坂ノ上学院、高校白書 ③
初秋の屋上は、まだ思いのほか陽射しが強かった。
風も、そして雲も、ほとんど無い。立ち昇る陽炎が、夏の残像のようにゆらゆらと揺れている。
影の落ちる場所に、遥と啓太は腰を下ろしていた。
「今日はお前の従兄弟、なかなか来ないじゃん」
手で、半分に割ったカレーパンの片方を食べ終えたところで、啓太が言った。
「今朝、ちょっと怒らせちゃったからなぁ~」
何気無く言いながら、遥は卵焼きとタコさんウィンナーを、二つ一緒に口の中に放り込んだ。
「はぁ?マジ?お前、いったい何やらかしたんだよ」
啓太が意外なほど喰いついてきたので、遥は少し返答に困った。まさか、子供────それも、一緒に化物退治をしてまわっている小学生に引っ掻き回されたなんて、とても言えない。
「しっかし、意外と怖いもの知らずだよなぁ、お前って」
「何が?」
「何がって────お前、ひょっとして知らないのかよ?」
「だから、何を?」
「渡辺結って言ったら、女子剣道最強────っていうか、男女ひっくるめて、剣道部最強だぞ?」
大袈裟だなぁ、と、遥は苦手なブロッコリーを、箸で弁当箱の横スミにどけた。
「そりゃあ、強いのは知ってるよ……けどさぁ…」
残された弁当箱のブロッコリーを暫し見つめて、結局はフタを閉じる。
「この学校で一番ってことは、要するに全国で一番ってことじゃないか。結ちゃんは、まだ一年生だぞ」
遥は屋上へと上がる途中に自販機で購入してきた珈琲牛乳に、ストローを挿した。
「うぷっ」と、啓太がワザとらしく顔を背ける。
彼は、ご飯に甘い飲み物という組み合わせが許せない質なのだ。
そんなことは知らない、とばかりに、遥は構わずストローに口をつける。
しかめっ面で横を向く啓太の視線の先には、いつも遥が持ち歩いている、長い、竿のようなものが立て掛けてあった。それは、いつも随分と古めかしい布で、グルグルに巻かれている。
そして、それはいきなり啓太の方へと、ガシャッと音を立てて倒れた。
遥が、さり気なく自分の傍らへと立て掛け直す。
「……その、若干15歳の一年生が、夏のインターハイを制したんだぞ?新聞にも載ったろ?────って、お前、その頃はまだ独逸か」
「まぁね」
遥は、残っていた珈琲牛乳を一気に飲み下した。
坂ノ上学院は、伝統的に武道、特に剣道が強い。そういえば、遥も転校時の挨拶で、校長室に幾つもの優勝旗やトロフィーが飾ってあるのを見た。
それでも、一年生で優勝してしまうような生徒は、ここでも流石に例外らしい。というか、歴代で何人かいるというのが信じられない。
「うちの男子剣道も、強いことは強いんだがな……。主将の升上は、全国3位だったから────その辺をやっかんで、奴が、いつだったか『女のくせに』みたいなことを言ったんだわ。それが発端となって、結ちゃんとアホ主将が、一対一の果し合いをすることになった」
「うわ、何それ?升上って奴、みっともねぇ」
「果し合いっつっても、ちゃんと審判も付けた試合形式さ。結果は結ちゃんの圧勝。大人と子供ほどの体格差がありながら、升上は、めった打ちだった」
「気の毒に」
遥は、しみじみと言った。
「それ以来、升上は今でもその一件を逆恨みしてるって話だからな。もしかしたら、そのうち従兄弟のお前の所にも、ちょっかいかけてくるかも」
「何だそれ?全然笑えないって。勘弁してくれよ!」
あまりにも深刻に慌てふためく遥を見て、啓太が本気で吹き出した。
「ところで、前から訊こう訊こうと思ってはいたんだけどよ」
啓太の口調が、改まる。
「ソレって、一体何なわけ?」
「────これか?」
遥は少しわざとらしく、啓太の目の前で童子切安綱を左右に揺らした。
「あ────ああ、竹刀だっけ、それ……何言ってんだ、俺」
「……」
「結ちゃん家、道場やってるもんな」
「今はちょっと事情があって、閉めてしまってるけどな」
遥は弱々しく微笑しながら、いくぶん歯切れ悪く言った。
皐月から教わった、見鬼の瞳が可能にする極めて強力な催眠術。遥は、自分の身近にいる事情を知らない人間たちに、必ずこれを施しておくよう、皐月にも季武にも念を押されていた。
言われたからやったし、それは多分、必要なことだと思う。
思うけれど、決して気持ちのいいものではなかった。
「あ……」
遥の横で、携帯が小刻みに震え出した。それを手に取り、耳に当てる。
「はい…え?今?屋上だけど……」
啓太は、遥の会話の様子にそれと無く聞き耳を立てながら、パンの入っていた袋をクシャクシャと丸めた。
「え?何で?…いや、別にいいけど……うん…うん…」
この後も何度か頷きを返して、遥は携帯を切った。
「誰からだったんだ?」
「委員長」
「げ……」
「すぐ、こっち来るって」
「何で⁉︎」
「それは、来て話すってさ」
「どっちにしろ、俺は関係無いわけだよな?だったら────」
退散させてもらう。
そう言い切る前に、屋上の扉が開いた。
どうやら、素子は走ってきたらしい。息を切らせ、肩を少し上下させながら、やがて遥を見つけると、同時に啓太の姿も認めて表情を引き締めた。
「何よ、アンタもいたわけ?」
「いたわけ」
悪かったな、とでも言いたげに、啓太は素子に一瞥を投げた。
「まぁ、いいわ。それより渡辺君、はい、コレ」
遥の目の前に、プリントされた一枚の書類が突きつけられた。
「……何?」
「生徒会への申請書」
「……」
「渡辺君、きみ、文化祭の実行委員やんなさい」
「無理」
「ダメ!こういうのは、積極的に参加したほうが絶対にいいんだから!」
「それはわかるけど」
「でしょ!渡辺君、まだ何となくクラスに溶け込めていないみたいだからさ、こういう機会を逃がしちゃダメよ!」
遥が軽く仰け反るくらい、素子は身を乗り出してきた。
「ごめん────せっかくの話だけどさ、ダメなんだ、俺」
埃を払いながら、遥は立ち上がった。啓太と委員長のほうを、なるべく見ないようにしているのが見え見えの動作だ。
「ホント、ごめん」
そう言い残して、遥はその場を後にした。階下へと降りてゆく階段の、重い鉄製の扉が開いて、そしてまた閉じる。
すぐに、啓太が口を開いた。
「フラれたな」
「う、うるさいなぁ」
「そんなに、アイツを源鈴子から遠ざけておきたいのか?」
「だって、もともと渡辺君は関係無かったわけでしょ?」
「まぁな。本来なら、例の坂田皐月と────あとは、まだガキだっつう碓井家の見鬼を相手にすればよかったはずなんだが……」
それにしても名門だな、渡辺家ってのは。層が厚い。もっとも────
分家のほうの力は、それほど大したもんでも無いらしい。と、啓太は思った。遥が使った見鬼の催眠は、自分には、まるで効果が無かった。
あるいは、啓太の内に流れる異形種の血が、見鬼の催眠術に対して防御体勢をとったのかもしれない。
啓太の家は、大昔から蠱術────要するに「虫」と結縁を結び、様々な異能力を発揮してきた一族の末裔だった。日本呪術界の、二大潮流の一翼を担う大家である。
「ねぇ、遠ざけておくのが無理なら、いっその事、全部話してしまわない?」
「は?何だそれ?」
啓太の顔が、皮肉っぽく歪んだ。
「渡辺洸は、渡辺君の従兄弟なわけでしょ?だったらさ────って、何がおかしいのよ?」
「こっち側に引き込みたいってか?無理無理、ああ見えて頑固だぜ?あの手のタイプは」
「じゃあアンタ、もし『やれ』と言われたら、渡辺君と戦うことが出来る?」
啓太は少し考えて、
「まさか、おっかなくて」
と言った。
「どうやら、アンタでもその辺は理解できてるみたいね」
安心したわ、と頷く素子に、頷きを返すように笑いかけながら、啓太は全身の肌が粟立つのを感じていた。
────おっかないのはアイツじゃなくて、アイツの持ってる刀だけどな
啓太は、遥の傍らにあった童子切安綱が、自然に見せかけて自ら倒れて、自分のことを斬ろうとしていたことに気付いていた。




