するラップと、いろいろある。エンジニアとしては、“もっと行けるだろ”って思う瞬間もあるけど……
でも、マシンに乗ってるのはライダーだから…」
オンボード映像の中で、メインストレートを駆け抜けるマシン。
ピットウォールが過ぎ去るとき、一瞬だけチームのピットボードが映る。
「エンジニアの仕事はね」
晃太は、モニターに映るピットボードを指差す。
「ライダーに全部をやらせないことだと思ってる」
「全部を……?」
「ライディングも、タイヤマネジメントも、燃費も、戦略も、“全部自分で背負わせたら”潰れる。だから、ライダーには“走ること”に集中してもらって、こっちはこっちで別の戦場を引き受ける」
速度グラフ
オンボード映像
ピットボード
そのすべてを見ながら、晃太の言葉は続く。
「雨が降るかもしれないとか…
セーフティカーが入るかもしれないとか…
燃費がギリギリだとか…
そういう“もしも”で頭をいっぱいにしながら、今この一周の意味を考える」
「……」
「だから、君がさっき“きれい”って言ってくれたの、ちょっと嬉しかった。
こっち側から見たレースって、観客からはなかなか見えないからね」
シエルは、モニターに映るラインを見つめながら、静かに息を吐いた。
「晃太さん」
「うん?」
「……すごいです!」
言葉としては安っぽい。
けれど、今の自分にはそれしか出てこなかった。
「ライダーさんも、もちろんすごいですけど……
その、走ってないところで、こんなにたくさんの人が戦っているんだなって……改めて思って……」
ピットの片隅
キーボードを叩くエンジニア
燃費を計算する戦略担当
ピットインのタイミングを睨む監督
それらが一つの絵として繋がった瞬間だった。
「いやぁ」
晃太は、照れくさそうに頭をかいた。
「そんな真面目に褒められると、なんかむず痒いな」
「お父さん、褒められ慣れてないもんね」
いつの間にかドアのところに立っていた結衣が、にやにやしながら言う。
「レース終わっても、“あのセッティング良かったです!”ってライダーに言われるより、WeTubeのコメント欄で“マシン仕上がりすぎでは?エンジニア誰よ”って書かれてる方が喜ぶタイプだし」
「お前、それどこ情報だよ」
「お母さんが言ってた」
「母ちゃん……」
シエルは、思わず小さく笑ってしまった。
(ああ、いいな)
天宮家の空気。
晃太が、少し不器用に褒められ慣れていない姿。
それら全部が、サーキットとは違う場所での「戦い方」に見えた。
「シエル」
晃太が、ふと真面目な顔でこちらを見る。
「君、もしよかったらさ」
「はい?」
「今度、サーキットに遊びに来る? 仕事で行ってるから、あんまり自由には動けないけど……
ピットの外からなら、レースの“空気”くらいは感じてもらえると思う」
「……!」
胸の奥で、何かが跳ねた。
軍用機や艦艇、バイクの動画ばかり見ていた前世の記憶
レースの映像にかじりついていた今の自分
そんな自分たちが、一斉に「行きたい」と叫んだ気がした。
「行きたいです!」
シエルは、即答していた。
「ぜひ、行かせてください!」
「おじいちゃんとおばあちゃんにも相談しないとだけど……」
結衣が、現実的なことを口にする。
「でも、いいじゃんそれ。私も行く」
「お前は勉強しろ」
「ひどくない?」
三人の会話が、作業部屋にさざ波のように広がっていく。
その光景を見ながら、武臣は廊下の暗がりでそっと目を細めた。
扉の隙間から漏れる、モニターの光
若い声
エンジン音
(……あいつは、こういう形で“戦場”に戻ったのかもしれんな)
息子の遺した空白を、別の誰かが少しずつ埋めている。
そこに、無理やり意味を見出そうとは思わない。
それでも――
銀の髪の少女が、ピットのデータに目を輝かせている姿は、間違いなく「天宮家の一員」としてそこにあった。
モニターの前では、まだ会話が続いている。
「晃太さん」
「ん?」
「その……このパソコン、すごく速そうですけど」
「ああ、これ? レースのデータ重いからね。動画も解析ソフトも同時に走らせるし」
「……今度、勉強用に、ちょっとだけ使わせてもらってもいいですか?」
さらりとした口調で言いながら、シエルの目はわずかにきらめいた。
レースデータではなく、「コード」と「計算」という別の意味で……
「もちろん。変なとこさえいじらなければ、いくらでも」
晃太は、簡単に頷いた。
このとき彼はまだ知らない。
この申し出が、のちに“モータースポーツ業界のバランスをちょっとだけ傾けかける”事件の、きっかけになることを……
そして、天宮シエルという少女が――
ピット裏の「戦場」にも、いつの間にか足を踏み入れてしまうことを……
今はただ、星ヶ丘の小さな家の一室で。
銀髪の美少女と、ゲーマー女子と、レースエンジニアが。
同じ画面を見つめながら、胸を躍らせているだけだった……
*ハイサイド:主にバイクでコーナリング中に、タイヤが滑った後に急激にグリップが回復したことで、車体が急激に起き上がり、ライダーが車体の「ハイ」側(バンクしている方向の反対側)に投げ出されるような転倒のことで、下手をするとバイクがライダーの上に落ちてくる、かなり危険な転倒。




