リザードマンの恋
私は、魔王様に仕えている。それは我々にとって誇り高いことで、父上も大層喜ばれた。
魔王様は、我々に様々な規律を守るよう命ぜられている。規律を破れば、命はない。
しかし、規律を守る模範的な兵は、身分を問わず出世でき、待遇も良い。
魔王様は、ああ見えて慈悲深い方なのだ。
本当はお優しい故、御父上の厳しい政治を続けることに、苦悩を抱いていらっしゃる。
私が時々愚痴を聞いて差し上げられるのが、せめてもの救いだった。
そんな魔王様は、その精神的重圧に耐えるため、常に世界中から人間の娘を10人、身の回りに置いている。
美しい娘は、主に魔王様の子孫を産ませるために、ただそれだけのために存在している。
だが、それは名目上の話だ。
魔族の中には、人間に良くない思いを抱いている者が多いのだ。
しかし、魔族同士の子より、人間の血が混じった方が、強い子になるのも周知の事実。
それ故、10人の人間は黙認されている。
魔王様との交尾は、人間には負荷が大きいらしく、入れ替わりが多い。何度、彼女たちの遺骸を見てきたことか。
人間の血とは、何と臭いものだろう。思わず、顔を顰めた回数は、数え切れない。
私は、いつものように、いなくなった10人目の補充に、人間の住む国に向かった。
私を見て、幾人もの人間が悲鳴を上げ、ある者は武器を携え、抵抗しようとした。しかし、娘調達中の人間への攻撃は、規律で禁じられている。
何発撃たれようと、私は美しい娘を探し続けるよりなかった。
「待って!」
人々の怒鳴り声を突き抜け、高い声が聞こえた。
女だ。
はたと目を向けると、そこには透き通るような白肌に、絹のような金髪の女がいた。
「私が贄になります。
町の人には手を出さないで!」
人々は、口々に反対の言葉を口にした。
お前が行ったところで、魔物がここを救うはずがない。
死ぬつもりなのか。
ガヤガヤ。ガヤガヤ。
何を言うか。本当はホッとしたくせに。
しかし、わざわざ探す手間が省けたのは有難かった。
私は娘の手を引き、魔王様の待つ城へと連れ帰った。
その間も、娘は抵抗することなく、大人しく着いてきた。
もしかすると、本当にこの娘は死にたいのだろうか。
聞き出したくとも、人間と会話することは、規律で禁じられている。
一時の好奇心で、命を無駄にしたくなかった。
娘達は、城の最上階の1室で生活させる。
人間達が娘を奪い返しに来たとき、簡単に辿り着けないようにするためだ。
一応、娘達には、贅沢な暮らしをさせている。
強い子を産んでもらうため、病気などになっては困るからである。
娘は、光り輝く布で彩られた部屋の眩さに、思わず感嘆の声を上げた。
単純そうで良かった。
娘の世話は、連れてきた兵士が行うよう、規律で定められている。
単純かつ楽観的な娘の方が、手がかからないのは、経験が教えてくれた。
翌日、私は朝食を届けに最上階に向かった。
お盆に乗せられた果物類と、1斤の食パン。
私は肉食なので、残念ながら食べられない。
色鮮やかな娘の朝食の横に、血みどろの肉が乗せられていた。
娘にお盆を差し出すと、私は隣に座って生肉を齧る。
娘は果物やパンをしげしげと眺め、匂いを嗅いだり、少し割ってみたりして、安全かどうか確かめた。
そして、数分のち、小さな声で、
「ありがとう。」
と囁いた。
人間の言葉は、ある程度わかる。
この役職につくには、試験に合格しなければならない。その試験科目に、人間語は含まれている。種類は多いものの、ある程度単純なものだ。
感謝の言葉!なるほど、相当な物好きに違いないな。
娘が果物に歯を立て、しゃくっと音を立てて口の中へと導いていく。今度は舌触りを確かめたのち、おずおずと嚥下する。
1日目の光景としては、良くあるものだった。毒の味も匂いも知らない一般人の毒味など、たかが知れていると思うのだが。
しかし、どの娘達も、次第に警戒心が薄れて、城での贅沢な暮らしに溺れていく。
そして、魔王様との交尾を終え、大抵は肉片と化す。
一部は見事生き残り、子を産むも、大抵は1年ほどでその子供は命を落としてしまう。
だから、娘たちはいつまでも補充されていくのだ。
娘が来てから、1週間経った。
未だにたどたどしく毒味をし、下品な他の女の会話にも混ざろうとしない。
だからか、私がいない間に、他の娘から暴行を受けているらしい。
腕や顔に、青あざが目立った。私は、その傷に薬を塗って、回復させてやる。
しかし、次の日にはまた痣がある。
イタチごっこだった。
それでも、どうしてだか痣を見たくなかった。
その純白に傷をつけていいのは。
……いや。
魔王様だけだ。
娘が来てから、1ヶ月が経った。
その頃には、娘は10人目から、9人目になっていた。
娘は、毒味を続け、他の女とは話さないものの、私に多くのことを話すようになったのだ。
人間の言葉を勉強し、人間の文化を学んできた私にとって、新鮮な話ではない。
ただ、娘が城に来る前の話は、なかなか面白かった。
一人の人間について書かれている本は読んだことがない。
ひとつひとつのエピソードが濃厚で、娘は面白おかしく、時には叙情的に話してくれた。
娘は、エリーというらしい。
エリザベスを短くしたのではない。元からエリーなのだ、と、娘は2,3度力説した。
確か、エリザベスを短くしたら、ベスではなかったか。
私は、心の中でそっと疑問符を抱いたが、娘のいた国ではそういう規律でもあったのかもしれない、と、独り合点した。
他の娘どもは、それを知っていながら、しょっちゅうエリーをエリザベスと呼んだ。
どうにもうざったいやつらだ。
同じ種族は労わり合うように、という規律を知らないのか。
兵士が娘と一緒にいられるのは、食事の時と、入浴の時、それから就寝の時だけだ。
就寝の時は、娘が寝るまで傍に着いてやり、 眠ったらその時間を記録するのが常だ。
我々は、娘の健康にも注意しなくてはならない。
エリーの話を食事の時に聞くのは、なかなか楽しい。
エリーもその時間が好きなのか、私がお盆を持って部屋に入ると、俯いた顔がすっと上がり、青い目が私を見つめる。
そして、その目が次第に月のように細められ、こちらに手を振るのだ。
エリーは、魔王様のお気に召すだろう。
こんなに魅力的なのだから。
魔王様と一緒に過ごす様になるのは、5人目の娘からだ。
日中、正確に言うと朝食から昼食の間を魔王様と過ごす。魔王様に気に入られれば、食事や支給される服はより良いものになる。
この仕組みのおかげで、娘が逃げ出すことはない。
やはり、魔王様は天才だ。
「ありがとう、グリーン。」
お盆に乗せられたグラタンの見た目と匂いを確認したのち、エリーはにこやかに言った。
私が肉を持ったまま目を丸くしていると、エリーが続けた。
「あなたの名前よ。
あなたの鱗は夏の森みたいな色で綺麗だから。
やっぱり、あなたは人間の言葉が分かるのね。
私のくだらない話を、あんなに楽しそうに聞いてくれるんだもの。」
魔族には名前がない。
ただ、種族名に役職をつけて呼ばれるだけ。
私の名前は、ずっとリザードマン中尉。
だから、グリーンという名前は、何ともこそばゆかった。
グリーンと名づけられて、1年が経った。
エリーの話は、自分の今までの暮らしより、もっと内面に触れたものになっている。
そして、今、エリーは4人目。
朝食は、南国の珍しい果物と、1斤のフレンチトースト。おまけに、ヨーグルト。
その横に添えられた私の朝食は、相変わらず生肉の塊ひとつ。
魔王様は、我々兵士のことを、多少は気にかけて下さっているのだろうか。
「あのね、グリーン。」
ある日、エリーがヨーグルトの最後のひと口を食べ終わり、容器をお盆に戻して、言った。
その声はいつものものとは違い、暗いものだった。まるで、洞窟に反響するコウモリの鳴き声のような。
「私ね、あまり体が強くないの。
それにね、知ってるの。
女の人たちがどうしてひとりずつ消えていくか。
私みたいな人は、きっとすぐに死んじゃうわ。」
私は、お盆を両手に持ったまま、思わず硬直した。
知らなかった。
確かに、エリーは時折咳き込むことがある。
ただ、血を吐くわけでもないし、あまり気にしていなかった。
私のミスだ。
そんなことより、私は初めて、元はエリーだった肉片を想像した。
ずたずたになった美しい目鼻。
僅かに残った金の髪。
無くなった四肢から溢れる血。
それを見て、初めて絶句し、立ちすくむ私。
何故だろう。
エリーの死を、何故今まで意識しなかったのか。目を逸らしてきたのか。
不思議でならない。
とうとう、エリーは2人目になった。
エリーは、食事の時も笑わない。しかも、ほとんど話さなくなった。
そんなエリーを見ていて、私はたまらなく嫌な気持ちになった。
慰めてやりたい。
何なら、私の失敗談を面白おかしく話して、笑わせてやりたい。
きっと大丈夫。エリーは死なない。
そう常に思っていないと、訓練にも部下の育成にも集中できない。
ある日、とうとう私は入浴の時、エリーに話しかけた。
入浴の時だけは、私たちはふたりきりだ。
「エリー。」
エリーは、ぎょっとしてこちらを見た。
その目に恐怖がないのを見て、私は続けた。
「エリー。私と一緒に逃げないか。
このままでは、エリーは犬死にだ。」
エリーは、シャワーの水を止めて、こちらに向き直った。
エリーは、少し笑った。
「グリーン。そんなことしたら、あなたは殺されちゃうわ。
嫌なの。あなたが酷い目に合うのは。」
そう言って、私の切り傷だらけの手を握った。
私は、驚いてエリーの顔を見る。
エリーも、こちらを見ている。
「私ね、もしかしたら、あなたに恋をしたのかもしれないわ。
私が死んでも、あなたは悲しまないかもしれない。
でもね、あなたが死ぬと、私は悲しいの。
こんな気持ちになるのなら、あなたに会いたくなかった。
そう思うくらい。」
「私も同じ気持ちだ。」
エリーの手を、壊れない程度に強く握った。
エリーの弱い笑顔は泣き顔になり、少し俯いた。
私は、慌てて握っていた手を離そうとした。
やっぱり痛いだろう。こんな鱗だらけの手じゃ。
しかし、エリーは握った手を離そうとしない。
どうして泣いているのだろう。
やっぱり、人間の感情は私達のものとは違うのだろうか。
じゃあ、やっぱりこの気持ちは何なのだろう。
「やっぱり、私のためにあなたが死ぬ方が嫌だわ。」
「私は、エリーが誰かの腕の中で死ぬのが嫌なのだ。
私が死ぬときは、エリーが傍にいて、笑っていてほしい。
エリーが死ぬときは、私が傍にいたい。」
我侭だな。私は。
エリーの顔は曇るばかり。
やっぱり、言わない方が良かった。
思い悩む私をよそに、エリーはきっと顎を上げた。
「そうね。逃げましょう。
お互いが、お互いの為に命を賭けましょう。」
これで、決まった。
決行は、明日の夜。
朝食のザクロを隠し持っておいて、吐血したふりをエリーにしてもらう。
治療も私に一任されているから、吐血の件だけ報告して、他の者がエリーと接触しないように気をつける。
あとは、エリーが亡くなってしまった、と報告して、死体置き場に運ぶ。
死体置き場には搬出口があるから、エリーはそこから逃げる。
私は、エリーを死亡させてしまった責任をとって、辞職して、エリーを連れて、人間界の外れまで逃げる。
そこには、兵士の誰にも担当されていない地域がある。そこには植物も生えていないという噂だ。
しかし、実際は人間たちが植林などをして、現在は楽園と呼ばれているらしい。
そこまで行けば、あとは私が正体を隠しながら、できるだけエリーと一緒にいればいい。
稚拙だろうか。
だが、何を今更。
エリーが名づけてくれなければ分かりもしなかった恋という感情も。
十分稚拙だ。
エリーに計画の全てを話し、何とか吐血するふりまでは上手くいった。
しかし、エリーの治療は医療班がやるという。
反対しても、聞き入れられなかった。
まずい。バレてしまっては、エリーの命が危ない。
私は、医療班に賄賂を渡し、出世させてやるから、と、囁いた。
すると、金に飢えている医療班は、案外すんなりと身を引いてくれた。
私は、エリーに搬出口までの行き方を教えると、少し眠るように言った。
このところ、ろくに寝ていないのか、エリーの目の下にはクマが目立っている。
数時間後、エリーの死亡、辞職の思いがあることを魔王様に報告した。
エリーのことは私が死体置き場まで運び、その足で城をあとにしろ。魔王様は、他人事のように言った。
私を辞職させることに、何の躊躇いもない。エリーの死にも、動揺しない。
魔王様は、慈悲深いのだろうか。
初めて、私は魔王様に不信感を抱いた。
私は、エリーを横たわらせ、死体置き場をあとにした。
正面玄関から左折して、壁沿いに進むと、搬出口だ。
私は、そこでエリーが出てくるのを待った。
見回りの兵士が来ないといいのだが。
数十分後、エリーが搬出口から這い出してきた。
体は他の女の血に塗れ、赤黒く染まっている。
良かった。これがエリーの血でないのならそれでいい。
「大丈夫か。エリー。
行こう。そろそろ見回りの時間だ。」
エリーは静かに微笑んだ。
私はエリーを抱えて塀を飛び越え、人間の住む国へと走った。
エリーの住む国を避け、ひたすらに楽園を目指した。
そこが、我々にとっての楽園となることを信じて。
サボテン。
雪の降らない冬。
時々鳴く鷹の声。
エリーを通して見ると、人間界がこんなに美しく見えるなんて。
不思議な感覚だ。でも、嫌ではない。心地よい。
まるで、エリーが優しく手を引いて導いてくれているような。
ちっとも、怖くないのだな。
エリーがそこにいるだけで。
楽園は、確かにあった。
しかし、人間はいない。
どういうことだろう。
ああそうか、人間は夜眠るのか……。
そっとエリーを降ろすと、エリーは寂しげに笑った。
「これで、私たちは自由になれるのね。」
エリーは、未だに信じ難い、という顔をしていた。
相変わらず、疑り深い性質だ。だけども、今は安心させてやれる。
規律なんて、いらなかったのかもしれない。
「大丈夫さ。エリー。
ここは楽園だ。私たちは自由になれるよ。
愛している。
これからも、ずっと。ね。」
「ええ。私も。」
エリーは、そう言って笑うと、そっと私に口づけた。
私の頭から、不安が少しずつ消えていくのを感じた。
温かい。このまま、こうしていたい。
いつまでも、はきっと無理だろう。
私は心配症だから、ずっと魔王の魔の手が迫るのを心配し続けて、エリーはそんな私に疑いの目を向けるだろうさ。
それはそれで、いいのかもしれない。
傍に、エリーがいるのなら。
空には淡い月が、砂のような星とともに私たちを照らしていた。