キャット・シーの恋
私の名前は、テッドだ。
ご主人の元恋人の名前。
どうやら若い頃 喧嘩別れしたらしいが、今でもご主人は彼を愛しているようだ。
だからか、いくらご主人が愛情を込めて撫でてくれようとも、私は大して嬉しくない。
「テッド」と呼ぶ声も、他人を呼んでいるような気がしてならない。
私も、ご主人も、随分と年老いた。
私を撫でる手は骨張り、私を呼ぶ声はしゃがれている。
それでも、ご主人は、未だに元恋人とふたりで撮った写真を大切に持っている。
私も、最近は滅多に動かなくなったが、どうやら御伽噺のような力を手にいれたらしい。長生きしすぎたのだ。
その力は猫によって違ったが、私は無機物をすり抜ける力を持っていた。
夜になると私はおもむろに立ち上がり、壁をすり抜けて青白い夜の町を練り歩く。その間だけは、少しだけ若くいられた。
私もご主人も、そう永くはない。
化け猫の私は、朧月がしくしく泣いている夜、見てしまった。
ご主人の枕元にあった、藪医者の診断書を。
元飼い猫のノラが言っていた。
不治の病だ。
彼の飼い主も、この病で死んだのだ。
私には、病気を治す力はない。できるのは、壁をすり抜けることだけ。しかし、今までの恩を、なるたけ返したかった。
どうするべきかと、私は考えた。私に何が出来るだろうか?
暖炉の前で丸くなって考えても、良さそうな案は思いつかない。
「テッド、私ね、もう永くないの。
私が死んだら、あなたは誰にお世話してもらおうかしら。」
どうして。ご主人。
どうして、思い知らせるの。
どうして、諦めるの。
私を、あの日、助けてくれたじゃないか。
私とご主人が出会ったのは、町の外れの牧場だ。
まだ若かったご主人は、わざわざ車で牧場まで来て、卵や牛乳を買っていた。
私は、その牧場でネズミを捕って暮らしていたが、不景気で、牧場は潰れてしまった。
その跡地にやってきて、ご主人はこう言った。
「鳶色の毛に青い瞳。
何より、その優しそうな声。
あなたはまるでテッドのようだわ。」
おいで。一緒に帰りましょう。
彼女は私を抱き寄せ、車に乗り込んだ。
ご主人は助手席に座り、その膝の上に私はうずくまった。
運転席にいたのが、テッドだ。
テッドとご主人は、屋敷にふたりで暮らしていた。
私は、初めビリーと名づけられ、ふたりの愛を受けた。
ふたりは、確かに愛し合っている。ただの猫だった私にも、そのくらいはわかる。
しかし、ある雷のうるさい夜、ふたりの怒号が飛び交った。あの頃のふたりは、しょっちゅう喧嘩していた。
私は、このくらいの時期の恋人には良くあることだと思い、気にも留めなかった。
「もういい、俺は出ていく。
後から追ってきたって、知らないからな。」
「追いかけるつもりなんてないわ。」
ご主人とテッドは意地を張り、ご主人はひとりになった。
それから暫くは、私はビリーとしてご主人の愚痴を聞いていたが、いつしか、私はテッドになった。
私は、仲の良かった頃のテッドのようにご主人に寄り添い、支える。
それだけで、満足だった。
ご主人のいない生活なんて、想像すらできない。
私は、何とかご主人の病気を治す手だてを探した。
ひとつだけ馬鹿らしく思いついたのは、相変わらずのご奉仕だった。
ご主人に寄り添い、支える。
それが、私にできることだ。それだけが、私にできることだ。
ある夜。ご主人は寝入っていた。
そっと猫用の扉を開ける。月明かりで白く染まった街が待っている。
私は、夜の町を駆けた。
上手くいくかどうかは問題ではない。これで本当にご主人が喜ぶかが問題だった。
しかし、私は走った。
ご主人に、「やっぱりもう少し生きたい」と、言ってほしい。そのためなら、この体がどうなろうと構わない。
石畳を飛び跳ね、橋を渡り、壁をすり抜けて走った。
錆び付いた関節はとうに燃え上がっている。
もう、どう走ればどこにつくかも分からない。
ご主人は、あれ以来恋人を作らず、友達もいない。
そんなご主人と同じくらい、テッドは彼女を想っているだろうか?
赤茶けたレンガをすり抜けた時、答えがそこにあった。
私は気づかれないように逃げ出すと、ご主人の待つ家へと走った。
翌朝、ご主人は傷だらけの私を心配してくれた。
やっぱり、優しい人だ。もう、その優しさが、私に向かなくても構わない。
その夜。私は、ご主人の色褪せたスカートを引っ張った。
「あら、テッド。裾を引っ張っちゃだめよ。」
ご主人は諦めたような溜息を吐いて、私を叱っている。
注意が聞こえないふりをして、私はグイグイ引っ張った。
スカートが千切れないといいのだが。
「テッド……。私を、どこかへ連れて行きたいのね?」
玄関まで引っ張ったところで、ご主人は俯いた。
強い瞳だ。
私は頷くと、ご主人の冷えきった足にすり寄った。
ご主人が扉を開けたのを合図に、私は歩き出した。
実を言うと、正確に道を覚えているわけではない。
断片的な記憶を辿って、時々ご主人が着いてこれているか確認しながら、歩いた。
ご主人が外に出るのは久しぶりだ。食材は自宅の庭で育てた野菜と、親類から送られてくるお土産で事足りた。
ご主人は足が悪いわけではない。ただ、テッドと歩いた町を思い出したくないだけだろう。
ほんのりと甘い、ミルクの香り。他の野良猫の少し酸っぱい匂い。
ついつい足が向かってしまうのを我慢して、石畳をゆっくり歩いていく。
ご主人の顔は、少しずつ暗くなっている。やはり、無理に連れ出さない方が良かったのだろうか。
猫の私からしてみればかなりの距離だが、実際は案外そうでもないのかもしれない。
やがて、見慣れた壁が視界に入った。テッドの家だ。
彼の家からは、何の匂いもしない。不思議だ。
あの夜は、あんなに肉の香りがしたのに。
私は、玄関を探すと、ニャーニャー鳴いてご主人に入るよう促した。
いきなり知らない人の家を尋ねるなんて、迷惑じゃないかしら、と、初めは躊躇っていたが、やがて呼び鈴を押した。
その手は気の毒なほど震えていて、曲がった背中も痛々しい。
数秒のち、はい、という声がした。幾分かしゃがれているが、テッドの声だ。
ご主人は全てを悟り、引き返そうとしたが、もう扉は開かれた。
「ローズ?」
ご主人は、相当変わってしまった。
若々しい血色のいい肌は皺だらけで青白く、最先端だったファッションも、今やホコリを被っている。
それでも、分かったのだ。テッドは憎い男だ。
「テッド……。」
ご主人は、意を決したのか、名前を呼んだ。
「あの、テッ……ビリーが、連れてきてくれたの。」
「そうか……。会いたかったよ。
君のせいかは知らないけれど、僕はまだ独り身でね。」
ご主人とテッドは、会えなかった日々はまるでたった1日のことのように、再会した。
その声には、愛おしさが滲んでいた。
ああ、良かった。
そう思う反面、何か腑に落ちないものが、私の中に巣食っている。
何だか、ご主人を取られたような感じだ。
どうして。
ああ、そうか。
ご主人が何度も私に言った、
「愛しているわ。テッド。」
この言葉は、私へのものではない。
いつだってそうだ。
ご主人が愛しているのは、猫の「テッド」ではない。彼、人間の「テッド」なのだ。
何故、そんなことも忘れていたのだろう。
ふたりは、何度も愛を囁き、口づけあった。私には、それを見守るだけの堪え性はない。
きっと、私が居なくなっても、ご主人は気づかないだろう。
私は、そっと町の中心へと歩き始めた。
だけども。
ご主人。
時には、私が壁をすり抜けて、あなたを見つめることを、どうか許してくれないだろうか。