グリフォンの恋
昔は金塊を守っていたが、今やどうでもいいことだ。
グリフォンはそう心の中で呟いた。
人間は現実主義に偏りすぎた。
誰も信じぬグリフォンは、もはや人の目には見えない。金塊はとうにない。
俺はようやく、自由になれたのかもしれん。
グリフォンは敵を屠るために使っていた羽を地面に叩きつけるかの勢いで振り下ろすと、空へと抱きかかえられた。
世界中を旅しよう。誰にも気づかれぬ体で。
グリフォンは空を滑るように飛んでいく。
それを見ていたのは、さそり座くらいであった。
グリフォンは東京のとある橋で羽休めしながら、ビルの光を乱反射する水面を見ていた。
たくさんの人がグリフォンをすり抜けて歩いていく。
俺はこのまま消えてしまうのかもしれない。
グリフォンはそう思って切なかった。
ビルの明かりが消えていく毎に、身を捩った。
俺はああはならんぞ、と。
「ああー。もう、サビ残なんか消えちまえー!」
かなりの大声で女性が叫びながら歩いてくる。
くたびれたスーツに身を固め、髪は綺麗に結ってこそいるが、あまり人に見せられる状態ではない。
泥酔しているのだ。
グリフォンは妙な人間もいるなと思いながら、また川に目をやった。
一日中飛んで疲れたので、今日はここで寝るのも悪くない。
「くそー!いつか絶対王子様がグリフォンに乗ってやってくるんだから。
白馬の王子のお姫様なんかより100倍幸せになってやる!」
名前を呼ばれてどきりとした。
女性はこちらに歩いてくる。
グリフォンは思わずそちらに目をやった。
「ああー!」
目が合ったその瞬間、女が叫んだ。
絡まった足で駆け寄ってくる。
まさか。いや、きっとすり抜けてどこかへ消えてしまう。
そう思って目を瞑った。
ぼふっ。
確かな感触が体に響く。
「はー。ふかふかだわー。」
女性は首の辺りに飛び込んでいる。
グリフォンは飛びのきそうになったが、なんとか抑えた。
敵意はなさそうだ。
グリフォンは初めなされるがままにしていたが、この現場を他の人間に見られるとまずいのではないかと慌てた。
他の人間からすれば、この女性は虚空で暴れているわけだ。
それは奇々怪々どころの騒ぎではない。
グリフォンは、酔っ払った人間を見たことがないのもあり、酷く慌てた。
前足でぐーっと押そうとすると、女性が大いびきをかいているのが聞こえた。
グリフォンは溜息を吐いて、彼女の所持品にカードのようなものがないか探した。
経験上、人間はカードに自分の居場所を書く性質がある。
くちばしと前足で女性のポケットをごそごそと探ると、社員証を見つけた。
その会社は災害対策のために、社員証の裏に住所や電話番号が書いてある。いわゆる防災頭巾のようなものだ。
グリフォンは慣れない日本語に苦戦しながらも、女性を乗せて飛んだ。
幸い日本には至る所に現在地を示す表示があるので、なんとか女性の住んでいるマンションに着くことが出来た。
入口は当然人間用だから、狭い。
俺が恩返しをできるのも、ここまでか。
グリフォンは諦観しながらも、もう1つの諦観の念が首をもたげた。
女性を乗せたまま、1歩、もう1歩踏み出してみる。
その翼がひっかかることはなかった。
今やグリフォンは、無機物にさえ忘れられているのだ。
グリフォンは溜息を吐きながら、女性の部屋番号を探した。
アラビア数字は世界共通なので、これには苦労しない。
303のドアをすり抜けようとすると、ガン!と夜の帳を引き裂くような音がした。
なんだなんだと再び首をマンションの廊下側に突き出し返すと、女性の頭が引っかかっている。
グリフォンはそんな事実に落ち込むとともに、心臓が暴れ始めた。
人間は脆い。
あんな風に強かに頭を打ったら、きっと死んでしまう。
グリフォンはその顔を見たが、そこからは相変わらず大いびきが聞こえるだけ。
女性は生きていた。
グリフォンはふぅっと溜息を吐いた。
グリフォンは再び女性のポケットを探った。
人間と―金塊を狙う強欲な者ばかりだったが―長いこと関わってきたのだ。人間の鍵を使って、扉を開けることなど造作もない。
残念ながら女性のポケットには鍵はなく、バッグを探ってようやく手に入れることができた。
くちばしと前足で鍵穴につっこみ、ゆっくりと回すと、ドアが開いた。
ドアを全開にし、今度は見守れるように、くちばしでくわえて部屋に入って行く。
女性はまだ起きない。
リビングに女性をそっと置き、その隣でグリフォンも寝た。
今日は酷く疲れた。
なに、この様子なら、しばらく目を覚まさないだろう―。
「うわあああ!寝坊じゃん!遅刻じゃん!
もういいや!休も!携帯けいた……。」
グリフォンは女性の悲鳴にも似た声で目を覚ました。そして、目を開けてみれば、震える女性と目が合った。
しまった。グリフォンは思ったが、もう遅い。
「やっばぁ!グリフォンじゃん!
とうとう私もお姫様に……!」
女性ははしゃいでしまっている。とはいえ会社に作ったしゃがれ声で連絡を入れるという文化的な行為を忘れてはいない。
女性はしげしげとグリフォンを眺め、再び抱きつく。
「はあー。で、王子様はどこ?」
グリフォンはいろんな感情が混ざった汗を流した。
呆れ、焦り、諦観。
王子様など、色んな意味でいるわけがない。
女性は家中をぐるぐる散策し、最後にまたリビングに戻ってくると、溜息を吐きながらグリフォンにぽふっともたれかかった。
「いるわけないよねー。」
グリフォンはぎくりとした。
今度こそ、消えてしまう気がする。
俺はいるんだ。ここに。ここにいるんだ。
「王子様なんて。」
女性はそう言ってずるずると首だけ起こして寝転がった。
グリフォンはほっと息を吐いた。
女性は、なぜかこれっぽっちもグリフォンの存在を疑わない。
これで、俺はまだこの世界にいられる。
女性は2人分のご飯を作ったし、グリフォンを洗ってドライヤーでふわっふわに乾かしもした。
眠る時はさすがにシングルベッドに入り切らず、
グリフォンはベッドにされた。
背中には確かに女性の体温がある。
心地よい。
彼女はすり抜けてどこかへ行ったりしない。
まだここにいていいと、思わせてくれる。
翌朝、今度はきっちりアラームの音で目を覚ました女性は、慌ただしく支度をしている。
朝食を摂り、顔を洗って、荒っぽく化粧をして、髪を結う。
そして。パチンと指を鳴らした。
「ねえ!私を会社まで乗せて行ってよ!
そしたら電車の時間気にしなくて済むし!
あ、できたら帰りも!
仕事終わったらアレに電話するから!」
そう言って白い固定電話を指さした。
グリフォンは嬉しそうにうなづいた。
女性がそれに気づくことはなかったが。
今、2人は東京の空で飛んでいる。
グリフォンは心の中で独りごちた。
この子が死ねば、俺も消えてしまうだろう。
でも、この子と心中するなら悪くないかもしれない。
この暖かい体温と一緒に、消えていけるなら。