異端戦争編 3話
そして翌日の朝、ライゼンが早めに起きると、日課である剣の素振りに精を出した。木刀が風を切る音が、まだ静かな空に響く。
その時、家の前に、おどおどとした男が一人、落ち着かない様子で行ったり来たりとウロウロしているのに気づいた。 ライゼンは素振りの手を止め、声をかける。 「お前さんは、ここで何をしとるだ?」
男は「はっ!?」と驚き気味にライゼンの顔を見た。ライゼンは訝しげに相手の顔を見つめる。 (あれ、こやつ、どこかで……) 次の瞬間、彼の脳裏に、かつての頼りない少年の面影が重なった。 「あっ、思い出した! お前、アイルか!?」
アイルは、ライゼンの弟子であり、ライナの幼馴染でもある。数年前に娘のライナを護衛すると言って共に旅立った、あの少年が、たくましい大人の男になって帰ってきたのである。彼はまた、十勇士に名を連ねる始まりの勇士の一人でもあった。
ライゼンは愛弟子をじっと見つめながら、内心で呟いた。 (こやつも、少しは男を上げたようだな)
「ひさしぶりだのぅ~、アイルや! 元気にやっとったかや?」 ライゼンが声をかけると、アイルは緊張で顔を真っ赤にし、喉から絞り出すような**甲高い声で「あっ、ハイッ!」**と返した。まるで、今にも消え入りそうなひよこの鳴き声のよう。
「でぇ~、今日はどうした?」 ライゼンの問いに、アイルはドギマギしながら、またもや**「あうっ、ハイッ……」**と、気の抜けた返事を繰り返す。 ライゼンは「なんじゃこいつ?」とでも言いたげな顔で眉をひそめる。 「んっ!? いや、『ハイッ』じゃなくて!」
だが、アイルは視線を彷徨わせ、しどろもどろで**力なく「あぅ~、はい~……」**と続く。 ライゼンはとうとう苛立ちを隠さなくなり、その図体が縮こまるほどにドスの効いた声で言い放つ。 「『ハイッ』じゃないわ! このバカ弟子がァッ!!」
その声がご近所中に響き渡った気がした。 「久しぶりに会って、少しは成長したかなと思ったら、さっきからなんじゃお前っ! もっとビシッとせんかい!」 アイルはうなだれ、まるで子犬のように震えながら、小さな声で「はい~……」と力なく答えるしかない。
(ダメだ、こりゃ……) ライゼンは心の中で深くため息をついた。かつての「剣鬼」も、愛弟子の朴訥さには手を焼くばかりだ。
ライゼンの剣鬼らしからぬ**「バカ弟子」**発言が響き渡る中、そこに慌てて駆けつけるライナの姿があった。昨夜は長旅の疲れに加え、久しぶりの実家の居心地に安堵したのだろう、今までぐっすり眠っていたらしい彼女は、髪の毛もボサボサのままだ。
「あらあら、アイル。もう来ていたのね」 ライナは無邪気な笑顔でアイルに声をかける。
ライゼンは、娘の出現に目を丸くする。 「なんじゃ、ライナがお前を呼んでいたのか?」 彼はアイルへの疑問を娘にぶつける。 「なんかこやつ、様子がおかしいんよ。久しぶりに会ったと言うのに、さっきから変に畏まっては……『あっ、ハイ』しか言わんのよ」
そう言いながら、ライゼンは腕を組み、アイルを値踏みするようにじろじろと見つめた。 「まるで、お前、嫁でももらいに来た婿殿のようじゃないかや。はっはっはっ!」
ライゼンは豪快に笑い飛ばしたが、その瞬間、彼の目の前で凍り付いたように固まる二人の若者を見て、ようやく事態を察したようだ。 「…………はっ!?」 アイルは顔を真っ赤にして、まさに絶句している。 「…………はぁ~~~っ!?!?」 一方のライナは、先ほどの笑顔が嘘のように一瞬で固まり、もじもじと落ち着かない様子で視線を泳がせている。
(これはイカン……何か、こっちまで気恥ずかしくなってきたぞ……!) ライゼンは、自身の放った**とんでもない『正解』**に、冷や汗をかきながら内心で呻いた。
ライゼンは、気まずさに、まるでその場から逃げ出そうとする子犬のように、そそくさと後ずさりする。しかし、そんな父の迷いを打ち破るかのように、ライナは意を決して、はっきりと告げた。 「あのね、お父さん……私たち、結婚したの」
「い~~っ!?」 ライゼンの声が、情けないほどに裏返る。 (やっぱり、そういうことか……!) 彼は、あまりの衝撃に、額にじんわりと汗をかき始めた。こういう時の女性は、本当に強いものだ。まさか、この場で直球勝負を仕掛けてくるとは。
だが、ライナの衝撃的な報告は、まだ終わりではなかった。 「それからね……お腹に、赤ちゃんもいるの」
「い~~~~~~~~っっっ!!!!!」 ライゼンの声は、もはや悲鳴と呼ぶべきか。まさかまさかのまさかの追撃に、彼の膝がガクンと崩れ落ちそうになる。彼は慌てて、真っ赤になった顔でアイルの方を振り返り、確認を求める。
「アイル! そうなのか!?」 アイルは、まるで魂を抜き取られたかのように震えながらも、それでも精一杯の力を込めて叫んだ。 「ハイ~~~~~~っっっ!!!!!」
その場に響き渡る二つの「ハイ」に、ライゼンは完全に脱力して肩を落とした。 (ダメだこりゃ……! 帰ってきて早々に、マジかよ……!) 彼が抱いたのは、娘の門出を祝う親心と、あまりにも急な展開に対する、絶望に近い戸惑いだろうか…。
そして、衝撃の報告からおよそ一月ほどの時が過ぎた。 ノートレッド公国大公殿下の温かい計らいと祝祭の下、ライナとアイルの結婚式は盛大に執り行われた。あの日、ライゼンの前でたじたじとなっていた二人も、この日ばかりは晴れやかな笑顔を浮かべ、多くの人々に祝福されながら、晴れて正式な夫婦となったのだった。
後日、ライゼンは首都ノルトダンにそびえる、大公の居城アーセンベルク城に呼ばれた。謁見の間で彼を待っていたのは、ノートレッド公国の大公殿下、ウィルシャロン大公その人だった。 ライゼンは厳かに平伏し、口上を述べる。 「結婚式に際しましては、過分なお取り計らい、誠にありがとうございました」
ウィルシャロン大公は、威厳の中にも温かさを宿した声で促した。 「よいよい。私としても、聖女様に何か報いねばと思案しておったところだ。それに、そなたの日頃の忠勤にもな」 「もったいなきお言葉、感謝の極みでございます」
儀礼的な言葉を交わしながらも、ウィルシャロン大公は、早くも懸念している件について話を進めたい様子だった。 「さて、本題に入るとしよう」 大公の顔から、さきほどの穏やかさが消える。 「その聖女様のことだが、ゼラフィム教のことは重々承知しておるな?」
ライゼンは、やはりこの話が来たか、とばかりに内心で身構えた。重い口を開き、彼は静かに答える。 「シャロンの薔薇(純潔の掟)のことですな」 「さよう。『ゼラフィム教が掲げる聖女様の神聖化』などとは名ばかりの、宗教国家としての象徴を祭り上げるための、ただの利用よ」
大公の言葉には、ゼラフィム教に対する明確な批判が込められていた。 「そもそも、お役目を終えた聖女の行動など、本人の自由であるべきだ。何やら古い伝承では、始まりの聖女と初代ゼラフィム法皇が取り決めたなどと謳っておるが……そんなものに、何の意味も拘束力もない」
大公の口調が、一段と重くなる。 「が、しかしだ」 ウィルシャロン大公は、真剣な眼差しでライゼンを見据えた。 「公にはされてないが、裏ではかつて掟を破った者はことごとく殺され、それをかばった勢力は例外なく滅ぼされたと聞く。ゼラフィムは、それほどまでにこの『掟』に固執しておるのだ」
大公は、深い息を一つ吐き出す。 そして、低い、しかし揺ぎない声で、ライゼンに問うた。 「……覚悟はできているな?」
ライゼンは、迷うことなく、即座に答えた。 「当然です」 その言葉に、ウィルシャロン大公は満足げに頷いた。自身もまた、この決断に対する腹を括ったようだった。 「よし、あい分かった。下がれ」
ライナとアイルの婚儀が執り行われてから、更に数日後のこと。 ゼラフィムの聖都アウロハスに、一つの急ぎの知らせが届いた。それは、現法皇アンドレアス八世にとって、到底看過できない、まさに**「凶報」**と呼ぶべきものだった。
「な、何だと……!?」 法皇の声が、怒りとは別の、戦慄にも似た感情で震える。 腹心であるタナトス枢機卿の口から語られたのは、ノートレッド公国にて、大公殿下の祝祭の下に執り行われた、聖女ライナの「婚儀」についての詳細だった。
「おのれぇ……! ゼラフィム教の威信に傷をつけおって、ただではおかぬぞ、ノートレッド公国ぅ!!」 法皇の怒りは頂点に達し、顔は紅潮し、血管が浮き出るほどだった。 「しかも、相手は獅子族の獣人だとぉ!? 許しがたき冒涜……!」 ゼラフィム教の教典には、『獣人は悪魔の化身』とある。その教えを絶対とする法皇にとって、聖女が獣人と結ばれたなど、天地がひっくり返るほどの背信行為なのだ。
激昂した法皇は、すぐさま咆哮した。 「光の十字軍、通称クロスロード! 全世界の信徒から編成された我が教団の全兵力と、ゼラフィム全軍に命じる!」 彼の眼差しは、もはや狂気に近い。 「ノートレッド公国を蹂躙せよ!! これは聖戦である!」 その声は、アウロハスの聖堂中に響き渡る。 「最早、『シャロンの薔薇』を破ったあの女は、マグダラの魔女である! 即刻、異端審問裁判にかけよ! そして、父となった男は即刻処刑せよ!!」
矢継ぎ早に、血塗られた指示が飛ぶ中、タナトス枢機卿が冷淡な口調で、水を差すように言葉を挟んだ。 「法皇猊下、少し落ち着いてください」 彼の声には、一切の感情が感じられない。 「クロスロードの徴兵と編成、軍備や兵站の確保など、少なくとも半年はかかるでしょう。ノートレッド公国自体は小国とは言え、その従属先である大グリオンダイル王国は、現王が病に伏せているとはいえ、我が国に匹敵する大国です」
枢機卿は、冷静に現実を突きつける。 「全面衝突に備え、軍備を整え、万事怠りなく事を進めるべきかと存じます」
それから時が流れ、大グリオンダイル王国の従属の下、ノートレッド公国の人々は平和な日々を享受していた。 その穏やかな日常の中に、アイルとライナの姿もあった。ライナのお腹は、今やすっかり大きく膨らみ、幸せそうに微笑むたびに、ひときわ目立っている。彼女は、つつましくも幸せな家庭を持つという夢を叶え、騒がしくも笑顔にあふれる日々を送っていた。 生まれてくる赤子の世話に、今から胸をときめかせる。早く、元気な子の顔を見たいと、指折り数える毎日だ。 アイルもまた、もう少しで生まれる我が子を、この両腕でしっかりと強く抱きしめたいと願っていた。父となる実感を、何よりも欲していたのだろう。
だが、そんな穏やかな日々は、突如として破られた。 ある日、ノートレッド公国の東方の村が何者かの賊に焼き討ちにあったという急報が、首都ノルトダン中に飛び交ったのだ。 その報せは、当然アイルの耳にも届く。この頃、彼は元十勇士であり、しかもその筆頭を務めていたことから、ノルトダンの警備隊隊長を任されていた。
そして、間もなく、今度は西方の村から、同様の急報が飛び込んできた。 大公の居城アーセンベルク城内も、そして城下も、人々は突然の騒ぎに混乱し、不穏な空気に包まれていく。
謁見の間では、ウィルシャロン大公とライゼンが、緊迫した様子で言葉を交わしていた。 「恐れていたことが、ついに起きた……」 大公の口から、押し殺したような弱音が漏れる。その表情は、苦渋に満ちていた。
兵士長でもあるライゼンは、表情を引き締め、毅然とした態度で進言する。 「殿下、恐れながら申し上げます。このアーセンブロク城は、大陸随一の難攻不落の堅城です。兵糧も人員も含め、少なくとも三ヶ月は持ちこたえるでしょう」 彼の言葉には、かすかながらも希望の光が宿っていた。 「今のうちに、本国グリオンダイルに援軍要請をしましょう」
「……あい分かった。すぐにグリオンダイルに援軍の要請を出そう」 大公はそう言うと、すぐさま側近に指示を促した。その顔には、一抹の不安と、わずかながらも決断を下した者の覚悟が入り混じっていた。
「それでは、私も部隊を率いて前線に向かいます」 ライゼンは一礼する。 「これにて失礼いたします」 大公は、まるで心細そうに、ライゼンに最後の言葉をかけた。 「……頼んだぞ」 ライゼンは深く頭を下げ、その言葉に無言で応えるように一礼だけして、その場を離れた。
そして、さらに衝撃的な報せが届く。 先ほど東方から襲来した賊軍の本体が判明したのだ。 その報告を聞き、アイルは愕然とした。
遥か遠方に見える敵の軍勢に掲げられた旗には、聖女が剣をかざす紋様が描かれている。 それは、紛れもないゼラフィム軍だった。 さらに、西方から進軍してきている軍勢は、光に十字星を描いた御旗を掲げている。 ゼラフィム最強と謳われる、クロスロード軍だ。ゼラフィム本軍に比べ兵数は少ないが、死を恐れぬ狂信者たちで編成されており、その猛突は恐れられている。
ノルトダンの南方に位置する、傾斜の緩やかなアダンの丘。そこに、敵軍はどうやら全軍を集結させているようだった。 アイルは、自ら危険を冒して密偵に向かった。丘からは砂塵が舞い上がり、進軍時の振動はまるで地鳴りのように、地面を震わせる。 敵方の全貌を見たアイルは、絶句し、震える声で呟いた。
「……少なくとも、十万は超えるぞ」
対して、ノートレッド公国の兵力は、せいぜい二千程度。 どう足掻いても、まともにやって勝てる相手ではない。絶望的な戦力差が、アイルの心を重く圧し潰した。




