立川千広のエトセトラ 一
僕達が通う私立明星学園高校、そこに付属する学生寮の一日は朝の全体点呼から始まる。
海辺に程近い、閑静な住宅街の一角にある学園の周囲を緑に覆われた敷地、そこから北側の二車線道路を一本挟んだ所が男子寮の敷地だ。女子寮は学園を挟んだ反対側に有って、数年に一度は覗きに行こうとする猛者がいるらしいのだけど、先輩によれば成功例は未だにない。いずれも一週間の謹慎処分に終わったとのことだ。
窓から差し込む朝日が寝ている僕を優しく包み込んでくれる。時刻は六時半頃、買ってきた目覚まし時計にセットしてあるよりも三十分早く、徹夜明けでもない限りは大体この時間には自然と目が覚める。大自然の目覚ましといった感じだろうか。
ちなみに寮は四階建てなのだけれど、周囲に高い建物が無い分、最上階からは日の出も拝むことができるらしい。一年に一度は部屋の配置換えがあるから、いつかは四階の部屋に入れればいいなと思う。
寮のそれぞれの部屋の間取りは2LDKになっていて、それぞれの個室以外は共有スペースになっている。僕達の部屋の場合は、玄関側から見て手前が僕、奥が湊の個室だ。個室と言っても、元は一つの広めの洋室だったのを真ん中から分割しているだけで、天井近くは開放されている。だから、ちょっとした用事の時なんかは声を張り上げてそのまま隣に呼び掛けるだけ、ということもしばしばだ。
いつものように、僕が洗面所で歯を磨いて洗顔を済ませる頃になって、長めの栗色の髪をあちこちに跳ねさせた湊が起きてくる。寝起きの湊は低血圧気味で、テンションが非常に低い。それでも、僕がおはようと声を掛ければちゃんと返してくれる。たまにちゃんとした言葉になってない時もあるけれども、それも愛嬌の内だと思う。
湊に場所を譲って、自室で指定のジャージを羽織ったところで大きな欠伸を一つ。背を反らしてパキポキ音を慣らしていると、洗面所から朝シャン後のドライヤーの音と湊の少し調子外れな鼻歌が聞こえてきた。
それをBGMに、自室の窓を開けて新鮮な外の空気を取り込む。部屋に吹き込んでくる十月の朝の冷たい空気と一緒に仄かな潮の香りが漂ってきた。ここに来るまでは山の中の盆地で育った僕には、半年経った今でも新鮮に感じられる。深呼吸して潮風を肺一杯に吸い込めば、不思議と今日一日の活力がみなぎってきた。
どうやら湊も十分に髪を乾かしたようで、隣の部屋のドアが開く音がした。
「千広ー、今日はどっちの気分?」
「うーん、今日はいつものブラックがいいなー」
お互い壁越しに声を張り上げる。これは湊の朝の日課みたいなもので、点呼と学食での朝食を終えると湊がコーヒーか紅茶を淹れてくれるのだ。この日課のために湊は誰よりも早く朝食を済ませるくらいだ。
なんでも湊の実家は、元は小さな喫茶店だったのがお父さんの代で--地方限定だけども--チェーン展開することになり、テレビや観光雑誌で特集される程度には人気と知名度があるらしい。かくいう僕もその名前は聞いたことがあった。
湊はその跡継ぎとして修行中の身で、お父さんに、そのずぼらなところを直してこい、と--これまたストレートな表現だ--この寮に入れられたとのことだ。
そんな訳で、湊からすれば僕には毎日自身の修行に付き合ってもらっているという感覚なのだろう。最初の頃はチラチラと僕の顔色を窺っていたくらいだ。僕からすれば、湊が淹れてくれるなんてご褒美以外の何物でもないのだけれど。
その前に、今は全体点呼の集合場所に行かなきゃならない。
二人揃って部屋を後にして、階段を降りていく。他の友達や先輩方もちらほらと寮の前に集まっているみたいだ。
この寮では一○一号室に寮監の先生が家族で住み込み、残る一○二号室から四○四号室までの十五部屋に総勢三十人の生徒が暮らしている。そんな大所帯の寮が男女合わせて全部で十六棟、寮生だけで総勢五百人近くいる計算になる。
そこに百人とちょっとの通学生を合わせた六百二十六人が全校生徒というわけだ。街中にありながら寮生がほとんどというのも、寮教育を主体とするウチらしいといえばらしい。
寮の前に全員が集まった。時間もピッタリだ。
寮長の浜田先輩が各部屋毎に点呼を取っていき、最後に後方に控える寮監の東堂先生に、三寮異常ありませんと報告する。僕達は気を付けの姿勢で整列している状態だ。
「今朝は特に連絡事項はない。解散していいぞ」
東堂先生の言葉で、僕達は学園の敷地内の食堂に向かい始める。食堂の大きさは常識から考えれば中々のものだけど、それでも生徒全員を収容しきれないため、後付けで造られた、二階席というものまで存在する。移動が面倒くさいから僕が使ったことはない。
基本的に朝食は寮ごとに集まって食べるのが暗黙の了解だ。利用時の混雑を最小限に収めるため、というのがその理由。それに関しては、昼食時の食堂の様子を一度見ていただければすんなり理解できると思う。二階席があるのもそのためなのだ。
僕達三寮のメンバーは基本的に皆仲がいいから、こんなルールが無くても自然と集まる。‘みんな家族’が三寮に代々伝わるモットーなのは伊達じゃないのだ。
寮監の東堂先生とその奥さんが第二の両親、寮長の浜田先輩が長兄、以下は年功序列の可愛い弟達といったところだろうか。
浜田先輩が手を合わせて初めて、僕達三十人の朝食に手を付けることができる。最初こそちょっと面倒臭かったけど、僕はこういうの嫌いじゃない。
そういえば、以前浜田先輩に冗談半分でお兄ちゃんと呼び掛けてみたことがある。嬉しそうな顔を一瞬見せてからのデコピン、あれは絶対に照れ隠しだった。
そんなことはさておき、今日のメニューはこんがり焼いたバタートーストにふわふわのスクランブルエッグ、カリカリのベーコンとパプリカが色鮮やかなグリーンサラダ、それに紙パックの牛乳が付いてくる。グリーンサラダには各自好きなドレッシングを選べるけど、僕と湊は決まってシーザードレッシングだ。
一番好きなのは二人共フレンチドレッシングなんだけど、一番好きだから、と湊が自分でフレンチドレッシングを作っちゃったから、平日の学食ではシーザー、土日の自炊の時は湊のフレンチ、という風に分けるようにしているのだ。
先に食べ終えた湊が先輩方に会釈をして、食堂を後にする。食べ終わるタイミングは皆の自由だし、三寮のメンバーは湊の日課のことも知っているから咎めようとしたりはしない。それに、浜田先輩と他の二階のメンバーは皆、湊のコーヒーのファンでもある。
だから、人によっては前日の内にちゃっかり予約することもあるくらいだ。僕自身は心の中でちょっとだけ、湊のコーヒーを独占したいという気持ちもあったけど、予約を受けて嬉しそうな湊を見たら何も言えない。だから、ここは我慢だ。
僕も食べ終わったので、皆に一礼して食堂を後にした。寮では湊がコーヒーを準備しているはずだ。
*
自室に帰ると、湊が丁度コーヒーを淹れ始めたところだった。二人の好みに合わせて買った深煎りの豆は細挽きにしてある。挽いた後の見た目はグラニュー糖みたいな感じ。これを蒸らした後、一気にお湯を注いでやれば、苦味とコクの強いコーヒーが抽出されるとのことだ。確かメリタ式とかなんとか言っていた気がする。
「はいよ、お待ちどうさん」
「今日もありがと、湊」
コーヒー入りのマグカップを手渡され、一口流し込んだ。酸味が抑えられて、苦味が強いんだけれどコクもちゃんと感じられる。いつも通りの湊の味だ。
自然と顔が綻んでくる僕を見て、湊も満足げな表情を浮かべている。
「やっぱり一番好きだよ、湊のコーヒー」
それと湊のことも、と心の中でそっと付け加えてみる。
「そっか、……俺も、千広が喜んでくれるのが一番嬉しい」
そうやってうつむき加減に話すのは、湊が照れを隠すときの癖だ。コーヒーを淹れる時なんかの真剣な表情はとてもカッコいいけど、だからこそ、こういうちょっとした癖が可愛く見えてしょうがない。
湊も自分の分をカップに注いで、その風味を確かめている。一口、二口と味わってから、黙って頷いた。
後はひたすら、ただ無言でコーヒーの風味を楽しむだけだ。僕の好きな、湊との静かなひと時。
飲み終えた二人分のカップを僕が洗っている間、湊の方をチラッと見てみると付箋だらけの分厚いノートに何かを一生懸命書き込んでいるところだった。あれは湊が昔から使っているらしい研究ノートだ。満足げに頷きはしたもののまだまだ改良する部分はある、と色々なことを書いているらしい。
こっちに背を向けているけど、その顔は真剣なあの表情に違いない。正面から見るといつもドキドキしてくるあの表情。
報われない気持ちだと分かっているからこそ、今だけは独り占めしてもいいよね、と僕は洗い物に手を動かすのも忘れて、ただその背中を見つめ続けた。
「千広、早く洗い物終わらせないと遅刻するぞ? どうした、ぼーっとした顔して」
いつの間にこっちを振り向いたのか、湊が僕を怪訝な表情で見ていた。
確かに、カップ二個洗うだけのことにこんなに時間が掛かっていたら疑問に思うだろう。
「悩み事か? 俺でよかったら相談相手になるぞ?」
うん、実は湊のことが好きなんだけどどうしたらいいんだろう、なんて言える筈もなく。
「ううん、大丈夫。心配してくれてありがと」
そう返して、安心させようと笑みを浮かべた。今の僕は上手く笑えているんだろうか。
湊は、そっか、とだけ言って自室に引き返した。僕も早く洗い物を済ませて、制服に着替えなきゃならない。
*
僕と湊、それに同じ寮の一年生、高崎と山田は四人並んで、短い距離だけども学園までの道のりを登校中だ。高崎は文芸部、山田はバスケ部に入っていて、この四人が三寮に入ってきた一年生になる。大抵は二人で行動するのだけれど、今朝はちょうど寮の前で一緒になったのだ。
十月ともなれば風がそれなりに冷たく、かといって冬服に着替えるにはまだ早い。だから、他の大多数の生徒達と同じ様に、僕達もそれぞれセーターやカーディガンをワイシャツの上から羽織っている。僕と高崎と山田は学校指定の紺色のセーター、湊だけは一応‘華美すぎない’と校則で許可される範囲のクリーム色のカーディガンだ。
といっても、湊はカーディガンの前ボタンを一番上の一つしか留めてないし、そもそもネクタイや他の制服も大分着崩している。ちゃんと着ているのを見るのは生指部の朝の身だしなみチェックを通り抜けるときくらいだ。
まあ、ウチはそんなに校則も厳しくないからいいんだろうけど。それに、湊がちゃんと制服を着た姿を想像すると、なんかしっくりこない。僕も湊の不真面目な部分に大分毒されてきたということだろうか。
真面目一辺倒に生きてきた僕としては、こんな湊との出会いが、良くも悪くも新しい刺激になっているのは確かだ。もしこの学園に行かず湊に出会っていなかったら、今頃僕はどうしていたんだろう。
そこまで考えかけて、途中で辞めた。あの時もしも、っていう過去の仮定で物事を考えるのはあまり好きじゃない。それに、ここで湊に出会えて、湊に恋をした、今はこれで十分に幸せだ。
横目でそっと湊を見ると、山田のくりくりの坊主頭をぺちぺち叩いて、楽しそうにじゃれあっている。
せめてこの関係だけでも、ずっと続きますように。
恋に臆病な僕は、結局こんな願いしか立てられなかった。