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美少女天使(中身おじさん)は、できるだけ頑張らず楽しく生きたい  作者:


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第13話 過去に鍵をかける日

 その朝の天宮家の食卓には、トーストの匂いと一緒に、少しだけフォーマルな空気が漂っていた。


 武臣(たけおみ)は新聞を畳み、マグカップのコーヒーを半分ほど残したまま、壁の時計を見上げる。

 (さき)は、普段より地味めのスーツに身を包み、書類の入った薄いバッグを椅子の横に立てかけていた。


「……そろそろ、出る時間ね」

 咲がそう言うと、テーブルの端でパンをかじっていた結衣(ゆい)が顔を上げた。


「ねぇ、やっぱり私も行っちゃダメ?」

 分かっていて、あえて聞く声だった。


 シエルは、トーストの耳をちぎりながら、そのやり取りを横目で見ていた。

 胃のあたりが、朝食にしては重すぎる何かで固められているような感覚がある。


「今日は……“大人の話”が多いからね」

 咲が、申し訳なさそうに微笑む。


「養子縁組の手続きのこともあるし、……慈愛の家の方とも、ちょっと踏み込んだ話をしなきゃいけないの。結衣に聞かせたくないことも、きっと出てくる」


「……裏庭の件とか? あの職員さんが倒れて運ばれたってやつ」

 結衣の黒い瞳が、一瞬だけシエルの方をかすめる。


 あの日の夜、卒業式の日の夕方。

 押し倒されかけて、世界が変革されたかのような感覚を覚えた瞬間……


 シエルは、膝の上で手をきゅっと握った。


「そういうの、ぜんぶ含めて」

 咲は、結衣の頭を軽く撫でる。


「今日は、おじいちゃんと私とシエルちゃん、それから弁護士の先生で行ってくる。結衣には、帰ってきてからちゃんと話すから…」

「……分かった」

 結衣は、分かりやすく不満そうに唇を尖らせ、それでもそれ以上は食い下がらなかった。


「その代わり、帰りに L()I()N()E() ちょうだいね。途中経過と、“シエルが泣いてないかどうか”の情報を詳しく」

「なんでそこで私が主語なんですか!?」

 思わずツッコミを入れると、結衣は少しだけ笑った。


「だってさ。先日の夜だって、ギリギリだったでしょ?」

 図星すぎて、シエルは反論を飲み込んだ。


「……気をつけて行ってきなさい」

 キッチンから顔を出した美穂(みほ)が、エプロンの裾で手を拭きながら言う。


「お昼までには戻るつもりよ」

 咲が頷き、バッグを肩にかけた。


「シエルちゃん、準備は大丈夫?」

「はい。……荷物も、これだけなので」


 シエルは小さなショルダーバッグを掲げて見せた。

 財布とスマホ、ハンカチ。

 そして、折り畳んだビニール袋が数枚。


(あっちに置いてきたのは……教科書と、ノートと、服が少しと……)

 列挙してみれば、拍子抜けするほど少ない。

 けれど、それが自分の十五年間の“持ち物”のほとんどだと思うと、胸の奥がじわりと重くなる。


「じゃあ、行くか」

 武臣が立ち上がり、車の鍵を手に取った。


花村(はなむら)先生とは、慈愛の家の前で待ち合わせだ」


 咲が補足する。

「市の相談窓口で昔からお世話になってる弁護士さん……ちょっと怖そうに見えるかもしれないけど、子どもたちの味方だから安心して」

「はい」

 シエルは、小さく頷いた。

 椅子を引き、立ち上がる。

 玄関へ向かう足取りが、自分のものではないようにふわふわと頼りない。


「いってらっしゃい」

 美穂と結衣の声が、背中に重なる。


「……いってきます」

 その一言が、思っていたよりもずっと、喉の奥で引っかかった。


 天宮家の車が静かに坂を下りる。

 星ヶ丘の住宅街を抜け、鳴海市の中心部へ。

 見慣れた景色のはずなのに、助手席から見る街はどこか遠く感じられた。


 後部座席で、咲がタブレットを開きながら言う。

「今日やることは、大きく三つね」

「三つ……」

「ひとつは、《《すれ違いの後始末》》」

 咲は、手元の画面を軽く指でなぞる。


「シエルちゃんが無断でいなくなったことで、向こうは警察にも連絡してる。行方不明扱いに近い形になってたから、その解除。

 “今は天宮家で保護していて、本人の意思も確認した上で、ここから通学させる予定です”って正式に伝える」

 それは、これまで曖昧だった「()()」に、ようやく輪郭を与える作業でもある。


「ふたつ目は、荷物の回収ね。

 部屋の整理も含めて、“もうここには住まない”っていう確認をする」

「……はい」

 シエルは、窓の外を眺めながら答えた。


()()()()()()……)

 頭では分かっている。

 けれど、言葉にされると、胸の奥で何かが沈んでいく……そんな音が聞こえた気がした。


「みっつ目が、今後の手続きの()()()()()

 咲の声が、少しだけ柔らかくなる。


「養子縁組のこともそうだし、星ヶ丘女学院への進学のことも。“施設として、どういう形で関わりを続けるか”っていうのを、ちゃんと大人同士で話しておく必要があるの…」

「……私も、その場にいていいんですか?」

「もちろん!」

 咲は、振り返って微笑んだ。


()()()はシエルちゃんなんだから。大人だけで勝手に決めて、“あとで説明”っていうのが一番よくない……私は、仕事柄、それを嫌ってるタイプなの」


 仕事柄――市役所 子ども家庭支援課の職員として、何度も「当事者不在の会議」を見てきたのだろう。


「ただ」

 運転席から、武臣の低い声が飛んでくる。


「あの夜のこと――裏庭で何があって、なぜ髪と目の色が変わったのかについては、無理に詳しく話さんでいい」

「お父さん?」

「向こうも、“全部は訊かない方がいい”とどこかで分かっておるはずだ」

 信仰の場でもあり、生活の場でもある慈愛の家。

 そこに“奇跡”や“怪異”の匂いが立ち込めば、噂は一瞬で広がってしまう。


「シエル」

 名前を呼ばれて、シエルは前を向いた。


「お前は、“居づらくなったから出た”それでいい。……あとは、俺たち大人が引き受ける」

 その言い方が、どこか護衛艦の艦長として部下に指示する声のようにも聞こえた。


「……ありがとうございます」

 シエルは、シートベルトの上からそっと胸元を押さえた。

 そこには、孤児院で支給された銀色のロザリオが、いつものように肌にひんやりと触れている。


(ここから先は――)

 自分で選んだ道だ。

 けれど、心細さは消えない。



 それでも――

 今は、その心細さも「誰かと一緒に抱えている」のだと思えるだけ、前よりずっとましだった。


 




 慈愛の家は、鳴海市の少し外れ、小さな丘の上にあった。


 白い壁の教会。

 その横に併設された、二階建ての古い建物。

 幼い頃から見慣れた、そのシルエットが視界に入った瞬間、シエルの足先から冷たいものが、ぶわりと這い上がってくる。


(……戻ってきちゃった)

 ほんの数日前まで、ここが「世界のほとんど」だったのだ。


 駐車場の端には、見覚えのある遊具と、古びた砂場。

 まだ小さな子たちが数人、保育士らしき職員の周りでしゃがみこんでいる。

 車が停まると、そのうちのひとりがこちらを振り向いた。

 シエルの姿を認めて、目を丸くする。


「……シエルお姉ちゃん?」

 細い声が、風に流れて届いた。


「行こうか」

 咲が、そっと肩に手を置く。

 車を降りると、冷たい空気が頬を撫でた。

 思ったよりも、風が強い。



「天宮さんですね」

 玄関の前で待っていたスーツ姿の男性が、軽く会釈してきた。

 四十代くらいだろうか。

 細身のフレーム眼鏡に、落ち着いたネイビーのスーツ。

 口元の笑みは控えめだが、目の奥は意外と優しげだった。


「花村と申します。子どもの権利関係を専門にやっている弁護士です。本日はよろしくお願いします」

「わざわざすまんな、花村先生」

 武臣が頭を下げる。


「こちらこそ。……シエルさんですね?」

 名前を呼ばれて、シエルは自分を指さしそうになった。


「は、はい。山本シエルです」

「今日は、あなたの()()として来ています。何か困ったことがあったら、すぐ僕に頼ってくださいね」

 あくまで静かな口調だったが、その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなる。


(味方……)

 孤児院にいるあいだ、弁護士という存在をこんなふうに意識したことはなかった。

 けれど今は、その肩書きよりも、「自分の側に立ってくれる大人」が一人増えたという事実の方が、何倍も心強かった。






 玄関をくぐると、消毒液と洗剤の匂いが混じった空気が、懐かしさと同時に、微妙な緊張を連れてくる。


「シエルお姉ちゃんだ!」

 廊下の向こうから、小さな足音がぱたぱたと近づいてくる。

 幼児組の子たちだろう。見覚えのある顔も、見知らぬ顔もある。


「どこ行ってたの?」「なんでいなくなっちゃったんだよ?」「髪、なんでそんな色なの?」

 一気に浴びせられる声に、シエルは苦笑しながら膝を折った。


「ごめんね。びっくりさせちゃったよね」

 頭を撫で、頬に触れ、ひとりひとりの顔を確かめる。

 そのうちのひとりが、きゅっと制服の裾を掴んだ。


「シエルお姉ちゃん、もう、ここにいないの?」

 その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。


「……うん」

 嘘をつくことは、できなかった。


「もうここには住まないけど、ちゃんと挨拶しに来たよ。ありがとうって言いに…」

「やだ!」

 小さな声で、誰かが呟いた。


「やだ、いってほしくない」

 じわりと泣きそうになる気配を感じた瞬間――


「そこまで」

 柔らかな声が、廊下の奥から響いた。

 院長先生だった。


 五十代半ばくらいの女性。

 シスター服は着ておらず、優しい色合いのニットとロングスカート姿。

 けれど首元には、小さな十字架が光っている。


「シエルさん、お帰りなさい」

 院長先生は、穏やかな笑みを浮かべていた。


「……ただいま、です」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。


(“ただいま”って言っていいのかな!?)

 もうここには帰らないのに。

 それでも――今だけは、その言葉を借りた。


「大事なお話があるからね。みんなは、先生と一緒にお部屋に戻りましょう」

「えー」

「あとで、ちゃんとシエルさんに会わせてあげるから」

 そう言って、院長先生が手を叩くと、子どもたちはしぶしぶ散っていった。

 裾を掴んでいた小さな手が離れていく。


「……元気そうで、安心しました」

 院長先生が、シエルの顔をまじまじと見つめる。


「髪と目の色には、まだびっくりしてますけどね…」

 冗談めかした言い方だった。


「失礼ですが――こちらが、星ヶ丘の天宮さんですね?」

「天宮武臣です。お世話になります」

 武臣が深く頭を下げる。

 咲も続けて挨拶し、花村弁護士が名刺を差し出した。


「応接室を用意しています。どうぞ、こちらへ」

 応接室は、職員会議にも使われる小さな部屋だった。

 壁際に古い本棚と十字架。

 一番目立つ場所には、「神はその最も小さき者のうちにあり」と書かれた額が掛けられている。


(この部屋も、何度か怒られに来たっけ)

 いたずらが過ぎたとき。

 テストの点が悪かったとき。


 そういう記憶が、妙に鮮明に蘇る。


「まずは――」

 院長先生は、深く頭を下げた。


「何よりも、シエルさんが無事でいてくれたことに、心から感謝します。……あの日、あなたの姿が見えなくなったときは、本当に……」

 言葉を選ぶように、唇が一度閉じられる。


「警察にも連絡しましたし、市の方にも相談しました。あなたが、どこかで倒れているんじゃないかと……そればかり考えていました」

「ご迷惑を……かけて、すみませんでした」

 シエルも、頭を下げた。


「黙って出ていくのは、よくなかったと分かっていました。怖くて、置き手紙も書けなくて……」

「ええ。そこは、きちんと言葉にしてくれてありがとう」

 院長先生は、静かに頷く。


「でも―― 一番怖かったのは、きっとあなた自身よね」

 その一言に、シエルの喉がぎゅっと詰まった。


 ……裏庭

 押し倒されかけた瞬間の、全身を掴まれるような恐怖…

 目の前が白くなって、世界が光に飲まれた感覚……


 あのあと、自分の髪と目の色が変わっていることに気付いたときの、底なしの不安…


 そして、裏庭で倒れていた職員。

 全部が、一気に胸の奥でざわめいていく。


「……あの職員のことは」

 院長先生は、声をほんの少しだけ硬くした。


「あなたには、直接謝らなければいけません」

 シエルは、顔を上げた。


「彼が、裏庭であなたと二人きりでいて、その直後に倒れていたこと――すべてを正面から聞かなくても、あなたがどれだけ怖い思いをしたかは想像がつきます。そして、それを未然に防げなかったのは、施設の大人である私たちの責任です」


「……」


「彼は、あの日のあと精神的に不安定になり、今も療養中です。

 何度かお見舞いに行きましたが、“光だ”“翼だ”と、取り留めのないことを口走るばかりで……」


 シエルの背筋に、冷たいものが走った。


(見えていたんだ……)

 あの瞬間、自分の背から噴き上がった光と、透き通る翼。

 強制的に発現した“天使の権能”。


 彼が見たのは、その一端なのだろう。


「――とはいえ」

 院長先生は、すぐに表情を和らげた。


「それと、あなたがここを出ていくことは、別の話です。

 あんなことがあったあとで、“ここに戻りなさい”とは、とても言えません」

 その言葉に、武臣が小さく息を吐く。


「ありがとうございます」

 武臣が、深く頭を下げた。


「息子を亡くした身として――あの夜、玄関で震えていたこの子を見たとき、“二度と見過ごしてはならん”と思いました。

 私たちは、この子を娘として迎えたいと考えています」


「……娘として」

 院長先生の視線が、シエルに向かう。


「はい。戸籍上の手続きも含めて、これから家庭裁判所に申し立てをするつもりです」

 花村弁護士が、静かに口を挟んだ。


「今日はその前段階として、施設側の意向確認と、生活拠点の変更についての同意をいただきにうかがいました。もちろん、シエルさん本人の意思が最優先ですが…」


「……あなたは、どう思っているの?」

 院長先生が、まっすぐに問う。


「本当に、ここを出て、天宮さんのところで暮らしていきたいと、そう思っていますか?」

 その問いは、優しさと同時に、最後の確認でもあった。

 シエルは、膝の上で指を組んだ。


「……はい」

 喉が渇いているのか、声が少し掠れた。


「慈愛の家で育ててもらったことには、感謝しかありません。ここで学んだこと、ここで出会った人たちを、忘れるつもりもありません」

 それは、紛れもない本音だ。


「でも、あの夜のことがあってから――ここは、もう“帰る場所”ではなくなってしまいました。私が悪いわけじゃない、と周りが言ってくれても、どうしても、そう感じてしまって……」


 銀髪。

 碧眼。

 噂と、好奇の視線と、畏れと……


「天宮さんの家に行った夜、玄関で倒れそうになっていた私に、武臣さんは手を伸ばしてくれました。

 “見なかったふりはしたくない”って…

 その手を握ってしまった以上――」


 一度、言葉を切る。


()()()()()()()()()()んです」

 それは、十五歳の少女にしては、少し大人びた言い回しだったかもしれない。

けれど、今の自分には、それくらいしか言葉が見つからなかった。


「……そう」

 院長先生は、ゆっくりと目を閉じた。

 短く祈るように沈黙し、それから顔を上げる。


「分かりました」

 穏やかだが、決意のこもった声だった。


「施設としては、天宮家で暮らすというシエルさんの選択を尊重します。高校も、天宮家から通ってください。星ヶ丘女学院なら、通学にも問題はありませんし」

「ありがとうございます」

 咲が、ほっとしたように息を吐く。


「そのための書類一式は、こちらで用意しています」

 花村弁護士が、バッグからファイルを取り出した。


「生活拠点の変更に関する同意書と、今後の養子縁組の可能性について、市への報告書。こちらに、施設長として署名と押印をいただければ――」

「ええ、もちろんです」

 院長先生はペンを取り、迷いのない手つきで紙に署名していく。《慈愛の家 施設長》の横に、くっきりと名前が刻まれていくのを、シエルは妙な気持ちで眺めていた。


(これで、本当に……)

 ここが“籍の上でも”自分の家ではなくなっていく……



 それでも――

 どこかで「ほっとしている」自分がいるのも、否定できなかった。


 




「荷物の方は、どうしましょう?」

 ひと通りの書類の説明が終わったところで、咲が話題を変えた。


「シエルちゃんの部屋、まだそのままですか?」

「ええ。あの日から、基本的には手を付けていません…

戻ってくるのか、戻ってこないのか、判断できなくて……」

 院長先生は、少しだけ眉を下げる。


「もしよければ、本人に整理してもらいましょう。必要な物は持って行って、残りはこちらで処分するか、保管するか決めます」

「お願いします」

 シエルは、小さく頭を下げた。


「部屋までご案内します。……その間、“大人の話”の続きは、こちらで」

 院長先生がそう言うと、咲がシエルを振り返る。


「行ける?」

「……はい」

 立ち上がりかけたとき、武臣の声が背中に届いた。


「何かあったら、すぐ呼びなさい」

「大丈夫です。……ちょっと、()()()を付けてきます」

 それだけ言って、シエルは応接室を出た。


 




 廊下を歩くたびに、足元の床の(きし)む音が過去の記憶を呼び起こす。


 かくれんぼをして叱られた角。

 夜中に部屋を抜け出して星を見た窓辺。

 掃除当番をさぼって、モップを持ったまま居眠りした階段。


 すれ違う職員や子どもたちが、皆一様に驚いた顔をし、次いで安堵の表情を見せた。


「シエル、無事だったんだね……」

 同年代の女の子が、ぽつりと呟く。


「髪、すご……」

「似合ってる!」

 そんな(ささや)きを聞きながら、階段を上っていく。


 自分の部屋の前で、足が止まった。

 ドアノブに手をかける。

 吸い込んだ息が、やけに重い。


 扉を開けると、そこには見慣れた光景があった。

 二段ベッド。

 窓際に置かれた小さな机。

 教科書とノートが、出ていったあの日のまま積み上げられている。


「……ただいま」

 誰にともなく、小さく呟いた。

 返事はない。

 あるのは、静まり返った空気と、うっすらとした埃の匂い。


 ビニール袋を広げ、必要なものをひとつずつ選んでいく。

 教科書。

 お気に入りだったペン。

 何度も読み返した文庫本。

 孤児院の小さな文庫からもらった古い絵本――それは、幼児組に残していくべきか、少し迷ってから、本棚に戻した。


(これは、ここにあった方がいい)

 ここで誰かが、またページをめくってくれるのだと思うと、その方が自然に思えた。


 クローゼットを開けると、制服と私服がいくつか掛けられている。

 ほとんどは、星ヶ丘に行ってから新しく買ってもらえるだろう。


 それでも、数枚のシャツと、着慣れたパーカーだけは、袋に入れた。


 机の引き出しの一番奥。

 折り畳んだままの紙切れが出てくる。


 中学二年のときに書いた、小さな詩の断片。

 誰にも見せなかった、自分だけの愚痴と祈りが混ざったような文章。


(……こんなものも、書いてたんだ)

 苦笑しながら、その紙もそっと袋に入れる。

 ひと通り詰め終わると、部屋をぐるりと見渡した。


「……この部屋の“シエル”は、ここまでかな」

 そう言ってみると、不思議と、胸の奥で何かがストンと落ち着いた。


 




 荷物を抱えて廊下に出ると、幼児組の子がひとり、壁際に立って待っていた。


「シエルお姉ちゃん」

「どうしたの? みんなと一緒に遊んでないの?」

「……バイバイ、言ってない」

 ぽつんとした声だった。

 シエルは、荷物を足元に置き、しゃがみ込む。


「そうだね。ちゃんと言わないとね」

「バイバイ、やだ」

 子どもの目に、涙が溜まりつつある。


「……うん。私も、本当はやだよ」

 それは、取り繕いのない本音だった。


「でもね、“またね”って言えるように、“バイバイ”しておきたいんだ」

「またね?」

「うん。高校生になって、時間に余裕ができたら、ここに遊びに来てもいいか聞いてみる。そのときまで、“シエルお姉ちゃんは元気かな”って、ちょっとだけ思い出してくれたら、それで十分」

 子どもは、しばらく黙ってシエルを見つめ、それから小さく頷いた。


「……またね」


「またね」

 その言葉を交わした瞬間、喉の奥がきゅっと熱くなる。



 それでも――

 今度は泣かなかった。


 




 応接室に戻ると、大人たちの話は一段落ついていた。


「荷物は?」

 咲が尋ねる。


「必要なものだけ、持ってきました。……部屋の残りは、処分しても大丈夫です」

「そう。後で、職員に片付けてもらうわね」

 院長先生が立ち上がる。


「シエルさん」

「はい」

「ここは、あなたの“生まれ育った場所”のひとつだと、私は思っています」

 その言い方は、とても慎重だった。


「でも、同じように、“天宮家”も、これからあなたの“生きていく場所”になるでしょう。

 神さまがどういうおつもりなのか、私には分かりませんが――」

 ふっと、柔らかく笑う。


「あなたが、自分で選んだ道なら、それを祝福したいと思います」

「……ありがとうございます」

 今度こそ、きちんと頭を下げた。


 院長先生の背後に掛けられた十字架が、少しだけ淡く光ったような気がした。


 




 玄関まで見送りに出ると、さっきの幼児組の子たちが、また何人か集まっていた。


「シエルお姉ちゃん、ばいばーい!」

「勉強がんばってー!」

「星ヶ丘女学院って、テレビに出てたとこだよね!」

「お嬢さま校だー!」

 好き放題な声に、思わず笑ってしまう。


「うん。がんばる。……ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝るのよ」

「お姉ちゃんもー!」

「はいはい」

 軽口を交わしながら、門のところまで歩く。


 ふと、振り返ると教会の小さな十字架が、雲の切れ間から差し込む光を受けて、白く浮かび上がっていた。


(十五年分の“ただいま”と、“おはよう”と、“おやすみなさい”)

 それらに、ひとつひとつ、心の中でそっと鍵をかけていく。


 全部を忘れるわけじゃない。

 けれど――それに縛られ続けるのも、違う気がした。


 それでも――

 ここにいた自分がいるから、今の自分がいる。


 その事実だけは、きっと消えない。


 




 車に乗り込むと、武臣が小さく問いかけてきた。


「……どうだった」

「そうですね」

 シエルは、シートベルトを締めながら、少しだけ考える。


「“実家の引っ越しの手伝い”みたいな気分でした」

「実家?」

「はい。生まれ育った家に、“もう住まないから”って言いに行く感じというか……」

 武臣は、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「そうか」

 それだけ言って、エンジンをかける。

 隣で咲が、バックミラー越しにシエルを見た。


「後悔してない?」

「……今のところは、してません」

 正直なところ、完全に吹っ切れたわけではない。

 夜になってから、また何かが湧きだしてくるかもしれない。



 けれど――


「ここで“やっぱり戻ります”って言ったら、たぶん、もっと後悔しますから」

 そう答えると、咲はほっとしたように笑った。


「じゃあ、よかった」

「天宮家に戻ったら、結衣がどんな顔するか、少し楽しみですね」

「うん。“叔母が帰ってきた”って、いじり倒される未来が見えるわ」

「それだけは全力で抗議したいです」

 車が、ゆっくりと慈愛の家を離れていく。


 バックミラーの中で、小さな教会と施設の建物が、少しずつ遠ざかっていく。


 やがて、それらは街並みに紛れ、完全に見えなくなった。


(さよなら、慈愛の家)

 心の中で、もう一度だけ呟く。


(――ただいま、天宮家)

 まだ玄関の前にも着いていないのに、そんな言葉が自然と浮かんだ。


 過去に鍵をかけるための「さよなら」と、

 これからを生きるための「ただいま」。


 そのふたつを胸に抱えながら、シエルを乗せた車は、星ヶ丘へと向かって走り続けた。

※シエルの身長:155cm(15歳の平均身長より低い設定です。)

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