異端戦争編 19話
ゼラフィム軍の総大将、その名も軍神エンリキは、長く美しく伸びた自慢の髭を指先でゆっくりと撫でていた。彼の鋭い目が細められ、静かな声が夜の戦場に響く。 「まさか、ここまでとは……」 彼は、現在の戦況が予想をはるかに超えた激戦であることを悟っていた。疲弊しきった自軍に、今、何が必要か。その答えは、彼の頭の中では既に明確だった。
エンリキはすぐに猛神の魏鐐瀞と、タイロン卿を呼び出した。緊迫した空気の中、簡潔な軍議が開かれ、エンリキは次々と指示を出していく。そして、その中でも最も重要な、まさに英断と呼ぶべき采配を下した。 「タイロン卿、貴公に全軍の指揮を任せたい」 突然の命に、タイロン卿は一瞬、戸惑いの色を見せた。しかし、彼はすぐにエンリキの意図を理解する。この極限状態において、自らの全権を委ねるという総大将の覚悟。 「はっ、ご命令とあらば」 タイロン卿は迷うことなく、その重い職務を引き受けた。
エンリキは頷き、自身の計画を続ける。 「私と鐐瀞は、それぞれ千騎ほど率いて、あの勇士たちを引き留めておく。その間に、貴公は全軍を指揮し、敵城を落とすのだ」 エンリキの言葉には、タイロン卿への絶対的な信頼が込められていた。 「貴公ならば、必ずや成し遂げると信じている」 しかし、時間は残されていない。 「あまりこちらにも猶予がない。グリオンダイルが動けば、消耗が激しい我々が圧倒的に不利となる」 「では、頼むぞ」 その言葉を最後に、エンリキは急ぎ足で自らの部隊を率い、敵方の主力、特に勇士たちが集まるであろう陣を探して闇の中を駆けていく。 魏鐐瀞は無言で、しかし迷いなくエンリキの後を追う。彼の顔には、師の決断に対し、決死の覚悟が宿っていた。 残されたタイロン卿は、眼前にそびえ立つ難攻不落と呼び声高いアーセンベルク城を静かに見据える。彼の双眸には、家族の命運と、故国の誇りをかけた、最終局面への戦いの決意が宿っている。
難攻不落の牙城、アーセンベルク城
ノートレッド公国の首都ノルトダン。その北側に位置する丘の上には、初代ウィルシャロン家当主によって山城のごとく築かれたアーセンベルク城がそびえ立つ。その歴史は古く、築城されたのは三百年以上も昔だという。 長年にわたり、この城は幾度となく押し寄せる侵略者たちを、その頑丈で堅牢な城壁によって跳ね返し、退けてきた。これまで一度たりとも、他の支配者に城の主の座を奪われたことはない。故に、かつてはグリオンダイルの盾とまで比喩されたこともある、まさに不落の要塞なのだ。 この堅固な城には、総司令ライゼンが選び抜いた屈強な精兵が六百名ほど、敵の攻撃に備えて配置されていた。 そして、その城壁の上空には、アイルの指示で配置された、空を翔ける者たちがいた。空中を自在に舞うセレンと、竜王のヴェロンが布陣。さらに、防御に長けたアグロヴァルもヴェロンの背に乗り、眼下の敵軍に鋭い眼光を光らせている。彼ら三人の存在が、アーセンベルク城の防衛力をさらに高めていた。
「まさか、あのライゼン隊と勇士たちに、ここまで手こずるとは……」 タイロン卿は、肩を負傷したレインを傍らに、眼前にそびえるアーセンベルク城を見上げていた。夜空に浮かぶその巨影は、彼らにとってあまりにも大きく、重い。 「当初の兵数から死傷者が続出し、我らゼラフィム軍も今や半数近くまで兵力を減らしました。それでも、卿の元にはおよそ五万の兵が残存していますが……」 レインの言葉に、タイロン卿は静かに頷く。 「ああ、本来ならば、兵糧攻めを選ぶべきなのだろう。この城を落とすには、それが最も確実な道だ」 しかし、彼の表情には、焦りの色が隠せない。 「だが、レイン。この城が厄介なのは、ただ堅牢なだけではないことを、お前も重々承知しているはずだ」 レインは、眼帯の奥で深く頷いた。 「はい。このノートレッド公国の、そのさらに奥に控える大国グリオンダイルの存在こそが、この城を難攻不落たらしめていると言っても過言ではありません。実際、この世に真の難攻不落の城など存在しませんから」 タイロン卿は、暗い声で続ける。 「どんな城も、兵糧攻めには勝てない。では、それが何を意味しているか?」 「……援軍の有無。勝敗は、いつの時代も、そこで決まる。所詮、籠城戦とは、味方の援護あってこその戦術です」 レインの言葉に、タイロン卿は重く息を吐いた。 「そうだ。故に、私は焦っている。もし、グリオンダイルの援軍が到着すれば、兵力も、士気も、体力も、すべてが覆される。ただでさえ、寡兵のライゼン隊と勇士たちにここまでいいようにやられているのだから……」 タイロン卿は、想像しただけで身震いするような恐怖を感じていた。 「そこに、大軍が味方についたなどと想像しただけで、背筋が凍る思いだ。間違いなく、常勝ゼラフィム軍の歴史上、初めての、そして壊滅的な大敗となるだろう」 夜風が、二人の間に重く吹き抜けていく。城の攻略を巡る緊迫した状況が、彼らの間に暗い影を落としていた。




