卜部季武 ②
「まぁ、先程も軽く説明はしましたが、源家の『お姫さま』を御護りする家は、僕の卜部家、そして君の渡辺家の他に、坂田家と碓井家があります」
それから男は少し言い淀んで、本当は、もう一つ、五番目の家があることはあるのですが、こちらはちょっと理由ありで……と付け加えた。
「理由あり?」
まだ、よく事態をのみこめてはいない遥だったが、そんな言い方をされると、わからないなりに、何か気になる。
「まぁ、頭数にはちょっと入れられないってことで。それよりそれぞれの家は、一人ずつ、見鬼を『お役目』に就かせなければならない決まりなんですが────見鬼として顕在化するのは、非常〜に稀です。現在は、渡辺家を除く三つの家で、それぞれ一人ずつしかいません」
季武は空になった湯呑みを、手の中でくるくると回した。それからテーブルの上に両肘を乗せ、両手で顎を支える格好をとる。
「血というものが、だんだん薄くなってきてるんですかねぇ」
目を閉じて、何か物思いにでも耽るような物言いを、季武は、ほとんど溜め息に近い吐息にのせた。
「でも、わからないな。渡辺家には、もうすでに洸さんがいるはずでしょう?それが何で、結ちゃんが志願、なんて話になってるんです?」
「カタキ討ちのつもりなんでしょうねぇ、彼女にしてみたら」
しんとなった広い室内に、再び鹿威しの一打が響き渡る。
程なくして、もう一打。音高く、鳴り響いた。
「いやいや、別にやられたとか、亡くなったとか、そういうわけでは無いのです。ただ────その、行方不明、なんですよ」
言葉を失い、青ざめている遥に向かって季武が言う。
事も無げな口調は、少し遥の気に障った。もっとも、「化物退治」とやらを日常のことにしているらしいこの男にとっては、茶飯のことなのかもしれないけれど。
「行方…不明って、どういうことです?」
遥の口調が、少し尖っている。
「『敵』を倒しても、戻ってはこなかったんです。ひどい嵐の夜でしたけど、詳しい事情はわかりません。そもそも卜部家は、直接には戦闘に参加しませんから────って、やだなぁ、そんな表情、しないで下さいよ」
戦いには不参加と聞いて、とうとう目の前の男を訝しむ思いが、顔に出たらしい。
「僕の家は『占い』が専門でね。特殊な能力を使って、『鬼道』が開く場所と時間を特定するんです」
「鬼道?」
やはり、問わずにはいられない。
「そう。鬼道です。『見鬼』同様、読んで字のごとく『鬼の道』ですね」
どことなく自慢気に話しながら、季武は遥と視線を合わせた。
「百鬼夜行って、ご存知ですか?」
メガネの奥の、瞳が笑う。
百鬼夜行とは、確か鬼や妖怪の類いが、行列を作って夜の街を徘徊する────そんな現象ではなかっただろうか?そうだと思うが、遥には、あまり自信が無い。
目の前のメガネの奥の瞳は、益々その笑みを深くした。
「アレってね、実は京都特有の現象だって、知ってました?どういう理由か京都では、『境界』がぼやけるんです」
「境界が……ぼやける?」
「百鬼夜行とは、要するに、そういう現象なんですね。あっちの世界と我々の世界とは、例えて言うなら水溜まりの上澄みの部分と、底のほうに溜まった泥の部分みたいなものでね、同じ場所にありながらも、本来は、ちゃんと、しっかり分かれているものなんです」
それがなぜか、京都ではその『水たまり』が、たまに掻き回されるのだという。
「……」
「つまり、水と泥が混じり合った空間ができる」
季武が、いまや深刻な顔で話に聞き入っている遥の目の前に、右手の人差し指をピンと立てた。
「奴等は、そうやってこっちの世界に出てくるわけです。それを、我々は『鬼道が開く』と呼んでいるわけですね。そして、その出現場所や、日時を正確に予知できるのは卜部家の見鬼だけ、というわけで────要するに、我が家は色々と大事にされるわけです」
「予め迎え撃てれば、それだけで、かなり有利に動けますものね」
遥の言葉を皮肉と受け取ったか、季武は眉根を寄せて苦笑した。
「でも────なぜ、どうしてなんでしょう?」
何でしょうか?と、季武が微笑みながら遥に顔を近づけてきた。
遥が、イヤそうに少し距離をとる。
「なぜ、他の誰でもなく、『源家』の長女なんです?そうでなければならない理由が、何かあるんでしょうか?」
「え?ああ────遥くんは、渡辺の分家ですから知らないんですね。それはつまり……」
昔々────
今から、およそ千二百年くらい昔。
源家の先祖、源頼光は、当時の朝廷から、ある命を受けた。
大江山を棲み家とする、七十五体の「鬼」を退治よ、との命だ。
討伐隊は、わずかに六名。
まず筆頭である頼光自身と、そして渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武といった、時の武人たちがそれに続く。
彼等は当時、頼光お抱えの「四天王」として有名だったから、これは当然といえば当然の編成である。
そして残る一名は、藤原保昌という武人が埋めた。彼は、正確には公家の出身であって、武門の人間ではない。腕を見込まれての同行、となったようだ。
「鬼達がやっていたのは、主に人攫い(ひとさら)いでね。さらわれていたのは、高貴な家柄の、若い娘さん達ばかりでした」
そこでいったん言葉を切って、「グルメだったんですね」と、季武は笑って付け加えた。
かつて平安京に出没した鬼たちは、そのほとんどが人の肉を食らう食人鬼だった。
「今昔物語集」や「日本三代実録」には、そんな「人を喰う」鬼たちの事件が、数多く記録されている。
「ご先祖様たちの『鬼退治』については、御伽草子や大江山絵詞なんかが、必要以上に脚色して描いてくれてますから、ご存知ないようでしたら、そちらをどうぞ。肝心なのは、捕われていた姫君たちを助け出した、その後なのです」
奸計を用いて鬼を討ち取り、捕われの姫君たちを無事救出することに成功した一行は、意気揚々と京の都に凱旋した。しかし……
「どうしても身許のわからない姫が、一人だけ残りました」
季武が、言葉を切る。
室内に沈黙が降りてしまうと、ただっ広いぶんだけ、部屋の中には静寂が満ちた。その静けさが、風に揺れる隈笹のざわめきと、そして鹿威しの鳴く声を効果的に伝えてくるので、二人のいる客間は、時おり雰囲気過剰な空気に包まれる。
「髪は漆を溶いたかのように、黒く、艶やか。その肌は白雪。丹花の唇は、まさしく紅を引いたかのよう────と、卜部家の記録にはあります。その姫の美しさは、さながら天女の如し────だったとか」
謎の姫の外見的描写は、たった今、それを諳んじてみせた男自身の容姿にも当てはまるところが多かった。
季武に限らず、見鬼というのは「鬼」の心を掻き乱し、惑わすための手段として、美男美女の形質を持って生まれてくる場合が多い。
戦うにおいて、相手より少しでも優位な位置に立つためである。生物としての防衛本能が、より生存の確率を高めようと求めた結果である、と言えるかもしれない。
「おまけに、言葉がまったく通じませんでした。仕方が無いので、その娘はしばらく源家で預かることになったのです。ところが、その娘を預かることにしてからというもの、源家には『良い事』ばかりが起きるようになりました」
「良い事?」
「要するに、出世ですね。『貴族』が衰退し、『武士』が台頭してくるのも、この頃からですから」
季武の話では、その後、「謎の姫」の所在は様々な処へと移ったという。
「姫はやがて平家に奪われ、そしてまた、源氏の手へと戻り────一一九二作ろう鎌倉幕府の頼朝さんを経て、次は北条氏へと渡りました。まぁ、そんな具合で、教科書に載っているような方々の元を、転々としてきたわけです」
「つまり源家の現在の長女は、その『姫』の子孫なわけですか……」
「数えて、五十六代目────だったかな?七十年くらい前から、めでたく正当所有者と言っていい我々の手元に、戻ってきたのだと聞いてますよ」
ふと、遥の目が一枚の絵屏風に止まる。きらびやかな色彩の中で、幾人かの武人たちが奇怪な姿の化物を追い立てている。
「千年以上も前の謎の姫が何者だったかなんて、今となっては誰にもわかりません。鬼どもの姫だったのか、あるいは鬼どもも、何処からか手に入れてきただけだったのかもしれません。確実に言えることは、向こうが今だに『姫』を欲しがり、こちらはそれを渡したくない、ということです」
────それは、そうだ。
遥は納得の面持ちで、深く押し黙った。
考えてみれば、当り前の話である。千年前の、その「姫」が、例え真実に鬼たちの「姫」であったとしても、もはや現代では事情が違う。源家にしてみれば、やすやすと大事な娘を、化物に差し出せるわけがない。
「源家をはじめとする、五つの家の人間たちはね、信じ切っているんですよ」
「?……何をです?」
「娘がいなくなったら、家が傾き、没落するってね」
滑稽でしょう?と言って、季武はふふと笑った。