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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私、悪役令嬢。誰か…助けて


 眩しいほどの青空に、淡く流れる白い雲。

 どこまでも穏やかな午後の空気が、高校の裏手にある大きな木を静かに包み込んでいた。


 その木は、いつからそこにあるのか誰も知らない。

 けれど在校生の間では、「願いが叶う木」だとか「告白したら成功率100%の樹」など、さまざまな伝説めいた噂が絶えなかった。


 ーー約束の樹。


 その根元に置かれた古いベンチに、二人の少女が並んで座っていた。

 一人は明るい栗色の髪をツインに結った少女。制服のネクタイを少し緩めて、スマホの画面を食い入るように見つめている。

 もう一人はストレートの黒髪を揺らしながら、手に持った水筒をすこし傾けて、苦笑交じりに隣を見つめていた。


「……ねえ、もうすぐよ。あと少しで最終ルート突入!」

 高橋未来たかはし みくは、ゲームの世界に全力投球していた。


「はいはい。早くエンディング見たいんでしょ?」

 姉の高橋遥たかはし はるかは、肩をすくめながらもスマホ画面を覗き込む。


 その画面には、ファンタジー世界を思わせる美麗なイラストと共に、「Chapter Final」の文字が浮かんでいた。


「だってさ、ここで王子が“君こそ真の巫女だ”って言ってくれるの! でね、その後に……あ、見てて!」


 未来が食い入るように画面を見つめる。

 遥は興味半分、付き合い半分でそれに応じた。


「でもさ、ここってすごく似てない? ゲームのエンディング背景と。大きな木と、白いベンチと、静かな陽射し……」

「……うん。確かに言われてみれば、似てるかも」


「ねえ遥、もし私たちがこの世界に行けたら、どのルート選ぶ?」

「またそれ? 私はあんたの実況付きで充分です」


「もうー、ノリ悪いなぁ。でも、もしも、もしもよ? ほんとにその世界に行けたら……私、リアナになるね。巫女になって、世界を救うの」


「はいはい。じゃあ私は……悪役令嬢でもやっとく?」


 冗談のように、遥が笑った。


 その瞬間だった。


 空気が、音を失った。

 風が止まり、鳥の声が消え、雲が重く垂れこめていく。


「……あれ? 天気予報、晴れって……」


 未来が顔を上げた瞬間、稲妻が閃いた。

 轟音と共に、大木のてっぺんへと雷が直撃する。


 目を焼く閃光。

 耳を裂く衝撃。

 熱、光、空気の振動。

 そして、音が、世界が、白く、遠く、消えていった。

 


 息を吸った瞬間、花蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 次に、頬に触れる柔らかなシーツの感触。ふかふかの寝具に沈み込んだ身体は、まるで雲に抱かれているように軽い――いや、軽すぎる。

 目を開けたファーラ――いや高橋遥は、最初に天蓋のレースを見上げて息をのんだ。紫水晶を思わせるビーズと純白のサテンが、淡い光を受けてきらめいている。


(ここ……ホテルでも、病院でもない。そもそも、私の部屋じゃない!)


 動悸が跳ね上がる。思わずシーツを握り、上体を起こすと、肌を包む寝間着がさらさらと揺れた。絹。襟元には繊細な刺繍が走り、手首には光沢のトリミング。どう見ても高級品だ。


「な、何これ……」


 喉の奥からこぼれる声はかすれていて、自分のものなのに少し違って聞こえた。ベッドサイドには白磁のランプ、壁には金色のモールディング。視界に入るすべてが王侯貴族の寝室を思わせる豪奢さだ。


 布団の端を握りしめながら足を床に下ろす。厚いカーペットが足裏を沈ませ、冷えは感じない。

 ゆっくりと部屋を一周してみる。天井まで届きそうな書棚、磨き上げられたマホガニーの机、バルコニーへ続くガラス戸。どこにも見覚えがない。それなのに胸の奥がざわつく奇妙な既視感――。


(どういうこと? さっきまで私は、未来と一緒にゲームのエンディングを見てたはずで……)


 思考が混線する。雷光、白い閃光――そこで記憶は途切れていた。


 そんな中、壁際の大きな姿見が目に留まった。重厚な金枠に嵌め込まれた鏡。恐る恐る近づき、反射した像を見て、息が止まる。


 鏡に映るのは、見覚えのある“誰か”だった。

 リボンで束ねたプラチナブロンドの髪、青磁のように淡い瞳、絵から抜け出したような細い顎先。


(私じゃない。けど、知ってる……!)


 混乱の濁流に沈みそうになったその瞬間、扉をノックする音が弾んだ。


「……お嬢様。失礼いたします……ご入室してもよろしいでしょうか?」


 怯えを滲ませた女性の声。反射的に返事が漏れる。


「あっ、は、はい……どうぞ」


 自分でも驚くほど澄んだソプラノだった。


 開いた扉から、三人のメイドがこわごわと入室してきた。ユニフォームの白エプロンが震えている。手には深紅のドレスとコルセット。


「き、着替えの……お手伝いを……」


 うつむいたまま差し出された衣装は、夜会で着るような華麗なシルク素材。

 遥は訳が分からず口を開く。「あの――」

 だが声をかけた瞬間、メイドたちはそろって青ざめ、膝を折って頭を下げた。


「ひっ……申し訳ございません! お怒りにならないでくださいませ!」


「え? 怒ってない、怒ってないから──」


 取り乱すように手を振るが、メイドたちの震えは止まらない。問いかけても「申し訳ありません」を繰り返すばかりで会話にならず、結局、言われるがままドレスを着せられる。コルセットを締められるたび、息が浅くなった。


 最後のブローチを胸元に留められ、鏡を見れば、そこには血のように紅いドレスを纏った貴族の令嬢が完璧に完成していた。


 どうして私が――頭の中で問いが渦を巻く。


 やがてメイドの一人が震え声で告げた。


「お部屋の外に、お付きの執事が……」


 ドアが開かれ、廊下へ踏み出す。

 その瞬間、胸の奥で何かが“カチリ”と音を立てた。


 背筋が正され、唇が勝手に弧を描く。視界の端で、メイドの肩が跳ねるのを見る。理解する前に、右手が振り上がっていた。


 ――パアンッ!


 乾いた音。メイドの頬に赤い跡。

 なぜ、どうして、と叫ぶ声は喉の奥で凍り付く。


 身体は私のものなのに、意志は私の手を離れている。


 明確な痛覚が、私の手のひらではなく――頬を押さえるメイドの表情に刻まれた。

 まさか自分が人を叩いた音を“外側”から聞く日が来るなんて、想像したこともなかった。


(なんで……動くの……? 私、そんなつもりないのに!)


 じわりと痺れる指先。けれど心は凍りついたまま、身体は次の動きを選び取る。


「部屋に入ってくるのが遅いわ」


 私の声だ。だけど、私の意思じゃない。

 響いた声は低く、冷え切っていた。まるで脚本を読み上げるかのように滑らかで、非情。


 震えるメイドが俯き、蚊の鳴くような声で答える。


「も、申し訳ございませんお嬢さま。廊下に控え、お声掛けをお待ちしておりました……」


 その瞬間、唇がせせら笑う形に曲がった。


「言い訳は結構よ」


 ――再び手が振り上がる。

 叩かれていないもう一人のメイドの頬が弾け飛ぶ音。白いエプロンに涙が散り、赤い跡が浮かぶ。


(やめて!! お願い、もうやめてぇ!)


 心の中で叫んでも、口は氷のように冷酷な台詞を紡ぎ続ける。


「下がりなさい。視界に入るだけで不愉快よ」


 メイドたちは悲鳴を噛み殺し、スカートの裾を掴んだまま後退した。足が絡まり、絨毯に倒れ込む。その弱々しい姿を“私”は鼻で笑い、ドレスの裾を翻す。


 頭の中では、別の私が必死に縋りついている。


(違う、違う! どうして言葉が止められないの? 手の動きを――)


 けれど肉体は囚われの獣。

 私は魔法が解ける前の人形姫のように、自分の瞳の奥で起きる惨劇を眺めることしか許されなかった。


 


 廊下を進むあいだ――


「花瓶の位置が気に入らないわ。変えなさい」

「その頭巾は汚れているでしょう? まったく教育が行き届いていないわね」

「膝をついて謝りなさい。声が小さい。二度と失態を繰り返さぬと誓える?」


 “悪役令嬢”の声が止まらない。

 使用人の肩が跳ね、若い給仕の唇が真っ青に震え、誰もが視線を合わせることを恐れて伏せた。 


(私は見下したくなんてない! お願い、せめて一言謝らせて……!)


 抵抗は虚空を切る。

 身体の奥に、冷たい鎖が絡みついていて、意思が届くより早く、関節が決められた軌道で動いてしまう。


 私は“傍観者”として、残酷な演劇の主役を演じ続ける。



 一日を通して、私は“悪役令嬢”としてこの屋敷でふるまい続けた。


 いや、正しくは――そう演じさせられていた。


 意識だけが自分で、身体も言葉もすべて別の誰かに乗っ取られていた。自分の目と耳で、罵声を浴びせる声を聞き、怯えた顔を見つめながら、心の奥で何度も何度も叫び続けた。


(もう、やめて……お願いだから……私、こんなことしたくない……)


 日が沈むころ、ようやく晩餐が終わり、風呂場でも使用人たちに理不尽な命令と冷酷な言葉を投げかけ続けた末、寝間着へと着替えさせられた身体が、自室に戻る。


 そして――


 そこで、ふっと、すべてが解けた。


 まるで何かの呪縛が解けたように、私の身体が私自身のものである感覚が戻ってきた。


(……動く。今は……大丈夫?)


 肩を抱く。手を開く。呼吸を整える。涙がにじむ。


「……誰か……助けて」


 そう口にした瞬間、扉がノックされた。


 びくりと身体が跳ねる。咄嗟に背筋を伸ばした。今は“私”のままでいられるのか、それともまた、あの“悪役令嬢”として動かされるのか――わからない。


 だが、入ってきたのは老齢の執事だった。

 白手袋に覆われた手が、丁重に手紙を差し出す。


「ファーラお嬢様。王都にお住まいのご当主様より、お手紙が届いております」


 ファーラ。

 ようやく、この身体の名前を知る。


 昼間は“お嬢様”としか呼ばれていなかったせいで、この体が誰なのか、ずっと分からずにいた。


 ファーラ――どこかで、聞いたことのある名前。


 手紙を受け取り、封を切ることもせずにぼんやりと立ち尽くしたまま、部屋の鏡を見やる。


 そこに映るのは、緩やかに波打つ金色の髪と、翡翠のように美しい瞳を持つ少女。優雅さと傲慢さを併せ持った美貌。その顔に、私は見覚えがあった。


(……この顔……この名前……)


 思い出す。

 妹――未来が夢中になっていたゲームのことを。


『聖竜の巫女と邪竜の巫女』。

 その中に出てきた“悪役令嬢”――ファーラ。


(……嘘。……なんで、私が……?)


 頭が真っ白になる。


 そうだ、私は――


【私は悪役令嬢でもやっとく】。


 あの日。

 約束の樹の下で、妹と並んでベンチに座りながら、私はそんな冗談めいた言葉を言った。


 今、ようやく思い出した。

 あの時、未来は嬉しそうに笑っていた。エンディングを一緒に見ようって、誘ってくれたのに。


(……未来……?)


 その存在を、今更ながらに強烈に思い出す。


「未来……未来は……どこ……?…お願い、独りにしないで……」


 今日一日、どこにもいなかった。


 ずっとなにをするにしても一緒だった。


 しかし、この世界に来てから、一度も見ていない。


(まさか……私だけ、こっちに……?)


(……なんで、あんなこと、言ったの……)


(……私が、“悪役令嬢でもやっとく”なんて言わなければ……)


 後悔が胸を焼く。喉が痛い。涙が止まらない。何も分からない。何も分からないまま、私は“ファーラ”として残酷な言葉と行動を繰り返してきた。


 壁際にうずくまり、膝を抱きしめる。


 この身体に宿る私は、誰?


 この声は、誰のもの?


「もう……いや……」


 小さな声が震えながら漏れた。


「……誰か……助けて……」


 声に出した瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと切れたように、まぶたが重くなり、意識が暗闇に沈んでいく。


 ただ、眠りに落ちるのではない。

 まるで逃げるように――何もかもから、目を閉じていった。



 遠くから、鳥のさえずりが聞こえる。

 まどろみの中、心地よい光に包まれて、私は目を閉じたまま深呼吸した。


「……お姉ちゃん、まだ寝てるの?」


 その声に、私はゆっくりとまぶたを開けた。

 そこは――見慣れた部屋だった。子どもの頃から未来と一緒に使ってきた、あの六畳半の小さな寝室。


 ベッドのすぐ隣、引き戸のカーテンから差し込む朝日が、柔らかく部屋を照らしていた。


「んー……未来? もう朝?」


「もうっていうか、ほら、お風呂入ってから寝ようって言ったじゃん! 一緒に入るって言ってたのに、お姉ちゃん、いつのまにか寝ちゃったしー」


 未来が頬をぷくっとふくらませ、私の布団をめくろうとする。


「うわ、ちょ、寒いって……! わかった、入る入る……ってか、朝風呂なの? 今?」


「違うの! 昨日の話! もう、お姉ちゃん、すぐ寝ちゃうんだもん!」


「……ごめんって」


 肩をすくめると、未来が笑った。

 その笑顔は、まぶしくて、見慣れていて、あたたかかった。


 夢だ――とは気づいていた。でも、気づきたくなかった。


 未来は、そのまま私の手を引っ張って、隣の脱衣所へと歩いていく。


「じゃーん。お湯、張っといたよ。ぬるめにしたから、のぼせないでね?」


「え、まさか……未来が? いつの間に……」


「こう見えても、私、気が利く系ヒロイン目指してるからっ」


「ゲームの話じゃない……」


 お風呂に浸かりながら、未来が語る。乙女ゲームの新作のこと、攻略キャラの誰が好みかとか、主人公が聖竜の巫女になる話とか――。


 私にはそこまでピンと来なかったけれど、未来の楽しそうな声を聞いているのが、何より嬉しかった。


「じゃあさ、お姉ちゃんは悪役令嬢の役ね?」


「えぇ……なにその配役……。私が悪役って、どんな姉妹ゲー厶よ」


「いいじゃん、似合ってるよ、紅いドレスとか。ほら、ツンデレっぽい雰囲気あるし!」


「それ、褒めてるの?」


「もちろん! 私が聖竜の巫女なら、お姉ちゃんは邪竜の巫女ねっ!」


「それって、敵対するってことじゃん……いやだなあ」


「でも、私たちは姉妹なんだし、最後には分かり合えるエンドにしよ!」


「はいはい……そういう未来の空想話、嫌いじゃないけど……」


 肩を並べてお湯に浸かりながら、私はつぶやいた。


「ずっと一緒にいられたらいいのにね」


 未来が笑った。


「うん。絶対、ずっと一緒」


 その笑顔が、ふと――かき消えた。


 次の瞬間、耳をつんざく雷鳴。

 地面が揺れる。頭上から落ちてくる枝の影――そして、まばゆい光が視界を飲み込んでいった。


「み……く――!」


 叫ぼうとした声は、何かに引き裂かれるようにして、霧の中へと消えていった。


 ――ずっと一緒。


 誰かがそう言った気がした。

 だけど、その声は遠ざかり、やがて闇の中に吸い込まれていく。


 ――私は、ここにいるのに。


 何も応えられないまま、意識が浮かび上がる。


 まぶたの裏が、ほんのりと明るくなる。

 薄い陽光が瞼を通して差し込んできているのだと、気づいた瞬間、はっとして目を開いた。


 重たい体を起こすと、冷たい床の感触が背中に残っていた。どうやら、昨夜はこのまま寝落ちてしまったらしい。壁際に体を預けていたせいか、肩も腰も痛い。


「……夢、か……」


 ぼそりと呟いた声が、自分でも驚くほどかすれていた。

 夢の中にいた未来の笑顔と声が、まだ耳の奥に残っている。


 ベッドの上ではなく、冷たい床の上で目覚めたというだけで、現実の過酷さが際立っていた。

 あんなにも温かくて優しかった時間は、ただの夢でしかなかったのだと。


 ふと視線を移すと、昨夜、執事長から手渡された手紙が机の上に置かれていた。そういえば、読んでいなかった。


 硬い封を破る指先が、妙に震えていた。



---


両親からの手紙


 中身は、事務的で冷たい言葉が並んでいた。


 【王都での政務が立て込んでおり、今年の巡察は見送ることにしました】

 【学問の進捗と健康状態を定期報告するよう、家庭教師に依頼済です】

 【邸内の備品の消耗が激しいとのこと、注意するように】


 ――これが、両親からの手紙?


 血の通った言葉がどこにも見当たらず、思わず手が止まった。

 「お父さん」「お母さん」という呼びかけすら、そこにはない。


 だが、手紙を机の引き出しに戻そうとして、私は気づいた。

 その中には、他にも何通もの封筒が重ねられていた。日付の古いものから、最新のものまで――ずっと、取ってあったのだ。


 古いものを一通一通めくっていくと、最初の手紙にはこう書かれていた。


 【ファーラ、体調はどう? 寒くなる季節だから、風邪をひかないように】

 【無理に頑張らなくてもいい。いつか必ず、落ち着いたら迎えに行くから】


 優しい言葉が、たしかにそこにあった。

 けれど、次第に言葉数は減り、文章は短くなり、そして冷たくなっていく。


 ――ファーラ、本当に事務連絡だけでいいのかい?


 そんな一文を目にしたとき、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 そうだ。これは、ファーラ自身が望んだ“やり取り”だったのかもしれない。手紙を書くことが、返事を出すことが、彼女にとっては辛くて仕方なかったのかもしれない。


 そして――その理由も、私は昨日の一日で痛いほど理解した。

 “自分の意志ではない行動”が、どれほど心をすり減らすか。



---


封を切られなかった一通の手紙


 ふと、積まれた封筒の下から、封を切られていない便箋が一枚、見つかった。


 その手紙だけは、明らかに他とは違っていた。

 便箋には、震えるような筆跡でこう綴られていた。


> 『お願い。助けて。』

『体が勝手に動きます。何も、私には……できません。』

『私は――』




 その文字の上から、大きくバツ印が引かれていた。

 出すべきかどうか、何度も迷った跡がにじんでいた。


 その手紙が、引き出しの奥にしまわれ、けれど捨てられずにいたこと――

 それが、遥の心を深く打った。


 (……私は、あなたの代わりに、この手紙を“出したい”)


 そんな思いが、胸の内で静かに芽生えていた。



 手紙を読んでいたファーラの耳に、控えめにドアをノックする音が届く。


> 「お嬢様。そろそろお時間でございますが……お着替えの支度を――」




ファーラは手紙から顔を上げると、すぐに反射的に声を張ることなく、しかしはっきりと拒絶する。


> 「今日は……放っておいて。誰も入ってこないで」




ドアの向こうの沈黙の後、小さく「かしこまりました……」という声が響き、足音が遠ざかっていく。


 昨日、自分の手で叩いてしまった少女たち。その顔が思い出され、胸がきしんだ。彼女たちに、また何かをしてしまうのではという恐怖があった。



 ファーラは再び机の上の手紙に視線を落とす。引き出しに積まれた古い手紙、便箋の色や質も違う。

 一つひとつをめくるうちに、時の流れは音もなく過ぎ去る。


> (……ああ、最初の頃は、こんなに優しい文章だったんだ……)




「どうしてファーラは返事をくれないのか」

「それでも元気にしているならいい」

「距離を置くのは正しいのかもしれない」

 そんな葛藤がにじむ両親の手紙。読み進めるほど、胸の奥が軋み、何も返せなかったファーラの心を想像して、遥はそっと便箋に触れた。


 いつの間にか、腕が机に落ち、視界がにじむ。思考は手紙の文面に溶けていき、やがて眠気が訪れた。



---



差し込む陽光、草の匂い、春の温もり。

夢の中のファーラは、まだ小さな少女で、ふかふかのピクニックマットの上に座っていた。


> 「お父様、だっこ!」

「ファーラ、お前はもうお姉さんなんだから、自分で立ってごらん」

「えー、やだもん」




 傍らで笑う母、髪を撫でる父の手。

家族三人、幸せな時間。ほんの短い、しかし確かに存在していた記憶。


> (これは……この体の記憶? それとも……私の?)




 夢の中のファーラは笑っていた。花かんむりを編みながら「ずっと一緒にいようね」と言っていた。


> (こんなに、笑ってたんだ……)




涙の跡で濡れた手紙の端。朝から何も口にしていない体の鈍さ。


だが、その胸の奥に、昨日までとは違う感触があった。


> 「……この子は、本当に助けてほしかったんだね」




 ベッドに横になるわけでもなく、机に突っ伏したまま、わたしはそっと両手を手紙へと重ねた。



 ――今日は、もう、この部屋から出ない。

 ファーラは強くそう決めていた。


 食事も、風呂も、トイレさえも諦めてしまおう。

 このまま部屋に籠もっていた方が、あの“地獄のような一日”を繰り返すよりはまだマシだ。


 紅茶も冷めきった机の前で、彼女はただ一人、書きかけのまま出せなかった手紙を読み返し続けていた。

 どれほど読み返したのか、何を思い、何を感じたのかさえ分からないほどに時間は過ぎ、外の光が薄く沈みはじめていた。


 そして、夜が訪れる。


 


 しかし、限界は突然やってくる。

 いくら我慢しようと、自分の身体には限界がある。トイレだけは、さすがに部屋の中では済ませられなかった。


 「……いこう、すぐに戻れば大丈夫。自分を保っていられる」


 手紙を置き、意を決して部屋の扉を開ける。廊下は静かで、誰の気配もない。

 なるべく早足で、しかし音を立てないようにと気を張りつつ目的地へ向かった。


 


 ――けれど、戻るその途中で、ふと、世界が暗転する。


 


 目を開けたとき、ファーラは屋敷ではなく、見知らぬ村に立っていた。

 脚には見覚えのある、しかし今は憎しみに満ちた“真紅のドレス”。

 目の前には鎧姿の兵士たちが、静かに整列している。


 「……さあ、焼き払いなさい」


 ――言ってない、そんなつもりはない、けど……口が勝手に動いた。


 兵士たちは命令に従うかのように、盾と剣を鳴らし、火矢を放ち、松明を家々へ投げ込んでいく。

 乾いた木々が火を噴き、黒煙が空へと昇り、村人たちが悲鳴をあげて飛び出してくる。


 (やめて……やめてよ!)


 私の声は……どこにも届かない


 


 一人の村人が、怒りに燃える目でこちらを見据え、手にした鎌を振り上げて近づいてきた。

 だが、その手前で、護衛の兵士があっさりとそれを切り伏せる。


 血が飛び散る。兵士達は誰も何も言わない。ただ、無言で村を焼き続けている。


 「やめろ! 何が目的だ!? 金か? 食料か? この村にはそんなもの無いぞ!」


 それに対し、ファーラの口が笑みを浮かべながら告げる。


 「金も食料もいらないわ。さあ、恐怖と絶望を、邪竜へと捧げなさい」


 


 「……なにを言ってるんだ!? こんな酷いことをして……殺すなら、さっさと殺せ!」


 「だめよ。死んでは。死んだら、恐怖も絶望も消えてしまうじゃない」


 「火傷をして、血を流して……どうやって生きろって言うんだ!」


 「それもそうね。じゃあ、回復してもらえばいいわ。“エリア・ハイヒール”。」


 ファーラがそう言うと、周囲に微光が広がり、村人たちの傷が回復していく。

 しかしその目は、より深い絶望に染まっていく。


 「……なにがしたいんだ……?」


 「だから、言ったじゃない。恐怖と絶望を邪竜に捧げるの。それじゃ、サ・ヨ・ナ・ラ」


 


 その言葉を最後に、再び視界が暗転した。


 


 ◆ ◆ ◆


 


 ――目が覚めたとき、そこはまた、屋敷の自室だった。


 息が荒く、心臓が早鐘のように鳴っている。

 夢……であってほしい。そう思いたかった。


 だが、今着ている“真紅のドレス”には、確かに焦げた臭いが染みついている。

 鼻を突く、すすけた匂い。そして耳に残るのは、村人たちの悲鳴だった。


 ファーラは、膝を抱えるようにして部屋の隅にうずくまり、震える唇で呟いた。


 「もう、やめて……いや……助けて……誰か、助けて……」



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