坂ノ上学院、高校白書 ④
「あら源さん、ちょうどよかったわ」
廊下を歩いていた鈴子は、突然、初老の女教師に呼び止められた。
「今、時間ある?ちょっと、手伝ってもらえるかしら?」
女教師は、特に鈴子の返事を待とうとはせず、抜け目のないきびきびとした動作で、鈴子を職員室へと招き入れた。
「これね、前の授業であなたのクラスの生徒全員に提出させた宿題のノートなんだけれど、これを全部、皆に返しておいてもらいたいの。お願いできる?」
「は、はい……」
「本当、あなたに行き会えてよかったわ」
女教師の、どこか計算されたような和かな微笑みに、鈴子は、たじろぐように自分も微笑みを返した。
職員室を出た鈴子の足取りは、40冊ものノートを抱え込んでいるため、どこか少し覚束ない。そして予測できない事というのは、当然、予測できない時に起きてしまうのである。
廊下を20歩も行かないうちに、鈴子は、前方から喋りながら歩いてきた二人の女子生徒とぶつかってしまった。
派手に転倒して、抱えていたノートが廊下中に散らばる。
「あ、大丈夫?」
「ごめ~ん。私たち、次は体育でさ、着替えなくちゃなんないから────ごめんね」
屈託のない笑顔を浮かべながら、少女たちは足早に立ち去っていった。
「あの子、目立たないから全然わかんなかったね」
そんな言葉が、ひんやりとした廊下の空気に、思いのほか響く。
鈴子は黙って立ち上がると、散らばったノートを拾い上げはじめた。
「大丈夫だった?それにしても、これって日直の仕事とかじゃないの?」
いきなりかけられた声に、鈴子の手が一瞬止まった。
屋上に居づらくなって、何と無く校内をブラブラしていた遥は、ちょうど鈴子が二人の女子生徒とぶつかって転ぶところを目にし、声をかけたのだった。
鈴子のそばにしゃがみ込んで、自分も拾うのを手伝いはじめる。
「私、こういうの頼まれるの、イヤじゃないから……」
一冊一冊、丁寧に拾いながら、鈴子は弱々しく答えた。
「それにしたって、さっきのアイツら、ちゃんと謝りもしないで……」
遥は腹立たし気に、女子生徒たちの去っていった方向に、睨みつけるような一瞥を放った。
「いいの。私、ホントに目立たないから……」
「だからって、あんな態度、いいってことは無いだろ!」
腹立たしい思いが、つい鈴子に対して咎めるような口調をつくってしまう。
「ごめんね……」
泣きそうな顔で、鈴子が謝る。
「いや……君が悪いんじゃないし……」
遥は少し投げやりな口調で言うと、散らばったノートに、改めて手を付け始めた。
もしこれが皐月だったら、何と言われようと、断固としてぶつかった相手に拾わせているだろう。由良だって────
────いや、あいつの性格だと、多分、頼まれ事自体を引き受けないな……
そういえば、皐月といい、由良といい、一体どのくらい前から昨日のようなことを続けているのだろう……
ふと、そんなことが気になって訊いてみた。
「皐月ちゃんも由良くんも、一年くらい前からかな……皐月ちゃんのほうが、由良くんより、もう少し長いけど」
半分にしたノートを抱え込んで、二人は歩き出す。
「あ、ありがとう」
物怖じするように、鈴子が言った。
「そうだ、よくは知らないけど、もうすぐ『文化祭』っていう祭りがあるんだって?」
「え?ああ、『坂上祭』のこと?うん、そうだけど……」
鈴子が、小首を傾げた。
「渡辺君、もしかして文化祭がどんなものなのか、知らないの?」
「独逸の学校、そういうのが全然無かったからさ」
遥は、苦笑して言った。
遥のいたギムナジウムには、文化祭どころか、学校行事全般が一切なかった。
唯一、最上級生に上がれば修学旅行があったのだが、それを経験する前、遥は父親によって、それこそ否応無しに、この坂ノ上学院へと転入させられてしまったのだ。
「源さん、その文化祭の『実行委員』っての、やってみたら?」
「えぇっ⁉︎無理!無理です!」
鈴子は、また泣きそうになって否定した。突然何を言い出すのかと、仰天しきった顔だ。
「そんなことないって」
余計なお世話だということは、重々、承知の上である。
それでも、遥は鈴子に、何と無く何かをやらせてみたくなってしまった。朝の教室で、毎日毎日、一人ポツンと座っているなんて、彼女が好きでやっているとは思えなかったからだ。もし好きでやっているのだとしたら、あんなつまらなそうな顔なんて、してはいないはずだ。
「それの申請書ってやつを、まだ委員長が持ってると思うし」
「ヤダ!やめて!私、誰と、どんな話をしたらいいのかさえ、わかんないんだから!」
「何だっていいんだよ、話の内容なんて。どこかに行ったり、見たり、聞いたりしたこととか、何でも。そのうち慣れてくれば、自然に何かしら話してるもんだし」
「私っ!私、学校以外で家から出ることは禁じられているの!」
「────────え?」
遥は、思いのほか強い口調で発せられた鈴子の言葉をすぐには理解できなくて、見開いた目を、すぐには閉じられなかった。
「物心ついた時から、ずっと、そう。だから、私は皆と話せる話題そのものが無いの……」
明らかに引け目を感じているように、鈴子は遥のほうを見ないように話している。
「ちょっと待って!それって、何だかおかしくないか?」
それじゃまるで、監禁されているのと同じじゃないか。
「いいの。私が勝手に出歩いて、鬼道が開けば、大変な事になっちゃう。色々な人に迷惑がかかるし、それに────」
それにこれは、私自身を守るためでもあるから。
そう言って、鈴子は力無く笑った。
「でも鬼道が開く日時は、季武さんが完全に予知してくれるんだろ?だったら、ある意味安全ってことじゃないか」
「過去に一度だけ……季武さんが、ギリギリで予知したことがあったの。でも、その時は、洸さんが近くにいたから……」
「なんだよ、それ…卜部家は特別だとか何とか、自信満々だったくせに……」
サボってたんじゃないのか、と、舌打ちめいた呟きを洩らす。
「じゃあ、こっそり行くしか無いってわけか」
「え?」
「もう、この際だから今度の土曜日、どこかに行こう。どこがいい?」
「ちょっ、ちょっと待って!無理よ、出してもらえるわけが無いわ!」
「だから、こっそり行くんだって」
「でも……」
「誰が決めたか知らないけどさ、外出もさせないなんて、そんなの無茶苦茶じゃないか。本来、一番偉いのは君なんだぞ?」
「……」
「大丈夫、もし万が一の事が起きても、僕と、この童子切安綱で何とかする!」
鬼追いの守護者メンバー中、もっとも素人に近いのは自分だという初陣以来の自覚が、遥に、そんな気負うような言い方をさせた。
「遊園地……」
鈴子が、つぶやくように口にする。
「遊園地?」
「遊園地!私、一度でいいから行ってみたかった!」
鈴子が、堰を切ったように声を弾ませた。
「だって、遊園地ってお化けが出たり、お城にお姫様が住んでいたり、UFOが飛んだりするんでしょう?」
「え⁉︎」
「……ちがうの?」
────いや、日本の遊園地って、今、そうなのか?
お化けって、お化け屋敷のことか?UFOって何だ?
当然といえば当然だが、遥も日本の遊園地事情なんて、よくは知らない。
「ま、まぁ、行けば分かるから……」
「そうだよね!」
それから、鈴子は思わずはしゃいでしまった自分自身に気恥ずかしさを覚えて、気が付いたように下を向いた。
────こうして見ると、普通の子にしか見えないけどな……
所有している者に莫大な富をもたらしてきたという、正体不明の姫君の子孫。それを奪い返そうと、正体不明の生き物たちが、何処からともなくやって来る。
五つの家は、1000年間、それと戦い続けてきた。
だが、何だか少し、おかしくはないか?
彼女一人に犠牲を強いて、五つの家は、ただ、繁栄だけを享受しているように見える。
────この戦いは、本当に終わりにすることが出来ないのか?
教室に着くと、鈴子がまた、小さく「ありがとう」と言った。
ひょっとして、彼女の今の性格は、故意に植え付けられたものかもしれない……。
遥は、「渡辺一族」として生きてきたこれまでの自分自身に、かなり懐疑的な思いを抱きはじめていた。
とりあえず、このサブタイトルでの「学校編」は閉幕ということで、次話から舞台は移ります
読んで下さっている方達、どうかお付き合いのほど、宜しく御願い致します
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