第11話 筆の線と「おかえり」の証拠
翌朝の天宮家は、いつもより少しだけ静かだった。
土曜の朝
武臣が淹れたコーヒーの匂いと、美穂が温め直した味噌汁の香りが、ゆっくりとリビングに広がっている。
昨夜の涙の余韻は、まだ部屋のどこかに薄く残っていた。
けれど、それは刺すような痛みではなく、うっすらとした筋肉痛のように、「泣いた事実」をただ教えてくるだけだった。
「これ、こっちに持ってきたわよ」
咲が、ダイニングテーブルの上に数枚の紙とクリアファイルを置いた。
白いコピー用紙
簡単な項目が印刷されたA4の書類
そして、役所の備品らしい地味なペン
「なに、それ」
結衣がトーストをかじりながら首をかしげる。
「メモ代わりの“プロフィールシート”みたいなものよ。正式な書類じゃないけど、子ども家庭支援課で子どもと面談するときに、よく使ってるやつ」
名前、生年月日、出身、これまでの暮らし。
下の方には「好きなもの」「苦手なもの」「これからやってみたいこと」なんて項目まである。
「なにそれ、自己紹介カードのガチ版みたいだね」
「まあ、そうね」
咲は肩をすくめた。
「昨日、“今すぐ制度どうこうって話じゃない”ってことにはなったけど……それでも、シエルちゃんのことをちゃんと“知ってから”決めた方がいいでしょ。私たちも、向こうの施設の人も」
向こう――慈愛の家の職員たち。
安堵の息を漏らしていたという話が、シエルの記憶に残っている。
「で、いきなり“全部口でしゃべれ”ってのも、なかなか酷だからね。書けるところは書いてもらって、そこから話を広げていく方が、少しは楽かなと思って」
咲は、シエルの方を見た。
「もちろん、“全部書かなきゃダメ”って話じゃないわ。書きたくないところは飛ばしていい……それでもよかったら、試しにやってみない?」
差し出されたボールペンと紙
シエルは、一瞬だけ戸惑い、それからゆっくりと頷いた。
「……はい。やってみます」
自分のことを、言葉にする
自分のことを、文字にする
孤児院では、自己紹介を書くことも、履歴書まがいのものを埋めることも何度かやってきた。
けれど、それを“天宮家のダイニングテーブル”でやることになるとは、あの頃の自分は想像もしなかっただろう。
「じゃあ、これ。テーブル使っていいからね」
咲が席を譲る。
武臣と美穂は、少し距離を取るようにして座りながらも、その手元を見守っていた。
シエルは、深呼吸をひとつしてから、ペンを握った。
山本 ――
紙の上に、黒いインクが線を描く。
幼い頃から、それなりに「字はきれいだね」と言われてきた。
孤児院でお礼状を書く担当を任されることもあった。
けれど、ここ最近――覚醒以降、ペンを握るたびに、妙な違和感があった。
(……前より、勝手に手が動く)
自分が知らないバランスで、
自分が知らない力加減で、
線が紙の上に置かれていく。
筆で書くような、わずかな入りと抜き
横線の傾き
縦画のわずかな「ため」
――遠いどこかで、誰かが何千回も練習した線を、なぞらされているような感覚。
(でも、今さら“字が勝手にうまくなりました”なんて言えないしな……)
苦笑を飲み込みながら、「山本シエル」と自分の名前を書く。
次に、生年月日、出身地、「慈愛の家」の住所。
ペン先が紙の上を滑っていく。
その線を、武臣はじっと見つめていた。
最初に、違和感を覚えたのは、「山本」の《本》の字だった。
縦画の下が少しだけ長く、最後にほんのわずか右上に反る癖。
左払いと右払いの角度。
四本の線が交わる中心から、力がじわりと滲むような形。
(……あれ)
続く「シエル」のカタカナ。
丸くなりすぎない、少し角ばった《シ》。
最後の《ル》の払いが、ほんの少しだけ上を向く。
そして、生年月日欄
二〇××年の「年」の字
月日の「日」の書き方
数字と漢字が並ぶ、その形
武臣の記憶の奥で、何枚もの書類が一気に重なった。
艦の見学に来た息子が記入した入門手続きの用紙
実家に送られてきた年賀状
転勤先から届いた短い手紙
置きっぱなしにされていたメモ用紙に走り書きされた、「冷蔵庫のビール飲んだ、ごめん」の文字
それらの上に、今目の前にある線が、ぴたりと重なる。
同じ字ではない。
同じ人の、手で書かれた線だ。
武臣の喉が、かすかに鳴った。
「……お父さん?」
隣で、美穂が心配そうに覗き込む。
武臣は、返事をしないまま、テーブルに身を乗り出した。
「シエル」
「は、はい?」
急に名前を呼ばれて、シエルが驚いたように顔を上げる。
ペン先が、紙の上で小さく揺れた。
「……もう少し、書いてみてくれんか?」
「え?」
「好きなものでもなんでもいい。自分の言葉で、ひとこと」
唐突な要求に、咲と結衣が「お父さん?」と同時に声を上げる。
「ちょっと、いきなりプレッシャーかけないでよ」
「何その“続けて打ってこい”みたいなノリ」
武臣は、その苦言をも軽く受け流した。
「構わん。……頼めるか?」
「え、ええと……」
シエルは、視線を紙に戻した。
(好きなもの、好きなもの……)
甘いもの
猫
ラーメン
ミリタリー…?
バイク…?
頭の中にはいくらでも、なぜか疑問におもうようなものまで浮かぶのに、いざ紙に書くとなると、筆が少しだけ迷った。
――この家の人たちに、最初に見せる「自分の好きなもの」が、何であってほしいのか。
しばらく考えた末、ペン先を走らせる。
『好きなもの……家族の匂いがする、あたたかいご飯』
自分で書いておいて、少しだけ顔が熱くなった。
けれど、その恥ずかしさより先に、テーブルの向こう側から、短い息の音が聞こえた。
「……やっぱり、だ」
武臣の声だった。
震えてはいない。
だが、喉の奥で何かを飲み込んだような、重い響き。
「お父さん?」
咲が、怪訝そうに眉をひそめる。
「その字……」
武臣は、紙の上を指さした。
「……大和の字だ」
テーブルの上に、静寂が落ちた。
誰も、すぐには言葉を見つけられなかった。
咲も、美穂も、結衣も。
ただ、シエルだけが、自分の書いた文字と、武臣の顔とを交互に見比べていた。
「……前から、そう思っていた」
武臣は、ゆっくりと続ける。
「昨日の、“山本シエルとしての”告白を聞いたときも。
声の出し方や、間の取り方や、言い訳のしかたが、どこか大和に似ているとは感じていた。
だが、それでも“似ている”としか言えなかった」
その視線が、紙の上に落ちる。
「だが、この字は……“似ている”では済まん」
人間の癖は、そう簡単には変わらない。
字は、とくに…
元護衛艦艦長として、何百人分もの署名と申請書を見てきた男の目には、それがよく分かっていた。
「お前が書いた“山本シエル”の字はな……」
武臣は、指先で「家族の匂いがする、あたたかいご飯」と書かれた行をなぞる。
「……“大和が書いたら、こう書くだろう”という線そのものだ」
指先が止まる。
「“家族の匂いがするご飯”なんて言い方も、あいつが好みそうな言葉だ」
「ちょ、そこ感想いる?」
結衣が、思わずツッコミを入れる。
だが、その声にも、どこか涙の気配が混じっていた。
「だってさ……」
結衣は、シエルの書いた一文を見て、苦笑する。
「完全にうちの人間じゃん、これ」
あたたかいご飯
家族の匂い
それは、この家にとって、ごく当たり前で、そして何よりも大切なものだ。
「シエル」
武臣が、改めて少女の名を呼んだ。
「はい……」
「お前は、自分の字を“変わった”と思ったことはあるか」
問われて、シエルは一瞬、息を呑んだ。
(……気付いていたのか)
覚醒のあと。
孤児院でお礼状を書いたとき。
教会のノートに走り書きをしたとき。
自分が描く線が、それまでと違うものになっていることに、薄々気付いていた。
「……はい。正直、あります」
逃げずに答える。
「前は、もっと丸くて、子どもっぽい字だったと思います。
でも、最近は……自分で書いていても、“知らない誰かの手癖”をなぞっているような感覚があって…」
言葉にしてみると、それはあまりにも怖い告白のようにも思えた。
だが、武臣は否定しなかった。
「それでいい」
短く、しかしはっきりと。
「昨日、お前は生まれ変わりだと思うと言ったな」
「……はい」
「正直、俺には、あの話だけでは、まだどこか現実味がなかった。
生まれ変わっりだの……信じるには、あまりにも現実的ではない言葉だ」
武臣は、自嘲するように笑う。
「だが、“同じ字を書く”というのは、それとは別の話だ。癖は、積み重ねた時間の結果だ。この線は、“十五年前までここにいて、それから別の場所で生きていた男”の時間を、確かに引き継いでいる」
それは、武臣なりの「証拠」の受け取り方だった。
奇跡や物語を信じるかわりに、紙の上に現れた「線」を信じる。
「……だからといって、お前を“大和そのもの”だとは、思わん」
その言葉に、シエルの肩がわずかに揺れる。
「昨日も言ったが、お前は“大和の記憶を持った山本シエル”だ。
魂が同じだとしても、十五年の生き方が違えば、違う人間になるのは当たり前だ」
「……はい」
それは、シエルが一番望んでいた言い方だった。
大和としてだけ見られるのも、
シエルとしてだけ扱われるのも、
どちらも、どこか居心地が悪い。
その中間の、はっきりしない場所に線を引いてくれる大人がいることが、どれほど心強いか。
「だがな」
武臣は、紙に置いた手に力を込めた。
「この字を書いた手を、大和の手として抱きしめてやりたいと思うことくらいは、許してくれ」
その一言に、シエルの視界がじわりと滲んだ。
咲も、美穂も、思わず息を呑む。
結衣は、「ずるい……」と小さく呟いて、視線をそらした。
(反則だよ、じいちゃん……)
心の中でそう呟きながらも、胸の奥はじんと熱くなっている。
「……許すとか、許さないとかじゃないです」
シエルは、かすれた声で言った。
「そんな風に言ってもらえるなら……
私の字が、ここに戻ってこれて、よかったって、そう思えます」
紙の上には、「山本シエル」という文字。
その周りに、小さな項目がいくつか埋まり始めていた。
好きなもの
苦手なもの
これからやってみたいこと
「せっかくだからさ」
沈黙を破るように、結衣が口を開く。
「“これからやってみたいこと”のところ、もうちょっと書いてみたら?」
「え?」
「だって、その字……じいちゃんだけじゃなくて、私も好きだし」
そう言って、照れくさそうに頭をかく。
「どうせなら、これからのシエルの話、もっと書いてよ。大和お兄ちゃんの“過去”じゃなくてさ」
その言い方に、シエルは思わず笑ってしまった。
「……欲張りですね、結衣は」
「うん、自覚はある」
軽いやりとりに、空気が少しだけ柔らかくなる。
咲も、「じゃあ、“やってみたいこと”のところ、私も興味あるな」と身を乗り出した。
「子ども家庭支援課的にも、“これからどう暮らしたいか”って部分は、すごく大事な情報だからね」
「お役所モードになった」
結衣がぼそっと呟く。
咲は「うるさい」と笑いながら、シエルの方を見る。
「もしよかったら、“ここで暮らしてみて、やってみたいこと”なんかも書いてみて」
「……そうですね」
シエルは、再びペンを握った。
紙の下の方の「これからやってみたいこと」の欄に、ゆっくりと字を置いていく。
『高校に通ってみたい』
『友だちをつくってみたい』
『家族と一緒に、ご飯をつくってみたい』
書き進めるうちに、ペン先がほんの少しだけ震えた。
それは、恐怖ではなく、期待に似た震えだった。
武臣は、その文字を黙って見つめる。
線の一つひとつに、“戻ってきた息子”の時間と、“これから生きる娘”の時間が、同時に刻まれているように思えた。
「……よし」
ひととおり書き終えたところで、咲が手を伸ばす。
「貸してもらってもいい?」
「はい」
シエルが紙を渡すと、咲は一枚一枚、ゆっくりと目を通した。
「名前、生年月日、住所……うん。
好きなもの、苦手なもの……“辛いもの全般”ね。分かるわ、私も苦手」
「咲さん、辛いカレー食べられないもんね」
美穂がくすくす笑う。
「これからやってみたいこと……」
そこを読んだ瞬間、咲の目尻が少しだけ緩んだ。
「“家族と一緒に、ご飯をつくってみたい”……そっか。じゃあ、今度一緒にやろうか」
「え?」
シエルが顔を上げる。
「うちの台所、基本的にお母さんと私の縄張りなんだけど」
咲が美穂に視線を向ける。
「新入りの研修くらいは、してあげてもいいんじゃない?」
「まあ、研修生ね」
美穂は、いたずらっぽく微笑んだ。
「じゃあ、まずはお米を炊くところから。天宮家流・味噌汁講座もつけてあげる」
「そんなものまであるんですか」
「あるのよ。元艦長は味にうるさいから」
美穂の言葉に、武臣が「こら」と咳払いする。
「何にせよ」
咲は紙を軽く揺らしてから、丁寧にクリアファイルに収めた。
「これで、“山本シエル”としての今と、“これからのシエル”の希望は、ひとまず形になったわ。あとは、大人たちがどう動くかを決める番」
大人たち――武臣、美穂、咲
そして、遠く離れたところにいる、慈愛の家の大人たち。
「でも、その前に」
咲は、にやりと笑った。
「その字、今度役所でこっそり自慢していい?」
「えっ」
「“うちの兄貴の字が戻ってきたんですよ”って、さすがに言えないけど……すっごくきれいな字を書く子が来たくらいなら、絶対言う」
「それ、守秘義務的にギリギリじゃないですか」
シエルが慌てると、咲は「大丈夫大丈夫」と笑う。
「名前も出さないし、住所も出さない。
でも、頑張って生きてきた子がいるってことくらいは、こっそり自慢したくなるのが人情なの」
それは、妹であり、公務員であり、一人の大人としての本音だった。
その日、天宮家のダイニングテーブルの上には、一枚の紙と、そこに刻まれた「線」が残された。
それは、十五年前までこの家にいた男が積み重ねてきた時間と、
十五年間、別の場所で生きてきた少女の時間とが、同じ筆跡で交わった証拠。
武臣は、その紙をクリアファイルごとそっと撫でる。
(……戻ってきた、か)
「大和」としてではなく、「シエル」として。
それでも、たしかにこの家の座卓で字を書いている、その事実を噛みしめながら。
彼は、心の中でそっと呟いた。
(おかえり。そして――)
(これからも、よろしく頼むぞ)
声には出さないままのその言葉は、紙の上に残されたインクの線と同じように、静かに、この家の空気に溶けていった。




