立川千広のエトセトラ 二
寮の中ではほとんど一緒に近い僕と湊も、学校の中では基本的に別々になる。クラスも違うし、成績順に割り振られる合同授業も別。二クラス合同の体育だけは一緒なのだけれど。
あえてその方が授業に集中できるからいいのかもしれない。多分授業中でも、湊の姿を見ればそればかりが気になってしょうがないだろうから。
それに、クラスには別に親しい友人もいて、彼らとの時間も僕にとってはかけがえのないものだ。湊相手にはできない相談事も--つまりは、湊に関する恋愛相談--彼らに聞いてもらっている。
「それで? どうなのよ、噂の彼とは。何か進展はあった?」
休み時間になり、僕の席にやってきたゆうちゃんが単刀直入に尋ねてくる。
「相変わらずって感じかな。いつも通り、現状維持だよ」
「もう、アンタはカワイいんだから、もっとグイグイいったって大丈夫よ! 相手も健全な男なんだから体から落とすってのもアリよ」
相川雄二、生物学上は男である。見た目も普通の男にしか見えないのだけれど、本人曰わく、心は乙女らしい。クラスの全員が、その言動は乙女と言っていいのか疑問に思っているはずだけど、直接本人に言わないだけの良識は持ち合わせているようだ。
いや、一人だけ言いたいことをそのまま言ってくる人がいた。
「千広がそんな積極的なアタックできる訳ねーじゃん、雄二。っていうか、それただのビッチじゃね?」
野田卓也。髪が赤く、ピアスの穴も何個もあるという、湊以上に派手な外見で、何故かゆうちゃんの彼氏でもある人。あべこべな二人の馴れ初めは、ちょっと気になるところだ。
というか、今のは遠回しに僕もダメ出しされてなかっただろうか。
「ゆうちゃん、って呼びなさいって言ってるじゃないの! また躾られたいの?」
何をどう躾るんでしょうか。ちょっと聞くのが恐いです、お姉さん。
卓也も顔を真っ赤にして、それ以上は何も言えない所を見ると、二人の間でのイニシアチブはゆうちゃんが握っているようだ。
「まあ、襲っちゃいなさい、ってのは三割くらい冗談にしても、アンタの方からもっと近寄ってかないと、ノンケの壁なんて一生越えられないわよ? 卓也もそうだったけどね。アタシと卓也の体験、参考に聞いてみる?」
「俺のことは、別にいいんだよ! でも、確かに千広の顔で迫られたら、相手はドキッとするだろうな」
二人して、僕に一体どうしろと言うのだろう。確かに寮の部屋はある意味密室で、そういうコトを起こすのにはうってつけの場所だ。だけど、もし湊に拒否されて、あまつさえ気持ち悪いなんて思われたら、残りの半年は最悪なものになる。
もちろん僕だって健全な青少年だし、湊とのそういうコトをこっそり思い描くことだってある。昨夜だって……
と、この話は今は置いておこう。
「二人共、相手は同室なんだよ? もし失敗したら、残りの半年が地獄みたいになっちゃうよ」
「おバカね、ちょっと知恵を働かせなさいよ。あくまで最初はさりげなくを装うの、それこそ事故でしたって。お風呂上がりのきわどい姿を見せるとか、自分でするときにいつもより声を大きくして聞こえるようにするとか。向こうがムラムラしてくれば、後はこっちのもんよ。上目遣いで見てあげれば、理性なんてすぐに飛ぶんだから。ね?」
最後に卓也に同意を求めるゆうちゃん、つまりは二人の実体験なのだろうか。卓也の方はもう、どこか諦めた表情だ。
「まあ、千広の話を聞く限りじゃ、相手も少なからず好意は抱いてるみたいだしな、恋愛感情ではないにしても。よっぽど千広が無理やり襲ったりとかしない限りは、大丈夫じゃね?」
二人のその道の先輩がこう言うのなら、と僕も少しその気になってきた。うまく言いくるめられた訳では決してない、と思いたい。
「あと、いざヤるってなったら、まずはアンタがネコになりなさい? アンタがタチしてるのも想像できないけど」
「ネコ?」
何やら知らない用語が出てきた。さすがに動物の猫ではないだろう。
「つまりは、女役よ。卓也と同じ。で、タチが男役。アタシ達も最初は苦労したわね?」
「何、平然と恥ずかしいこと言ってるんだよ!」
次々と知られたくなかっただろうことを暴露されていく卓也は、とうとう机に顔をうずめてしまった。唯一耳の赤さだけが、卓也の羞恥心を物語っている。
卓也にもこんな一面があったのか、なんて僕はその様子をのんきに眺めていた。
*
放課後になり、帰り際の僕をゆうちゃんが呼び止めた。
「千広ちゃん、朝は勢いで色々言っちゃったけど、焦る必要はないのよ? 最終的に千広ちゃんが幸せになれれば、アタシも卓也もそれでいいんだから。アタシも今でこそこんなだけど、自分がゲイだって自覚した最初の頃はホントに悩んだのよね。その時はまだ小学生だったんだけど、周りから偏見の目で見られるんじゃないかとか、自分の言動が変じゃないかとかいちいち気になってたしね。でも、皆アタシに変わらず接してくれたし、卓也なんか--あっ、卓也とは幼なじみなのよ、で、卓也もゆうちゃんは可愛いよって言ってくれてたしね」
ゆうちゃんの過去の話。のろけ話も入っているけれど、これはゆうちゃんなりの僕へのエールだ。
「だから、千広ちゃんももっと強かになりなさい? 今の恋が全部じゃないし、何かあってもアタシ達がついてるから」
「ありがと、ゆうちゃん。やれるだけのことは全部やってみる」
ゆうちゃんが元気と勇気をくれて、僕の背中を押してくれた。だから、今度は僕がそれに応える番だ。
*
僕が寮の自室に帰ってくると、湊が既にリビングのソファに座っていた。
「ただいま、湊」
「おう、お帰り、千広」
「今日は帰ってくるの早いんだね」
「あ、ああ、ちょっとな」
いつもの湊らしくない、煮え切らない返事が続く。一体どうしたんだろう。
「どうしたの、考え事?」
湊が少し間を空けて、口を開いた。
「なあ、千広ってさ、……好きな奴とかいる?」
その言葉に僕はドキッとした。
「い、いるけど、急に、どうしたの?」
「俺さ、……告白しようと思うんだ、一組の牧野に。それで、千広からも何かアドバイス貰えないかなって」
「う、うん。……ごめん、ちょっと分かんないや」
僕は泣きそうになるのをこらえて、自分の部屋に駆け込んだ。
現実はそう甘くない、そんなことは分かりきってたつもりだったんだ。けど、このタイミングでだなんて、あまりに残酷で、あまりに切なすぎて。
湊は気を遣ってくれて、部屋に入ってこようとはしなかった。そのうち、夕食を食べに行ってしまって、部屋は僕一人だけになる。
最初は、湊なんか振られてしまえばいいのに、なんて理不尽な考えが頭に浮かんでいたけれど、それも長くは続かない。
どうしたって湊の顔が固く閉じた瞼の裏にちらついてくる。布団に顔をうずめた僕は、久しぶりに泣いた。
*
昨夜は結局、夕食も食べずにそのまま眠ってしまっていた。目が覚めたので時間を確認したけど、まだ午前三時半だ。辺りはもちろん真っ暗で、窓の外から微かに虫の声が聞こえてくる以外は何も聞こえない。
何かを食べたい気分じゃないけど、体だけは正直で、さっきから胃がきゅうきゅうと鳴って空腹を訴えかけてくる。明日に差し支えてもいけないから、と冷蔵庫を漁りに部屋を出た。
真っ暗なリビングの中を、壁を頼りにキッチンまで向かう。距離にすればなんてことないけど、今はやたらと遠くに感じてしまう。
冷蔵庫を開けると、中にラップに包まれた皿があるのが見えた。ラップを少しめくってみるとその正体が分かった。僕の好きなアサリとベーコンのペペロンチーノだ。湊が作り置きしておいてくれたのか。
レンジで温めて食べたけど、少し味気なかった。味付けはいつも通りなのだけれどやっぱりどこか物足りない。
食べた後のお皿とフォークを洗い終わって、ソファに腰を下ろした。ソファの上で体育座りになって膝を抱える。そのまま膝に頭を付けて体を丸めてみる。
一連の行動に特に意味なんて無い。ただ何かしら動いて気を紛らわせていないと、すぐに湊のことを思い出して涙が溢れそうになるのだ。昨日散々泣いたはずなのに、僕の涙はまだまだ枯れそうになかった。
湊が寝返りをうったのか、ベッドのきしむ音が聞こえてきた。ぼーっとしていた僕は、その音でハッと我に返った。
湊、僕はどうすればよかったんだろう。気持ちを伝えるのがただ遅すぎたのかな。
際限なく湊への想いが溢れてきて、それは涙となって頬を伝ってくる。そこに心の中の僕の醜い部分が語りかけてきた。
--今なら湊の寝込みを襲うチャンスだぞ、もし気付かれてもあいつは優しいからきっと許してくれる。他の誰かに奪われてしまうくらいなら、無理やりにでも自分が奪ってしまえばいいんだ--
確かに湊は寝起きが悪いし、一度コトを始めてしまえば、泣こうが喚こうがどうにでもできるだろう。寮は防音仕様だから他の部屋に気付かれることもない。
その醜い部分、嫉妬と独占欲と男としての情欲がごちゃ混ぜになった声は、的確に僕を追い詰めてくる。
--あいつが人に言いふらすことなんてないさ。信じていた親友に、しかも男に襲われたなんて、お人よしのあいつが言うと思うか?--
いつの間にか僕の足は一歩ずつ、湊の個室へと向かい始めていた。
個室の扉を静かに開ける。寝相の悪い湊が無防備な姿をこちらに晒していた。上に掛かっていた布団がはだけ、胸元までたくしあげられたジャージの間から、月明かりに照らされた白いお腹が浮かび上がっている。その様子にゴクリと喉が鳴る。
そのまま枕元に立ち、湊のあどけない寝顔を見つめた。ふと、湊の優しい笑顔を思い出す。
風邪を引いた僕を看病してくれた時、試験勉強で徹夜続きの僕にホットココアとサンドイッチを作ってきてくれた時、そして僕の悩み事に一番に気が付いてすぐに声を掛けてくれる時、いつも湊は心配そうな表情を見せて、それから優しい笑顔で僕を励ましてくれた。それを思い出して寸前で思いとどまった。
僕はどうしようもない馬鹿だ。湊を、そしてゆうちゃん達を裏切るところだった。
自責の念に駆られる僕に、頭の中の湊がそっと微笑んで頭を撫でてくれたような気がした。
「湊、ごめんね? 僕、ちゃんと向き合うから。振られると思うけど、いつかちゃんと想いを伝えるから……」
そっと耳元で囁いて、最後に髪に一回だけキスを落として、僕は湊の部屋を出た。
*
翌朝、僕は日が昇るまでソファで過ごした。段々と白んでゆく空は、さながら僕の心の中のようで。今まで心にかかっていたモヤモヤが太陽の光で霧散していくような気がする。
いつも通り、洗面を済ませたところに湊が起きてくる。
「湊、おはよう!」
「おはよう、千広。なんか昨日夢の中で千広が泣いてたんだよな、頭撫でてやったら泣き止んでニッコリ笑ったんだけどさ。それでばっちり目が覚めたよ。そう言えば千広、昨日は具合悪かったのか? 一応、夜食におまえの好きなペペロンチーノ作っといたけど、ちゃんと食ったか?」
やっぱり湊はこんなにも優しい。僕は思わず胸に頭を寄せてしまった。
湊は一瞬虚を突かれたみたいだったけれど、すぐに頭を優しく撫でてくれた。
「今日の千広は甘えん坊なのか? 何か悩みがあったら、俺に言えよ?」
「うん、今は大丈夫。僕もこれからはちゃんと湊の優しさに甘えることにするから」
普段の僕ならまず言わないような言葉に湊は目を丸くしている。僕は、昨日までなら絶対にできなかった質問をしてみた。
「湊、今日告白するの?」
「んー、確かに牧野のことなんかいいなって思ってたんだけど、本気になれるのかって聞かれたら分かんないんだよな。だから千広なら好きな人相手にどんな気持ちになるかって、昨日聞こうとしたんだけど」
「そうだったんだね。僕がどんな気持ちになってるか、教えてあげよっか?」
さりげなく現在進行形を使って伝えてみたけど、多分気付いてないだろう。
「おう、どんな感じ?」
「……心が暖かくなって、その人の隣に居られるだけで幸せで、その声も、仕草も、ちょっとした表情も、全部が愛おしい。って、こんな感じかな」
湊の目を真っ直ぐ見て、今僕が感じているありのままを言葉にした。
「そっか、千広の想いが通じるといいな」
湊は優しい笑顔を浮かべて、最後にもう一度僕の頭を撫でてくれた。