ガーゴイルの恋
※作中、差別的ともとれる言葉が登場しますが、特定の人物、団体を誹謗中傷する目的はありません。
表現の一部だと捉えて頂ければ幸いです。
ザッザッザッザッ。
人が砂を踏むような音がする。
砂?
おかしい。
私の家の近くに砂地はないはず。
それにこれは……。
磯の香り?
随分流されてきたらしい。
自分の起こした洪水でこうなるとは、
皮肉なものよ。
ザッザッザッ……。
足音が止まった。
「亀、じゃないなぁ。
何や、この生きもん……。」
頭上から女の声がする。
方言から察するに、やはり自分は海の方まで流されたようだ。
そういえば、息が苦しい。
どうやら砂に含まれる水分でどうにか持ち堪えている感じらしい。
「市場で売ったら高う売れそうや。
なんてかこつけたろかな……。
不老不死の薬?万能薬?
ぱっとせんなぁ。
んっ!そや!守り神!
守り神言うて売ったろ。
船乗りが信じて買うとこ浮かぶわぁ。」
女はしっしっしっと笑うと、自分の足を掴みあげた。
もう目を開く体力もない。
ええい、ままよ。
船乗りに売られるなら、海に逃げられる可能性がある。
それまで私が陸で生き延びられれば、だが。
「へぇい、らっしゃい!
こいつぁ、そんじょそこらの亀じゃあねぇよ。
なんとなんと、守り神様やぁ!
さあ、買った買った!
早いもん勝ちやぞ。」
一応女は自分を水槽に入れてくれた。
息が吸える。
人間にとっての空気と我々にとっての空気は違うのだ。
今日は改めて痛感した。
それにしても困ったことに、ここから逃げ出す方法が浮かばない。
自分は確かにただの亀ではない。
だが守り神かと聞かれればそれも違う。
自分はきまぐれに洪水を起こすのが趣味のものだ。
人は時々ガルグイユやガーゴイルと呼ぶが、それが自分かと言われるとよく分からない。
ただまあともかく、自分にできるのは周りの水をグルグルいわせて洪水を起こすことくらいだ。
水は流れを早めれば急速な力を生む。
量があればなおさらだ。
だが昔人にやられた名残で、もう水を吐く力はない。
例えこの水槽内の水に渦を生んでこの水槽を叩き割ったとしても、ただ死期が早まるだけだろう。
呼吸が出来なくなるのがオチだ。
川への帰り方も分からないのだし。
ひとまずここで静かに海に行けるのを待とう。
そうすれば川を遡ってホームタウンに帰れるに違いない。
しかしながら、自分を買おうという人は現れない。
こんな亀とワニのなりそこないのような形では、やはり無理なのかもしれない。
「売れんなぁ……。」
人の往来も少なくなり、もはや通りには誰もいなくなったところで、女は呟いた。
自分は水槽の中をくるくると泳ぎ回った。
特に意味は無い。
暇なのだ。
「おおっ!お客さん、どや、買ってかん?」
突然大きな声がしてふと通りを見ると、猫背でやせっぱちな人が通りかかっていた。
こちらに一瞥もくれない。
神仏に頼っている場合ではなさそうな雰囲気だ。
それでも、女は声を張り上げている。
自分は水槽の底に沈んでみた。
悪い奴ではないかもしれん。
一応水槽に入れてくれているわけだし、同じ人を品定めしない。
水槽越しに見れば、酸素の世界は屈折率の違いからか緩く曲がっている。
「誰も買うて行かんなあ……。」
女はそう言うと、露店を片付け始めた。
気づけば他のテントも片付け始めている。
どうやら市場は終わりの時間らしい。
自分は水槽の中でちゃぷちゃぷ揺られながら、橙色の生石灰レンガ道を運ばれていった。
どこへ行くのだろうか。
気がつけば妙な場所にいた時より、よっぽど怖いんだな。
経過が知れるというのは。
その辺に捨てられたら死んでしまうだろう。
この女の性質的にありえないかもしれないが、ふと自分の周りに水があるのを強く感じた。
周りの景色は刻刻と変わっていく。
人家がまばらになってきた。
太陽は自分たちを無視して沈んでいく。
コツッコツッと足音が響く。
そして止まった。
自分の耳に届いたのは、川のせせらぎ。
女は水槽を降ろし、そして静かに川に水と自分をあけた。
思わず振り返り、見上げる。
女の顔は昼間とは違い青白い。
月明かりのせいだと言えばそれまでだが。
「案外、本当にあなたは神様だったんかもね。」
女はそう言って自分の頭を撫でた。
鱗が乾いていく。
「昼間に来た乞食な、私の元恋人なん。
会わせてくれたんかな。
でも、もう会えん。
そんな人の幸せを願えるほど、強かないんやけどな。」
女はそう言い終えると、空の水槽を持ち上げて去って行った。
水槽の中にあった水はとっくに川の水にもまれて消えてしまった。
時々泡が浮かんでは消えていく。
自分はしばらく動けずにいた。
月が頭上に来た頃、ようやく川の上流を目指し始めた。
その時のことはよく覚えていない。
愛しい人と会えなくなっても、幸せを願えるか?
それは自分にも分からない。
ただ、時々また川の下流に行ってみたのだけど、終ぞその女に会うことはなかった。