煙々羅の恋
オスのラブラドール・レトリーバー。
ハルは、私の親友だった。
ハルは、私が小学校2年生の頃、従兄弟の家から貰われた犬だ。
その日、ちょうど私は遠足に行っていて、家に帰ってきた時、大きな異物が入ってきたように思えた。
寝転がる、金色の毛玉。
とても、可愛いとは思えない。
そもそも私は、動物がどうも苦手で、受けつけなかった。
それは、人も例外ではない。口下手だった私には、放課後一緒に遊ぶ友達などいなかった。
どうやら母はその役をハルにやらせようと思ったらしい。
最初はお互い距離を置いていた。
しかし、私は散歩やら餌やりやらをしなくてはならない。
餌をやると、犬は懐く。ハルも例外ではない。
懐いた犬は、予想よりも可愛いものだ。
家に帰ってくれば、私に駆け寄ってくる。撫でれば犬なのに猫のような声を出す。そして、私の心の機微を察知し、いつも励ましてくれる。
私は、ハルが望むことは出来るだけ叶えてあげたし、惜しみない愛情を注いだ。
ハルは、私の全てだった。
それなのに。
私は、その日もその場にいなかった。
風邪で寝込んでいた私の代わりに、母がハルの散歩をしてくれた日のことだ。
退屈になって漫画を読んでいた私は、ドア越しの物音にも、呑気に構えていた。
えらく母は慌てているな、そのくらいだった。
暫くすると、車のエンジン音が聞こえ、私は上体を起こした。
母が車を運転するのは珍しい。何かあったのだろうか。
しかし、熱で火照った頭では、まともな想像はできなかった。
キキィー。
古めかしいエンジン音がして、車が止まった。
鍵の音、ドアを閉める音、廊下を駆ける音。
そして。
「綾。あのね、ハルが……。」
死んじゃったの。
母は、かなり興奮していた。
それでも、必要なことは教えてくれた。
その時、私がどうしたかは覚えていない。
取り乱したのか、冷静だったのか。
そんなことより、未だに覚えていることがある。
こんな話をあなたにしても信じてくれないかもしれないが、そこは問題ではないのだ。
その日以来、私には、ありとあらゆる煙に、ハルが見えた。
車から吐き出される排気ガス、鰯を焼いている黒い煙。テレビに映ったSLの蒸気にさえも。
ハルがいる。私は、それだけで幸せだった。
このことは、今まで誰にも言っていない。馬鹿にされるに決まっているし、未だに本当にそれがハルなのか確証がもてないからだ。
そして、頑固な野球少年。
カズマは、私の恋人だった。
無口な私を気遣い、いつもクラスに馴染めるようにしてくれた。
カズマは、クラスの中心的人物で、いつも楽しげに笑っている。
カズマは、私の憧れだった。
カズマの周りはいつも賑やかで、音に溢れている。
カズマは、その真ん中で、いつも声を出して笑っていた。
そんなカズマは、本当は、楽しくないんだ。と、ある日の放課後、私に言った。
夕焼けが辺りをオレンジに染める、坂の上だった。
「僕の周りは、音で溢れている。
みんなの冗談。それに続く笑い声。
だけどね、僕は、それに耐えられない。
どうにも、騒々しく感じてしまう。」
カズマの悲しげな顔を見たのは、これが最初で最後だった。
「だから、君に惹かれたのかもしれない。」
カズマと私が付き合っているという噂は、すぐにクラス中に広まった。
カズマの周りは、さらに騒々しくなる。
カズマは、そんな時、いつも私に声をかけた。すると、周りは気を使ってどこかへ行く。カズマは、私とのぎこちない会話を楽しむ。
それで良かった。
その時のカズマの顔は、小さな笑みが浮かんでいて、とても美しい。
私は、そんなカズマの顔を見るのが好きだった。
ある夏の日、私はカズマと連れ立って、薄暗い帰り道を歩いていた。
私たちは、一緒に帰っても、あまり話さない。
それが、お互いにとって快適な音だったから。
とうとう、カズマと別れるところまで来てしまった。
何度もこの時は来るはずなのに、私は未だに慣れなかった。
この横断歩道を渡って、まっすぐ行くと僕の家だ。
付き合ってすぐの頃、カズマが教えてくれた。
横断歩道がなくなれば、いいのに。
何度思ったことか。
カズマは、それじゃあ、と言うと、片手を上げて、いつものように横断歩道を渡った。私はその背中を見送る。
ゴォー。キキィー。
居眠り運転だと、聞いている。
信号無視をした車が、カズマに突っ込んだ。
カズマの体は数メートル吹っ飛び、硬いコンクリートに叩き付けられた。
その時の記憶も、実はあまりない。
どうやら私が警察を呼んだらしいのだが。
キレイに抜け落ちているのだ。
醜いカズマを知らないのは、ある意味幸運かもしれない。
カズマの死は、学校だけでなく、全国に広まった。
トラック運転手の働きすぎという、的外れな専門家の話も、冷徹なメールでやってくるクラスメイトの同情も、耳にタコができるほど聞いた。
その言葉を何度聞けば、カズマは帰ってくるの。
私が無理を言ってもう少しカズマを引き留めたら、今も一緒にいられたの?
私といられて、カズマは幸せだったのだろうか。
私といたから、カズマはいなくなったんじゃないのか。
もっと、話上手で、美人な人なら。
カズマを助けられたんじゃないのか。
ごめんなさい。あなたの目に映ってしまって。
あなたに気づかれなければ。あなたを傷つけなかったのに。
煙の向こう側に立ってるみたいに半透明なマジックミラー越しに、あなたを見ているだけで充分だった。
なのに、欲してしまった。あなたがもう少し近づいてくれるのを。私に、光をくれるのを。
そうだ、煙。
私は思い出した。
カズマもハルのように、会いに来てくれないか、と。
私は、3日目の夕方、台所に顔を出した。母は、野菜炒めを作っている。
フライパンから立ち上る白い煙には、ハルと、その隣に寄り添うカズマの姿が浮かんでいた。
私の顔は、自然に綻んでいた。
もう、怖くない。
煙のカズマから、私に何かしてくることはないだろう。私もカズマに何もできない。もう、カズマを傷つけることはない。
私は、次の日から、学校へ通い出した。
カズマと一緒に歩いた道を辿りながら。
私はずっと道路を見て、排気ガスにふたりを探しては、自分を慰めてきた。ずっと。ずっと。
私は、高校を卒業してすぐ、車の免許をとった。
そして、レンタカーを借りて、排気ガスを見つめる。カズマの横顔を見ていたように。
幸せな時間だった。
こうしていつまでも、大好きなふたりと一緒にいられる。
ある時、その煙は、ハルでもカズマでもなかった。
ただ、何となく人の形のようなもの、に見える。
「ハルなの?」
それは首を横に振る。
「カズマ?」
もう1度首をこの横に振った。
じゃあ、あなたは何?
しかし、尋ねたくなかった。
ずっと縋っていたのに。今更、真実なんて、必要ない。
「ありがとう。」
私は、そのものにお礼を言った。
それは、もくもくと形を変えた。
ボクノコト、スキ?
それは、今にも消えてしまいそうで、儚いものだった。
私は迷った。
私が好きなのは、ハルであり、カズマだ。
それを言わなければ、あまりにもふたりが可哀想だと思った。
しかし、ここで本当のことを言えば、もうこの煙に、会えなくなるのではなかろうか。それは困る。
ハルとカズマがいない明日に、私がいるとも思えない。
それでも、私は。
「いいえ。私は、あなたが好きで、あなたを見ていたわけじゃないわ。
私が好きなのは、ハルとカズマだけなの。」
そう言わないと、ふたりも消えてしまいそうで怖かった。
何より、私のせいで、これ以上ふたりが傷つくのは嫌だった。
例え、そのためにこの煙が傷つくことになったとしても。私の独りよがりだったとしても。
いつの間にか人型に戻ったそれは、俯いて、消えた。
それからというもの、私には、ハルも、カズマも見えなくなった。
私は、間違えたのでしょうか?
彼に、嘘でも愛していると、伝えるべきだったのでしょうか?
教えて下さい。
私は、ハルとカズマに、もう1度会いたいのです。