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月明かりの記憶葬

作者: W732

 ### 第一章:消えた星と、寄り添う月


 事故から半年。アリスの部屋は、以前と変わらぬ穏やかさに包まれていた。朝の光が窓から差し込み、レースのカーテンを透過して、柔らかなパターンを床に描く。目覚まし時計の代わりに小鳥のさえずりが聞こえ、彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げた。目覚めの瞬間はいつも少しだけ重く、世界がぼんやりとした輪郭から徐々に鮮明になっていく感覚は、失った記憶という霧の中にいることを再認識させる。だが、その不安を打ち消すように、彼女の視界に飛び込んできたのは、窓辺に飾られた小さな花瓶に活けられた、朝露に濡れたばかりの可憐な白いフリージアだった。その花は、まるで昨日摘まれたばかりのように生き生きとしていて、かすかな甘い香りを部屋中に漂わせている。


「アリス、朝食の準備ができたよ。パンが焼けたばかりだ」


 優しく、そしてどこか控えめな声が、リビングから響いてくる。アリスは微笑んだ。その声の主が、彼女の記憶の中には存在しない「恋人」なのだと、彼女は知っていた。あるいは、そう説明されてきた、と言った方が正しいかもしれない。


 リビングへ向かうと、ダイニングテーブルには既に湯気を立てるコーヒーと、こんがりと焼けたトースト、それに色とりどりのフルーツが並べられていた。エプロン姿のリヒトが、背中を向けてオムレツを焼いている。彼の鳶色の髪は朝日に透けて淡く輝き、その広い背中からは、温かく、確かな安心感が伝わってくる。


「ありがとう、リヒト。いつも悪いわね」

 アリスが椅子に腰掛けると、リヒトは振り返り、優しく微笑んだ。彼の鳶色の瞳は、いつもアリスを真っ直ぐに見つめ、その奥には、深い愛情と、そして微かな悲しみが混じり合っているように見えた。彼は記憶を失う前のアリスの恋人、そう医師も家族も友人も皆が語った。彼の名前も、顔も、声も、仕草も、アリスの脳にはインプットされている。彼の存在そのものが、まるで昔からそうであったかのように、彼女の日常に深く深く溶け込んでいる。それなのに、胸の奥で温かく満たされるはずの「恋しい」という感情が、彼に対してだけは、どうしても芽生えないのだ。まるで、大切な感情のネジが一本、どこかに抜け落ちてしまったかのように。


「気にしないで。君が元気になるのが一番だから」

 リヒトはそう言って、アリスの皿に焼きたてのオムレツを乗せた。その手つきは優しく、しかしどこか慣れ切っていて、長年連れ添った夫婦のようにも見えた。アリスは知っていた。彼が、アリスが記憶を失った事故を起こした車に同乗していたこと。そして、アリスを庇ってハンドルを切ったがために、彼自身も腕に大怪我を負い、心に深い傷を負ったこと。彼がどんなに辛い思いをしてきたか、アリスには想像することしかできなかった。だからこそ、彼は決してアリスに過去の記憶を強要しない。ただ、毎日を大切に、彼女が笑顔でいられるように寄り添い続けた。


 朝食の後、リヒトは庭に出て花の手入れを始めた。彼は花が好きで、アリスの記憶が曖昧なこととは関係なく、毎日欠かさず庭の植物たちに水をやり、枯れた葉を摘んでいた。その手つきは、彼がアリスに接する時と同じくらい優しく、丁寧だった。

 アリスはリビングの窓から、そんな彼の後ろ姿を眺めた。彼の存在がなければ、自分はこんなに穏やかな日々を送れていないだろうと、心からそう思っていた。彼への感謝の念は、日増しに強くなる。だが、その感謝の念の裏側で、時折、胸に募る形容しがたい「空虚感」」があった。まるで、自分にとって最も大切な何かを、永遠に失ってしまったかのような。それは、リヒトの献身的な愛の前では、口にすることのできない感情だった。


 午後は、リヒトが図書館で借りてきた本を読んだり、一緒に近くの公園まで散歩に出かけたりした。公園では、子供たちが無邪気に笑い声をあげていて、その光景はアリスの心に温かいものを灯した。リヒトはアリスの少し後ろを歩き、彼女のペースに合わせてくれる。その距離感は、決して押し付けがましくなく、しかし、常にアリスの存在を意識しているのが伝わってくる。


「そういえば、この前、駅前の新しいカフェに行ってみたんだけど、とても雰囲気が良くてね」

 散歩の途中、リヒトがさりげなくそう言った。アリスは彼の言葉に反応し、少しだけ興味を示す。

「へえ、そうなの? 私、あまりカフェとか行かないけれど…」

「そうだね、あまり興味なかったっけ。じゃあ、今度美味しいパン屋さんでも行こうか」

 リヒトはすぐに話題を変えた。その配慮が、アリスの胸をチクリと刺した。彼は、彼女が以前の自分ではないことを、誰よりも理解している。そして、その変化に、決して不満を見せない。


 彼はまるで、彼女の人生に、静かに寄り添う「月」のようだった。アリスの失われた記憶という暗闇を、そっと照らす光。その光は、温かく、穏やかだった。しかし、その光は、かつて彼女の人生で最も明るく輝いていたはずの「星」の記憶――彼自身がまぎれもなくその星だったにも関わらず――を呼び覚ますことはなかった。アリスは、リヒトの献身的な愛の中にいるにも関わらず、どこか満たされない心を抱えていた。まるで、自分ではない誰かの人生を生きているような、奇妙な感覚。この空虚感は、時折、彼女の心を押し潰しそうになるほどだった。


 夜。アリスは眠りについた。静寂に包まれた部屋で、リヒトはアリスの寝室の扉の前で立ち止まった。扉の隙間から漏れるわずかな灯りが、アリスの柔らかな寝顔を想像させる。彼は静かに息を吐き、自分の部屋に戻った。彼の部屋には、アリスの部屋とは異なり、簡素な家具しか置かれていない。壁には何も飾られておらず、まるで彼自身が、この空間に痕跡を残すことを避けているかのようだった。


 彼は机の引き出しから、古い革のアルバムを取り出した。ページをめくる。そこには、記憶を失う前のアリスと、彼自身の姿があった。二人で笑い合う写真。手を繋いで歩く後ろ姿。アリスの無邪気な笑顔。それは、まぎれもなく彼らの「恋人時代」の記録だった。


 リヒトは、アルバムの中のアリスの顔にそっと指を触れた。その指先は、まるで触れれば消えてしまうかのように、震えていた。彼女がこの笑顔をもう一度見せてくれるなら、どんな苦しみも引き受けよう。それが、彼が事故の後に誓った、唯一の誓いだった。彼は「星」だった。彼女の夜空を照らす、最も明るい星。だが、今は、彼女の記憶の中で完全に消え去った、存在しない星だ。


 彼は、彼女の傍らに寄り添う「月」として生きることを選んだ。決して熱く輝くことはなく、ただ、遠くから彼女を見守り続ける存在として。そして、その「月」の役割が、いつか終わりの時を迎えるかもしれないことを、彼はこの冷たい夜の静寂の中で、一人、理解していた。


 アルバムを閉じ、リヒトは窓の外に目を向けた。街の灯りが遠く、瞬いている。それらの光一つ一つが、それぞれに異なる物語を抱えている。だが、アリスと彼の物語は、今、そのほとんどが闇の中に隠されている。彼はその闇を、深く深く見つめ続けた。まるで、その闇の奥に、二人の未来の行方を探しているかのように。彼の瞳の奥には、尽きることのない愛情と、そして、底知れぬ哀しみが渦巻いていた。この穏やかな日々の終わりが、刻一刻と近づいていることを、彼は予感していた。


 ---


 ### 第二章:夢の残滓、揺らぐ現在


 それからの日々、アリスの睡眠は、奇妙な夢に支配されるようになった。

 最初は断片的な光景だった。満開の桜並木の下で、誰かと手をつないでいる自分。温かい手のひら。柔らかな風が、二人の髪を撫でていく。振り返ると、そこにいたのは、まぶしい笑顔の彼だった。顔はリヒトによく似ている。しかし、その瞳には、今のリヒトからは感じられない、もっと強く、もっと情熱的な光が宿っていた。そして、その唇が「アリス、愛している」と囁いた瞬間、世界は光に包まれ、夢は終わりを告げる。


 目覚めたアリスは、いつも胸の高鳴りを抑えきれなかった。夢の中の彼は、紛れもなく「恋人」だった。そして、その時に感じた、胸が締め付けられるような甘く切ない感情は、今のリヒトに対して抱いている「感謝」や「安らぎ」とは、明らかに異質だった。それは、失われたはずの「恋」という感情が、アリスの心の奥底で、まるで息を吹き返したかのように脈打っている感覚だった。


 夢は頻繁にアリスを訪れるようになった。

 夏の海辺、きらめく波打ち際で彼と手を取り合ってはしゃぐ自分。日差しを浴びて輝く彼の笑顔。

 雨の降る午後、二人きりのカフェで、他愛ない会話をしながら温かいコーヒーを飲む時間。彼の視線が、どこまでも自分だけを捉えている心地よさ。

 雪の降るクリスマスの夜、街のイルミネーションの下で、凍える指先を温め合うように抱きしめ合った温もり。彼の吐息が、自分の首筋にかかる熱さ。

 それら全てが、甘く、そして切ない思い出だった。そして、夢の中の彼の顔は、日を追うごとに、リヒトの顔と完全に一致していく。彼は、間違いなく、彼女の記憶から失われた恋人だったのだ。


 現実と夢の境界線が曖昧になり、アリスの心はざわつき始めた。今の平穏な日常と、夢の中の鮮やかな記憶の狭間で、彼女は困惑した。リヒトに対する感謝と、夢の中の彼に対する「恋しい」という感情が、彼女の心の中で複雑に絡み合い、彼女自身を深く混乱させていく。


「アリス、最近、顔色が良くないよ。よく眠れてるかい?」

 リヒトが心配そうにアリスの額に触れる。彼の手が、夢の中の彼の手と重なる。アリスは思わず手を払ってしまった。

「ごめんなさい…何でもないの」

 その瞬間、リヒトの鳶色の瞳に、一瞬だけ深い影が差したのを、アリスは見逃さなかった。彼は、アリスの変化に気づいていた。彼女の記憶が戻りつつあることに、誰よりも早く。


 彼は知っていた。アリスが見ている夢が、過去の彼ら自身の記憶であるということを。彼女の記憶が戻ることは、彼にとって、何よりも願っていたことだった。しかし、それは同時に、彼が最も恐れていた「真実」が彼女の前に露わになることを意味した。


 その夜、リヒトは一人、書斎で古いアルバムを広げていた。そこには、アリスと彼の、満面の笑顔が収められている。桜の下で寄り添う二人。海の波打ち際ではしゃぐ姿。雪の中で抱きしめ合うシルエット。全てが、アリスが最近見ている夢の光景と全く同じだった。


 リヒトは、愛おしそうにアリスの笑顔を指でなぞる。記憶が戻れば、彼女は自分を「恋人」として思い出すだろう。そのこと自体は、彼にとって何よりも喜ばしいことだ。だが、同時に、事故の悲劇も、自分が彼女を庇い、彼女自身が記憶を失ったことの苦しみも、全てが鮮明に蘇ってしまう。そして何より、彼がアリスを事故から庇い、自身が負った心の傷、そして決して語らないでいる「真実」も。


 彼は、アリスの笑顔を守るためなら、どんな犠牲も厭わないと決めていた。もし記憶が戻れば、彼女はきっと自分を責めるだろう。自分を庇って彼が傷つき、そして自分が彼を忘れてしまったという事実に、きっと深く絶望するに違いない。そんな悲しみを、彼が愛するアリスに、もう一度背負わせたくなかった。


 月が、彼の窓に静かに光を落とす。その光の中で、リヒトの瞳に、決意の炎が宿った。それは、愛する人の幸福のため、自らの存在を闇に葬るという、孤独で痛ましい決意だった。彼が消えることで、彼女の記憶から彼の存在が完全に消え去り、事故の悲劇も、彼を思い出せない期間の苦しみも、全てが「なかったこと」になる。それは、彼女にとっての新たな生であり、彼にとっての究極の献身であった。彼は、自分自身の痛みや存在意義よりも、アリスの未来の幸福だけを願っていた。彼の心の中には、アリスへの揺るぎない、そして報われることのない愛だけが、静かに燃え続けていた。彼は、来るべき決断の夜に向けて、静かに準備を始めた。


 ---


 ### 第三章:彼の選択、愛ゆえの犠牲


 リヒトの決意は、夜空の月のように、静かに、しかし絶対的なものとして彼の心に宿っていた。アリスの記憶が戻りつつある今こそが、その時なのだ。これ以上、彼女の心が真実と虚構の間で揺れ動き、苦しむのを彼は見ていられなかった。


 彼は、アリスが眠った後の静寂の中で、自室の引き出しをゆっくりと開けた。古い木製の引き出しは、開くたびに微かに軋む音を立て、その音は彼の胸に重く響いた。中には、アリスと彼の思い出が詰まった品々が整然と並べられている。


 小さなフォトフレームには、二人で初めて旅行に行った時、海辺で撮った写真が入っていた。アリスの笑顔は弾けるようで、彼の腕の中で無邪気にVサインをしている。その隣には、彼が贈った、ごくシンプルなデザインのネックレスが置かれていた。華奢なチェーンの先に小さな星のチャームが付いている。アリスはいつもそれを身につけていて、彼にとってそれは、彼女が傍にいる証だった。


 古い映画の半券もあった。彼らが初めて一緒に観に行った映画の、使用済みのチケット。座席番号は隣り合っていて、その数字を見るだけで、当時のアリスの横顔や、ポップコーンの甘い香りが蘇るようだった。彼が贈った手紙、アリスが描いた彼の似顔絵、二人で手作りしたクッキーのレシピが書かれたメモ。一つ一つが、彼にとっては宝石よりも尊い、かけがえのない記憶の断片だった。それらを手に取るたびに、彼の指先が震え、苦しげに顔を歪めた。


「ごめん、アリス。本当に…ごめんね…」


 彼の脳裏には、事故の瞬間の光景が鮮明に蘇る。雨に濡れた夜道。対向車線から突然飛び出してきたトラックのヘッドライトが、彼の視界を白く染め上げた。一瞬の判断。アリスを庇い、彼は躊躇なくハンドルを左に切った。激しい衝撃。体が宙に浮くような浮遊感。そして、意識が遠のく中で、耳に焼き付いたアリスの悲鳴。


 彼自身は一命を取り留めたが、腕に重度の骨折を負い、それ以上に、心の奥深くに消えない傷を負った。事故の後、医師からは、アリスの記憶が戻ったとしても、それによって彼女が感じるであろう罪悪感やPTSD(心的外傷後ストレス障害)のリスクを警告されていた。そして、彼自身も、記憶を失ったアリスとの関係を続けていく中で、彼女に「恋人」として認識されない痛み、そして真実を語れない罪悪感に苛まれ続けていたのだ。


 彼女が自分を忘れている間、彼はどれほど多くの夜を、孤独な想いを抱えて過ごしただろう。彼女が自分のことを「親切な隣人」としか見ない時、彼の心は千々に引き裂かれるようだった。それでも彼は、彼女の笑顔を見るたびに、その痛みを乗り越えてきた。だが、記憶が戻れば、彼女はきっと自分を責めるだろう。「どうして私だけが助かったの?」「どうしてあなたのことを忘れてしまったの?」と、深く絶望するに違いない。そんな悲しみを、彼が愛するアリスに、もう一度背負わせたくはなかった。


 彼が望むのは、ただ、彼女の幸福だった。

 もし、彼が彼女の人生から完全に消え去ることで、彼女が何の痛みも悲しみもなく、新しい人生を歩めるのなら。もし、彼が消えることで、彼女が真に自由になり、過去の影に囚われずに未来を歩んでいけるのなら。それが、彼が選ぶべき道だと、リヒトは自身に言い聞かせた。それは、究極の愛の形であり、最大の犠牲。誰にも理解されない、孤独で痛ましい決断だった。


 彼は静かに、だが確かな手つきで、思い出の品々を一つの小さな木製の箱に詰め始めた。その箱は、彼の指先をすり抜けていく砂のように、彼の記憶の砂時計が、もうすぐ空になることを告げているかのようだった。箱が満たされていくにつれて、彼の心の奥底では、過去の愛しい記憶が、まるで光を失っていく星のように、一つ一つ消えていく感覚があった。


 涙はもう枯れていた。彼の心は、凍てつくような決意に満たされていた。

 愛するがゆえの、究極の自己犠牲。それは、誰にも理解されない、孤独な道だった。だが、彼の瞳の奥には、アリスへの揺るぎない、そして報われることのない愛だけが、静かに燃え続けていた。彼は、箱を抱きしめ、深く、深く息を吸い込んだ。その吐息は、冷たい夜の空気の中に、白い煙となって消えていった。彼は、来るべき決断の夜に向けて、静かに、そして着実に準備を進めていた。それは、二人の物語の最終章を、彼自身の手で記すための、孤独な儀式だった。


 ---


 ### 第四章:月明かりの記憶葬


 深夜。東の空には、既に満月が天高く昇り、その白く冷たい光が、アリスの部屋の窓から静かに差し込んでいた。アリスは穏やかな寝息を立てて眠っている。その寝顔は、記憶を失う前と同じように、どこか幼く、そして無垢だった。リヒトは、アリスが眠る部屋の扉の前で立ち止まり、その寝顔を瞼の裏に焼き付けるように、目を閉じた。彼の愛しい人が、今、この家で最も安らかな時を過ごしている。それだけで、彼の胸は、温かさと、そして言いようのない寂しさで満たされた。


 彼は、小さな木製の箱を抱え、静かに家を出た。足音を立てないように、一歩一歩、慎重に。夜の闇は深く、しかし月の光は彼の道を照らしていた。向かう先は、彼とアリスが、まだ恋人同士だった頃、よく二人で訪れた丘だった。そこは、満月の夜には王都の灯りが全て見下ろせる、二人だけの秘密の場所だった。丘への道は、彼らの思い出で舗装されているかのようだった。初めて手をつないで歩いた並木道、二人で隠れてキスをした街角、他愛ない話で笑い合ったベンチ。それら全てが、今、彼を過去へと引き戻し、彼の決意を試すかのように襲いかかってくる。


 ひゅう、と夜風が吹き抜ける。冷たい空気が、彼の頬を容赦なく撫でていった。リヒトは、丘のてっぺんに立つ一本の古い樫の木の下で立ち止まった。その木の根元には、彼とアリスが、永遠の愛を誓って埋めた、小さなタイムカプセルがある。あの時、アリスは屈託のない笑顔で「百年経っても、一緒にこれを見に来ようね!」と言った。その言葉が、今、彼の胸を鋭く切り裂いた。


 彼は、持ってきたシャベルで、慣れた手つきで土を掘り起こした。土は湿り気を帯び、冷たい。掘り進めるたびに、スコップが石に当たる鈍い音が、夜の静寂に響く。カプセルは錆びて、土と同化しそうになっていたが、中の品々は奇跡的に無事だった。彼が丁寧にカプセルを開けると、中には、彼らが初めてデートした時の映画のチケット、アリスが書いた彼への手紙、そして、アリスが初めて焼いてくれたクッキーが、乾燥剤と共に大切に保管されていた。


 彼はそこに、今日持ってきた「記憶の箱」の中身を一つ一つ移していく。二人の写真、手紙、アリスが描いた彼の似顔絵…全ての思い出が、夜の闇に吸い込まれるように、カプセルの中へと消えていく。そのたびに、彼の心臓が、まるで物理的に引き裂かれるかのように痛んだ。彼は知っていた。この行為が、二人の愛の物語を、永遠に葬り去ることを意味しているのだと。


 最後に、彼は一枚の小さなメモを取り出した。それは、アリスがかつて、彼に内緒で彼の誕生日に贈ろうとしていた、手書きの詩だった。事故の後、彼の荷物の中から、偶然見つかったものだ。白い便箋に、彼女らしい丸みを帯びた文字で、こんな言葉が綴られていた。


「リヒトへ。

 あなたは私の星。

 暗闇の中でも、いつも私を照らしてくれる。

 あなたといると、どんな闇も怖くない。

 これからも、私の隣で、ずっと輝いていてね。

 アリスより、愛を込めて」


 その詩を読みながら、リヒトの目から、大粒の温かい涙が溢れ落ちた。それは、枯れたと思っていた、彼の最後の涙だった。彼の胸は、愛おしさと、そして絶望的なほどの悲しみで張り裂けそうだった。この詩が、二人の愛の真実を、そして彼が選んだ道の残酷さを、あまりにも鮮明に物語っていたからだ。


 彼は、メモをカプセルの中にそっと入れ、蓋を閉めた。金属が擦れる音が、彼の心に重く響く。そして、まるで、この世から一切の痕跡を消し去るかのように、丁寧に土を被せ、元通りに均した。彼はそこに、墓標のように一本の小さなモミの木を植えた。それは、二人の思い出と共に、土の下で朽ちていくことを選んだ、彼の存在の証だった。モミの木は、彼の涙を吸い込み、冷たい風に微かに揺れた。


 丘の上には、ただ冷たい月明かりだけが降り注いでいた。

「さようなら、アリス。君の星は、ここに埋葬された。君の未来が、どうか…光に満ちているように」


 リヒトは、振り返らずに丘を下りた。彼の足跡は、月光に照らされ、そしてすぐに闇に溶けて消えていった。彼は、アリスの記憶から、そして彼女の人生から、自らの存在を完全に葬り去ったのだ。彼の背中は、月明かりの中に次第に小さくなり、やがて夜の闇と同化していった。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように。


 ---


 ### 第五章:残された光、永遠の哀歌


 翌朝、アリスは、経験したことのないほどの激しい頭痛と共に目覚めた。まるで、長い悪夢から覚めたかのように、視界が鮮明で、色彩に満ちている。昨夜まで感じていた胸の空虚感は、嘘のように満たされていた。そして、それ以上に、溢れんばかりの感情が、彼女の心臓を激しく揺さぶっていた。


 彼女の記憶は、完全に回復していた。

 事故の日のこと。トラックが迫り来る絶望的な光景。リヒトが、間一髪で自分を庇い、ハンドルを切ったこと。彼が負った深い傷。そして、意識が朦朧とする中で聞こえた、彼の最後の言葉――「アリス、君は生きるんだ」。自分が助かり、彼が重傷を負い、そして、目覚めた時、自分が彼を「忘れていた」という、痛ましく、そして残酷な真実。


「リヒト…!」

 アリスは叫び、布団を跳ね除けて、彼の部屋へと駆け寄った。だが、部屋はもぬけの殻だった。ベッドは綺麗に整えられ、私物は何一つ残されていない。クローゼットを開けても、彼の服は一枚もない。机の上も、本棚も、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、何もなかった。


 家の中を何度も、何度も探し回った。キッチンも、バスルームも、庭も。しかし、どこにも彼の姿はない。庭の植物たちは、これまでと同じように手入れが行き届き、生き生きとしているが、それを見るたびに、彼の温かい手が触れていた感触が蘇り、アリスの胸は締め付けられた。


 絶望に打ちひしがれながら、アリスは玄関へ向かった。隣の家の老婦人が、朝の散歩から戻ってきたところだった。

「あら、アリスちゃん。おはよう」

「おばあちゃん、リヒト、どこにいるか知りませんか?」

 アリスは縋るように尋ねた。老婦人は、不思議そうに首を傾げた。

「リヒトさん? 急な用事ができたと、数日前に出て行かれたわよ。挨拶に来てくれたから、私も驚いたけどね。彼、とても真面目な方だから、何か急ぎの用事だったのでしょう」

 あっけらかんとした答えが返ってきた。誰もが、彼の突然の失踪に驚いていないようだった。まるで、彼が消えることが、最初から決まっていたかのように。


 アリスは、愕然とした。彼が自分を思い出せない期間、いかに献身的に支えてくれたかを、今、はっきりと記憶している。彼女が何一つ覚えていない間も、彼は毎日、花を活け、食事を作り、彼女の傍らに寄り添い続けてくれた。それなのに、なぜ彼は、何の言葉もなく、痕跡も残さずに、自分のもとから消えてしまったのか。


 彼女は、途方に暮れながら、かつてリヒトが毎日花を活けていた窓辺の花瓶に目をやった。今日は、花が活けられていない。代わりに、花瓶の底に、小さな紙片が置かれているのに気づいた。それは、リヒトの几帳面で、少しだけ丸みを帯びた字で書かれていた。


「アリスへ。

 君の笑顔が、僕の全てだった。

 どうか、幸せに。

 僕のことは、忘れてくれていい。

 永遠に、君の幸福を願っている。

 リヒトより」


 その短いメッセージを読んだ瞬間、アリスの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。それは、失われた記憶を取り戻した喜びの涙ではない。愛する人を失った、深い悲しみの涙だった。彼が、彼女の幸福のために、自らの存在を消し去ったのだと、アリスは直感的に理解した。彼が「忘れてくれていい」と書いたのは、彼女が過去の悲しみや、彼を忘れた罪悪感に囚われないように、という彼の最後の、そして究極の願いだったのだ。


 彼女は、記憶を取り戻したことで、彼との幸せな過去を全て思い出した。彼の温かい手のひら、優しい声、まぶしい笑顔。そして、二人の間で育まれた、かけがえのない愛。しかし同時に、その愛ゆえに彼が自分から離れていったという、新たな悲劇を背負うことになった。彼の存在は、もう彼女の目の前にはない。だが、彼の愛は、形を変えて、彼女の心の奥底に深く、深く刻み込まれていた。


 窓から差し込む朝日は、昨日までと同じように明るく輝いている。しかし、アリスの心には、もう彼がいた時の温かい光は届かない。彼女の人生には、彼の存在によって守られた、温かい空白が残った。その空白は、彼女の心のどこかで、常に彼を求めている。


 アリスは、花瓶の底に残された紙片を、ぎゅっと握りしめた。その温もりは、彼がそこにいた確かな証だった。彼女は、彼の存在を知らないまま、しかし、その愛によって守られた未来を生きる。そして、彼の存在が消えた世界で、月だけが、二人の悲しい愛の物語を静かに見守り続ける。彼の消え去った痕跡を追いかけるように、アリスの心には、永遠に、悲しい歌が響き続けるのだった。

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