第10話 姉妹になるふたり
涙がひととおり流れきったあと、天宮家のリビングには、少しだけ気まずい静けさが残った。
テーブルの上には、開きっぱなしのアルバム。
中途半端なページの中に、中途半端な笑顔を浮かべた男――天宮大和がいる。
その男が今は自分の胸の奥で、ひっそり息をしているのかと思うと、シエルはさっきまでの涙とは別の意味で、何とも言えない気分になった。
泣きはらした目をハンカチでごしごしやっている咲が、時計を見上げる。
「……そろそろ、結衣も寝なきゃね。明日、早いんでしょ」
「う……うん」
結衣は、どこか居心地悪そうに頷いた。
さっきまでほとんど大人の会話を聞くだけだったせいか、いつもの軽口がまだ戻ってきていない。
「シエルちゃんも、今日はもう休みましょう」
美穂が、柔らかく声をかける。
「いろいろありすぎて、頭の中ぐちゃぐちゃでしょう? ゆっくり眠った方がいいわ」
「……そうね」
咲も、少しだけ笑顔になろうとしてから、
「とりあえず、今夜は結衣の部屋に布団敷いて、一緒に寝てもらおうか」
「えっ」
結衣が、ようやくはっきりした声を出した。
「え、ちょ、いきなり同室って、それは……」
「なに? 自分の部屋に女の子が増えるの、嫌?」
咲がわざとらしく目を細める。
「べっ、べつに嫌じゃないけど……心の準備というものが……!」
ぶつぶつ言いながらも、完全に拒否する気はないらしい。
武臣は、腕を組んだまま、どこか遠くを見る目をしていた。
感情の波がようやく落ち着き始めているのが、横顔から分かる。
「そういうわけだ。何か困ったことがあったらすぐ呼びなさい。……シエル」
名前を呼ばれて、シエルは小さく背筋を伸ばした。
「……はい」
「さっきも言ったが、ここはお前の居場所だ。遠慮しすぎて、倒れたりするなよ」
それは冗談めかした言い方だったが、どこか本気だった。
「……がんばって、遠慮しすぎないようにします」
妙な日本語になったが、武臣は「それでいい」と短く頷いた。
そうして、リビングの灯りが一つ、また一つと落ちていく。
アルバムは、そっと閉じられて、元の場所に戻された。
けれど、今夜焼き付いた光景の方が、きっと誰の記憶にも鮮明に残るだろう。
「……で、こっちが私の部屋」
結衣が、廊下の一番奥のドアを開ける。
中は、ごく普通の女子高生の部屋――と言うには、少しだけ生活感が強かった。
片側の壁には、本棚と小さなテレビ、その横にゲーム機が数台。
机の上には、モニターと外付けのキーボードにマウス…
机の足元には、結衣の父親のお古のタワーPCが、どっしりと鎮座している。
ベッドの横には、畳んだ洗濯物がまだ山のまま。
壁には、星ヶ丘女学院中学校の文化祭ポスターと、ゲームのキャラクターが描かれたタペストリーが並んでいる。
(……おお)
シエルは、思わず心の中で感嘆の声を上げた。
(今どきの女子の部屋って、こういう感じなんだ……)
※前世の大和は、妹の部屋にあまり踏み込んだことがない。
兄としての最後の矜持というか、単なる気まずさというか、とにかく「踏み越えてはいけない領域」だと思っていた。
だから今こうして、“女の子の身体”で女の子の部屋に立っていること自体が、なかなかの精神的事故である。
「狭いから、あんまり期待しないでよ」
結衣が、照れ隠しのように言う。
「シエルさんの荷物って、そのリュックだけ?」
「はい。……とりあえず、逃げるときに急いで詰め込んだものだけで…」
「逃げるって言い方、すごいけどね」
結衣は、別の部屋から布団を引っ張り出してきた。
「えっと、お布団はここに敷いて、ベッドが私で、こっちがシエルさんね」
「わざわざすみません……」
「いいよ別に。いきなり“伯父さんが生まれ変わって帰ってきました”とか言われたら、逆にこれくらいイベントないとバランスとれないし…」
さらっとえげつないフレーズを放り込んでくるあたり、やっぱり血筋なのだろう。
シエルは、床に敷かれていく布団を眺めながら、胸の奥で苦笑した。
(イベント扱い、か……。そう言ってくれるだけ、だいぶ救われるかな…)
「そういえば……」
結衣が、ふとシエルの胸元を見て、首をかしげた。
「そのネックレス……ロザリオ? さっきからずっとしてるよね」
「あ、これですか」
シエルは自分の胸元に手をやった。
銀色の小さな十字架。
孤児院を出るときも、天宮家の玄関先で眠り込んだときも、外さず身につけていたもの。
「孤児院で、小さい頃に支給されたもので…
あんまり信心深いわけじゃないんですけど、これがないと、どうも落ち着かなくて……」
「ふーん」
結衣は、じっとそれを見つめる。
「似合ってると思うよ。銀髪と、ちょっとだけアンニュイな感じと…」
「アンニュイ……」
生まれて初めて言われた類の評価に、シエルは微妙な顔になった。
「……ありがとうございます?」
「そこ疑問形になるの、ちょっと面白い!」
くすくすと笑いながら、結衣は布団の位置を微調整する。
「ねぇ」
布団を敷き終え、一息ついてから、結衣がぽつりと口を開いた。
「呼び方、どうしよっか?」
「呼び方?」
「うん。だってさ、頭では分かってるんだよ? シエルさんが、大和伯父さんの生まれ変わりっぽい何かっていうのは……」
表現は相変わらず遠慮がない。
「でも、見た目はどう考えても“美人寄りの十五歳女子”じゃん?」
シエルの口元が、ぴくりと引きつった。
(おじさん寄りって言われるよりはマシかもしれないけど……)
「だから、いきなり伯父さんって呼ぶのもなんか変だし……かといって“山本さん”とか“シエルさん”って呼ぶと、さっきの話が嘘みたいでイヤで……」
結衣は、ベッドの端に腰を下ろし、膝を抱えた。
「そっちはさ。私のこと、どう呼びたい?」
思いがけない方向からボールを投げられて、シエルは一瞬言葉を失った。
(どう呼びたいか、って…)
今目の前にいるのは、十五歳の女の子。
前世で血の繋がった「姪」でもあり、同時に年の近い「同世代」でもある。
そして、さっき「おかえり」と「はじめまして」を同時に言ってくれた、
妙にしっかりした、でもまだ子どもっぽさを残した “誰か”。
「……正直に言ってもいいですか?」
「うん」
「さっきまでずっと、“結衣”って心の中で呼んでました」
それ以上、言いようがなかった。
結衣が、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「敬称なし!?」
「……はい。あの、その方が……しっくりきてしまって…」
おじさんだった頃と同じ名前で呼ぶことに、罪悪感もある。
けれど、「天宮大和」としての情が、どうしてもそちらを選ばせてしまう。
「そっか」
結衣は、少しだけ俯き、それから顔を上げた。
「じゃあ、さ…私は、普段シエルって呼んでいい?」
「……え?」
「だって、今の私の目の前にいるのは、大和伯父さんの生まれ変わりでもあるけど、山本シエルでもあるでしょ。
私がいきなり伯父さんって呼んだら、多分シエルが一番しんどくなると思うし……」
図星だった。
「で、なんかここぞっていう真面目な場面とか、どうしても大和として呼びたいときにだけ、こっそりお兄ちゃんって呼ぶ。
そうしたら、ちょっとだけ特別感あって良くない?」
結衣は、いたずらっぽく笑った。
「……ずるい」
シエルの口から、思わず本音が漏れた。
「それ、とてもずるいです。そんなの、断れるわけないじゃないですか…」
「でしょっ!?」
結衣は、満足げに胸を張る。
「じゃあ、交渉成立ってことで。普段は“シエル”。心の中では適宜「大和お兄ちゃん」って呼んどく……それでどう?」
「……はい。お願いします」
なんだか妙に正式な言い方になってしまった。
「でもさ」
結衣は、ふいに真顔になる。
「いきなり“家族として受け入れる”って言われても、正直、実感追いつかないんだよね」
「……それは、私もです」
シエルは、布団の端に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
「十五年前に一度死んでるって事実も、この家で息子として生きていたことも……
そして今、こうしてよそ様の娘として帰ってきてることも……全部、まだちゃんと飲み込めていません…」
それでも、一歩ずつ言葉にしていく。
「だから、急に“家族だから全部分かり合える”って思わないでいてくれた方が、私は助かります」
「シエル、案外クレバーだね」
「褒められているんでしょうか?」
「褒めてる褒めてる」
結衣は、ベッドから滑り降りて、シエルの隣にぺたんと座った。
「じゃあさ。まずは“同級生としてのシエル”と“同居人としてのシエル”から始めようよ」
「同級生?」
「うん。星ヶ丘女学院、シエルも一年生でしょ。私も一年。クラスは多分、分かれると思うけど、同じ学校にはなるし…」
「あ……」
そういえば、と今さらのように思い出す。
星ヶ丘女学院高等学校。
孤児院から通う予定だった場所。
そして今は、天宮家から通うかもしれない学校。
「同級生ってさ、家族とはちょっと違うんだよね。
何かあったら愚痴り合えるけど、全部を背負う必要はない、みたいな…」
結衣の言葉は、思ったよりも冷静で現実的だった。
「だから、大和お兄ちゃんに拘りすぎると、お互いしんどくなると思うの。
まずは、“ちょっと訳ありで転がり込んできた同い年の女の子”として扱わせて。……それでダメ?」
「……いえ」
シエルは、ゆっくり首を振る。
「いちばん優しい、扱い方だと思います」
真正面から「伯父」だと押しつけられるよりも、完全に「他人」だと線を引かれるよりも、その中間にある、絶妙な距離感。
それは、今の自分が一番欲しかった場所なのかもしれない。
「それとさ」
結衣は、ちらりとシエルを見上げる。
「……あんまり、ひとりで背負わないでね」
その一言は、さっき風呂場でひとりで泣いていた自分の胸に、真っ直ぐ刺さった。
「今日の話聞いてて思ったけど、シエルってさ……基本、全部自分でかぶろうとするタイプじゃん!」
「耳が痛いです…」
「だよね」
結衣は、小さく笑う。
「でもさ、それやってると、周りの人間がヒマになるんだよね。
頼られたい側としては、もっと面倒なこと押しつけてくれないと、存在意義がなくなる」
「頼られたい……側?」
「うん。少なくとも私は、“うちに転がり込んできた美少女同級生(元おじさん疑惑)”から、もうちょっと厄介ごと投げてもらってもいいと思ってる」
「元おじさん疑惑って言い方、だいぶひどくないですか」
「事実じゃん?」
ぐうの音も出ない。
不意に、部屋の照明が少しだけ柔らかくなった。
結衣がスタンドライトだけを残し、天井の灯りを落としたのだ。
「そろそろ寝ないと、明日マジで地獄見る」
「地獄?」
「前にさ、中学の始業式明けの月曜に寝不足で学校行ったことあってね。あの感じ。あれは地獄」
妙に現実的な地獄である。
シエルは、敷かれた布団の上に腰を下ろし、ゆっくりと横になった。
掛け布団の匂いは、どこか柔軟剤と日向の匂いが混じっていて、孤児院の大部屋で嗅いだ匂いとも、前世の自分の部屋とも違っていた。
結衣も、ベッドに潜り込む。
「ねぇ、シエル」
「はい」
「ここに来てさ……後悔してない?」
暗がりの中で、天井を見つめながら問われる。
シエルは、しばらく黙ってから答えた。
「……怖くなかったと言えば、嘘になります」
「うん」
「でも、孤児院の裏口から出てきたときより、今の方がずっと、怖さは少ないです」
「なんで?」
自分でも、うまく言葉にできるか分からない。
それでも、ゆっくり探りながら口を開く。
「今日……おかえりって言ってくれたから、だと思います」
リビングで、涙まみれの笑顔で言われた言葉。
「おかえり、バカ兄貴」
「戻ってきてくれてありがとう」
あのとき、自分の中の「天宮大和」と「山本シエル」が、ほんの少しだけ手を繋いだような気がした……
「はじめましてとおかえりを両方言ってもらえたから……
どっちか一方だけだったら、きっと今頃、布団の中で丸まって震えてます」
「そっか」
結衣の声には、少しだけ笑いが混じっていた。
「じゃあさ。これから何かあったら、言ってね。
おかえりとはじめましてと行ってらっしゃいくらいなら、いつでもサービスしてあげるから」
「サービス……」
「うち、そういう家だからさ。元艦長と専業主婦と、市役所職員とゲーマー女子の家」
言われてみれば、とんでもないラインナップである。
「シエル」
もう一度、名前を呼ばれた。
「はい」
「改めて――星ヶ丘女学院高等学校一年、天宮結衣。
これからよろしくお願いします。同級生として、同居人として……それから、たぶん、家族として……」
その言葉は、静かな宣誓のように聞こえた。
シエルは、布団の中で小さく笑う。
「山本シエル……いえ。
これから、少しずつ天宮シエルになっていく予定の、山本シエルです」
自分でも、少しややこしい名乗り方だと思う。
「こちらこそ、よろしくお願いします……結衣」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かがふっと軽くなった。
スタンドライトが消され、部屋はカーテンの向こうから漏れる街灯の明かりだけになる。
暗闇の中でも、胸元のロザリオが、肌にひやりと触れているのが分かった。
孤児院の匂いを纏ったそれが、今は少しだけ、この家の空気にも馴染み始めている。
(……大和として、ここに残れなかった分)
まぶたを閉じながら、シエルは静かに思う。
(シエルとして、どこまでここに居続けられるか。それを、ちゃんと見届けたい)
あの頃、逃げるように手放してしまった「家族」がいる場所に…
今度こそ、真正面から向き合うために……
その夜――
天宮家の一番奥の小さな部屋で、これから姉妹になる少女は、同じ屋根の下で、同じ明日を思い描きながら眠りに落ちていった。




