二口女の恋
昔のことです。昔の、日本のことです。
あるところに、鷹来村という、山沿いの集落がありました。
そこには富兵衛というじい様が住んでいました。彼は炭やきを仕事としていましたが、原木の調達中に腰を痛めてしまい、仕事を続けられなくなりました。
人々は皆、山に住む女の化け物のせいだと言います。
しかし、孫の庄兵衛は全然信じませんでした。彼は自分で見たものしか信じない性質だったのです。
化け物など怖くもない庄兵衛は、炭やきの仕事を継ぐことにしました。
庄兵衛は富兵衛に釜の作り方や、木の手入れの仕方など、様々なことを教わりました。
庄兵衛が一人前になった頃、富兵衛は亡くなりました。
彼は死に際に、「化け物に気ぃつけろ。」と言いました。
庄兵衛は、分かったよ。と笑って看取りました。
じい様も信心深いもんだ。
そう思い、あまり真剣には受け止めていませんでした。
じい様の死後、数ヶ月ぶりに、炭やき小屋に人が足を踏み入れることになりました。
庄兵衛は炭やきの道具といくつかの家財道具を村の人と協力して山に運びました。
「ありがとうございました。
ここで、大丈夫ですけ。」
庄兵衛は炭やき小屋の前で村人達にお礼を言いました。神聖な炭やき小屋には、1人で入りたかったのです。
庄兵衛は深く息を吸って、小屋の戸を開けました。
そして、息を飲んだのです。
小屋の中心に、美しい女性が座っていました。
真っ白な服に、それに寄り添うような色の白肌。対照的な黒髪が濡れているような艶を放って鎮座しています。
庄兵衛は息を飲みました。
女は、「あっ。」とだけ言ってそれきり、また下を向きました。
彼女が吐いて揺らした息さえも庄兵衛には美しく感じられます。
「あの、どちらさんで……。」
庄兵衛は声をかけましたが、女性の返答はありません。
ずっと鷹来村に住んでいる庄兵衛も見ない顔です。
旅人だろうか、世捨て人だろうか。
庄兵衛は考えましたが、どのみちこのままにしておく訳にいきません。
「あの、これ、食べます?」
庄兵衛は昼食用に持ってきていた握り飯を差し出しました。満腹になれば、何か話してくれるだろうと思ったのです。
女性は庄兵衛から握り飯を受け取ると、口に含みました。
庄兵衛も並んで握り飯を食べ、二人とも食べ終わったところで、また庄兵衛が声をかけました。
「あの、お名前を聞いてもいいでしょうか。
あっしは、庄兵衛と言います。」
女性は俯いたまま少し身をすくませて、
「ないんです。」
と言います。
庄兵衛は気の毒に思って、うぅんと唸りました。
まさかそう返ってくるとは。
しかし。
「名前がないと寂しいですからね。
そうだ。握り飯が好きですから、丸子さん、というのはどうでしょう。」
庄兵衛が手を打ってそう言うと、女性は俯いたまま顔だけを庄兵衛の方へじろりと向けました。
「ごめんなさい。
あまり名付けが上手くないもので。」
庄兵衛は慌てて謝ります。
女性は、すると、困ったように、
「いえ。いいですね。丸子。」
と言って、ちょっと頭を下げました。
庄兵衛はぼりぼりと後頭部をかきました。
庄兵衛は荷解きを始めました。
荷物と言っても大層なものはありません。寝具と何枚かの着物、餉笥に炭やきの道具くらいのものです。
とはいえ、庄兵衛のこれからの暮らしには十分です。
庄兵衛はある程度荷物を置き、なおがらんとした小屋を見回して、
「丸子さん。行くあてがないなら、ここで暮らしますか。
飯の時と寝る時しかこの部屋には入りませんし、勿体無いから使って下さい。」
と言いました。
丸子さんは、ありがとうございます。と言って、少し頭を下げました。
庄兵衛はなんだか照れ臭くなって、へへっと言って笑いました。
しかし丸子さんは、笑いません。
庄兵衛は仕事に出かけ、丸子さんが小屋に1人残されました。
丸子さんは顔を手で覆って泣きました。
毎日、毎日、泣きました。
しかし、庄兵衛がこの涙を知ることは、終ぞありませんでした。
原木の調達を終え、庄兵衛は戻ってきました。
丸子さんが庄兵衛が家を出た時と寸分変わらぬ場所にいることに気づいて、庄兵衛は少し怖くなりましたが、すぐに丸子さんの美貌に心を奪われました。
「今日は、もう寝ましょうか。
ご飯は、いつも村から持ってきてるんです。
明日からは、丸子さんのも持ってきますね。
苦手なものとか、ありますか。」
丸子さんは首を横に振りました。
それから1年ほど、2人は炭やき小屋で過ごしました。
丸子さんは握り飯を食べながら時折笑顔を見せるようになり、庄兵衛はその度に想いを募らせていました。
そしてある日、庄兵衛は丸子さんの手を握って言いました。
「丸子さん。俺が一人前になったら、ヨメにもらってもいいですか。」
丸子さんは、そう言われても、ヨメってなんだろう。としか思えませんでした。
実を言いますと、件の化け物は、丸子さんその人だったのです。
彼女の後頭部には、ぱっくりと裂けた大きな口があります。
美しい女の顔にある口でものを食べることもできますが、できれば本当の口で食べたいと思っていました。庄兵衛はいつも丸子さんとご飯を食べるので、偽物の口で食べることしかできなかったのです。
丸子さんは、近頃悩んでいました。
本当の口で食事ができないということではなく―もちろんそれもありましたが―、庄兵衛のことでした。
庄兵衛と握り飯を食べていると、幸せです。温かい気持ちになります。本当の口のことなど、忘れてしまいます。
けれども、分かりません。
自分が幸せなのは、握り飯のおかげなのか、庄兵衛のおかげなのか。
丸子さんには、分かりませんでした。
庄兵衛は丸子さんから返事がないので、しょげていました。
丸子さんは庄兵衛からの言葉も忘れ、ある計画を思いついていました。
何も、人間の言葉は簡単なものしか分からないから熱心に庄兵衛の言葉を反芻していたわけではありません。
最近の悩みを晴らす、画期的なものを思いついたのです。
丸子さんは、決意しました。庄兵衛を食べてしまおうと。
そうすれば、自分を幸せにしているものが何か分かるだろうと。
本当の口は大きいのです。庄兵衛など、楽々食べられます。
丸子さんは今、この計画を実行に移そうとしていました。
庄兵衛は、しょげていました。
ちょっと、油断していたのです。ですから、気づけなかったのです。
丸子さんが、触手みたいな髪をこちらに伸ばしていることに。
庄兵衛が気づいたのは、身体をぐるぐる巻きにされた後でした。
手遅れでした。
「わああ!」
庄兵衛は思わず叫びました。
丸子さんはゆっくりと、庄兵衛を本当の口に運んでいきます。
「丸子さん、お腹空いたんですか。
握り飯なら、あそこに……。」
庄兵衛は、声とともに飲み込まれました。
静かな部屋の中、丸子さんは黙って座っていました。
やがて我に返り、握り飯が入っている弁当箱に手を伸ばしました。
そして、握り飯を食べ始めます。
いつもと同じ味。ただの銀シャリ。
けれど、不思議といつもより美味しくありません。
丸子さんは、二人分。
いつもより、たくさん食べました。本当の口で、思いっきり食べました。
けれども、ちっとも温かい気持ちになりません。
幸せじゃありません。
むしろ、なんだか空っぽな気持ちでした。
丸子さんの目から、涙がぽろぽろと溢れ出します。
気づいてしまったのです。
自分を幸せにしてくれていたのは、握り飯ではなく、本当の口でもなく、庄兵衛だったのです。
ああ、手遅れでした。
丸子さんには、もうこの炭やき小屋しかありません。
それから数日後、庄兵衛が村に来なくなったことを不思議に思った村人が、崖の下に女性の遺体を見つけました。
それはとても美しい女性で、何故か後頭部の髪の毛に、米粒が数粒ついていたそうです。