東の果ての、桜の国で ④
中庭の混乱に背を向けるようにしながら、源弥三郎は奇妙な旋律の歌を口ずさんでいた。歌いながら、ゆっくりとこの場を離れようとしている。
弥三郎の詠う歌は、夕闇の中を行き交う人々が、いつしか影絵のように夜の帳の中へと溶け込んでいってしまうのにも似て、弥三郎の口から出た途端、実際に「闇」と化して彼の周囲を取り囲んでゆくようだった。
それは呪歌の形をとった、他者に自分を認識させない「隠形」と呼ばれる呪術の一種であった。月の光も、その濃い闇の中までを照らし出してはいない。
その、纏いつかせた闇を貫くように、弥三郎に向かって一本の白刃が伸びる。
その攻撃をかわし、弥三郎は4メートル近くをジャンプし、真上にあった大木の枝の一本へと跳び移った。
「外したか」
アキオが高い舌打ちと共に、吐き捨てるように言う。
「よく、私を追って来れましたね……完璧に近い、隠形の術のはずだったんですけど」
弥三郎が持っている大通連の柄には、アキオが持っている小通連に付いている鈴と対になる、特殊な鈴が結わい付けられている。大通連と小通連が人の姿をとったとき、耳に付いているイヤリングの鈴が、それである。
小通連と大通連は、その「鈴」を通して、互いがどんなに離れていようと、それぞれの位置を把握できるのだ。
この「繋がり」がある限り、大通連を持つ弥三郎は、小通連を持つアキオからは逃れようが無い。もちろんアキオは、その理由を御丁寧に弥三郎に説明してやるほど、お人好しではない。
「その刀を、どこへ持っていくつもりだ?それは、巴一族の宝だ」
「人聞きの悪いことを」
と、木の上から弥三郎が鼻で嗤う。
「これは元々、1000年前の鬼である大嶽丸が打ったもの────つまりは、貴方が持つより私が持つのが相応しい、ということです。違いますか?」
「とりあえず、降りてきたらどうよ?いくら『闇歌』を口ずさんでみたところで、逃げられないのはわかっただろう?」
「ええ。ですから今、どうやって貴方を返り討ちにして差し上げましょうかと、思案しているところです」
余裕たっぷりに、弥三郎が笑う。
同じ性質の武器を手にしている以上、鬼になって若返り、怪力まで身につけた自分のほうが、はるかに有利だと確信している顔だ。
「よせよせ。考えるだけ無駄だ。しょせん『鬼』は、どう足掻いたところで人に退治されちまうもんさ」
アキオが言い終えると同時に、弥三郎の乗っている木の枝が、根本からバッサリと折れた。
傍目に折れたと見えただけで、正確には、鋭利な刃物で切断されたのである。
地面へと落下してゆく途中、難なく体勢を立て直して着地した弥三郎だったが、いきなりの攻撃に、多少、面喰らったようだった。
弥三郎は鬼の動体視力によって、自分を攻撃したのが巴アキオではないことを見抜いていた。
弥三郎は自分が持つ大通連を、あくまでも目の前の敵であるアキオに対してすぐにでも抜けるよう体勢をとりつつ、強張った表情で辺りの気配を窺う。
やがて、気付いたように目を剥いた視線の先には、鬼丸国綱を構えた渡辺洸がいた。
「渡辺家の見鬼か……何をした?」
「鬼丸国綱で、木の影を切りました。何かを斬れば、同時に、その対象の影だって斬れる。ちょっとしたコツで、その逆も可能です」
静かに、淡々と洸は答えた。
「……結びつきのある二つのものなら、一方に対して起きた事は、もう片方にも起きる。呪術の基本理論だな。だから丑の刻参りのワラ人形には、呪いたい人間の髪の毛を入れて、結びつきを持たせる」
弥三郎は、うわべほど平静を保ってはいない。
「闇歌」を口ずさみながら、誰にも気付かれずにこの場を立ち去ろうと考えていたのに、自分の前に、突如として2人の敵が立ちはだかったのだ。
しかも、この2人は未熟な10代の見鬼たちと違って、「鬼殺しの剣」の特性を理解し、使いこなしているように思える。
──────これだから、身内相手は……
小さな舌打ちと共に、弥三郎の顔つきが変わってゆく。
穏やかさをたたえる青年の顔から、鬼気を滲ませた、文字通りの鬼の顔へと。同時に、大通連が静かに抜かれた。
洸とアキオは軽く視線を交わし合うと、弥三郎の左右から斬りかかった。
2人同時にではなく、まず洸の鬼丸国綱が先んじる形で、弥三郎の大通連と刃を交える。二度ほど激しく火花を散らし合った後、いわゆる「鍔迫り合い」の形になった。
洸とアキオは、まず、弥三郎の持つ大通連を、洸の鬼丸国綱によって押さえ込んでしまうことにしたのだ。
その隙をついて、アキオが空かさず、弥三郎の首を狙って小通連で斬りかかってゆく。
「避けるなよ?せめて、優しく斬ってやるから」
鬼と化した者の強靭な身体を行動不能に至らしめるには、心臓を貫くか、首を落とすのが方法としては一番手っ取り早い。
決定的とも言うべき致命傷を与えない限り、鬼の体は、なかなか生命活動を停止しないからだ。
だが──────
「おひい!」
惜しい、と言ったつもりらしい。
弥三郎は小通連の斬撃を、歯でくわえることによって防いでいた。
一瞬、ポカンと口を開けてしまったアキオだったが、直様、素早く次の行動へと移った。
「小通連、行け!」
巴アキオの命に応じて、小通連の形態がグニャリと変化する。
巴一族が所有する妖刀が得意とする、「形態模写」だ。
1000年以上昔、大嶽丸という鬼が振るっていた妖刀は、様々な生物へと姿を変えて攻撃してくる変幻自在の刀だった。
切っ先から柄まで、およそ1メートルの白蛇へと姿を変えた小通連は、直様その身をくねらせ、弥三郎の口から、そのまま「体内」へと、スルリと入っていってしまった。
弥三郎は、喉を掻きむしりながら絶叫する。
怒りと驚愕の、断末魔のような叫びだ。




