夏と秋の狭間で
翌日、水曜日の朝。
晴れていて、風が少しある。
九月も終わりが近いとはいえ、まだ夏の空気である。それでも、時おり木立ちを揺らしてゆく風には、秋という季節を感じさせる、気泡のような透明さがあった。
「やぁ」
遥が玄関の引き戸を開けると、外から待ち構えていたような声がかかった。
碓井由良だ。
遥と、明らかに同系のものとわかる制服を着用している。手に持っているのは、古びた布で何重にも梱包された古の刀剣、薄緑だ。
遥もそうだが、見鬼たちは自分の「鬼殺しの剣」を、いつでも肌身離さず持ち歩くよう、指示を受けている。どんな時に、どんな形で必要に迫られるか、判らないからだ。
「あれ?君の家からだと、ここは学校とは反対方向だろ?」
眠気の覚めやらぬ声で、遥が言った。
「ちょっと遥に話があってさ」
根強い残暑の光の中、幽かな笑みを、由良は唇の端に浮かべた。
そこに、ひたすら甘い、浮き立つような声が聞こえてきた。開け放したままの、玄関の奥からだ。
「遥ちゃん、お弁当、ちゃんと一番下にした?カバンの中で、横になったらダメなんだよ?」
甘い声の、語尾はわずかに伸びていた。
軽く頬を引きつらせた由良と、玄関から忙忙と出てきた結の、目と目が合う。瞬間、結は軽くスキップでもしているかのような足取りを、はたと止めた。
三人の間に、何とも言えない気まずい空気が流れる。
誰も、何も喋ろうとしないまま、沈黙が1分近く続いた。結が、あくまでも柔かに口を開く。
「ゆ、由良くんは、何でこんな時間、こんな所にいるのかな~?」
作り笑いが、かなり苦しい。見ていて、気の毒になるほどである。
「ちゃんと、まっすぐ学校へ向かわないとダメだぞ?」
と、さらに微笑む。だが、まったく成功していない。本人は、優しくニッコリと笑ったつもりである。
「うわぁ」
由良は一言小さく洩らすと、「行こうぜ」と、遥の手を引っ張った。
「ちょっと待ちなさいよ!遥ちゃんは、いつも私と一緒に学校行ってるんだから!」
「お前といると、その遥ちゃんはダメになる。いろいろな意味で」
由良は、遥を引く手に力を込めながら、悪い虫でも追い払うように言った。
「お、おい、お前の話ってのは、ここじゃダメなのか?」
「ダメだね。『部外者』には、聞かせられない話だしな」
断固とした口調である。
「この~」
従兄弟の手を引きながらスタスタと歩いてゆく由良の、その背中を見据えながら、結が、低く唸るように言った。その手が、ギュッと固く、握りコブシを作る。
「待ちなさいってば!」
張り上げられた声に、遥と由良が振り返った。遥のほうは驚いているが、由良のほうは、ただ、煩わし気に振り返っただけ、という感じだ。
結は、学校指定の竹刀袋に収まったままの竹刀────その切っ先部分を、由良へと向けていた。上気した頬に、うっすらと赤味がさしている。
「手を離しなさいよ!」
恫喝するには、不似合いなほど高い声。だが、激情に眉は吊り上がっている。
それを見て、由良が面白そうに唇の両端を吊り上げた。
「やる気?」
二人は、意外に冗談とは思えない視線を闘わせ合っている。
「ちょ、ちょっと待てって、何考えてんだ、二人とも!」
あわてて割って入った遥に、「だって遥ちゃん」「でも遥」と、二人は見事に名前の部分だけをハモらせた。
「とにかく、話があるなら後で聞くよ。それじゃダメなのか?」
由良に向かって、なだめるように遥が言う。その後ろで、わざと結が由良に見えるよう、勝ち誇ったように舌を出した。
「昨日、遥が濃厚に唇を吸われ(そうになっ)た相手────」
え?と、結の顔に険しさが差す。
「遥も、興味はあると思ったんだけどな」
無邪気な脅迫者。そんな顔で、由良は言った。
────な、何て言い方をする奴なんだ!第一、事実と違う
遥は青ざめながら由良を睨んだが、由良は遥と目も合わせない。
「何?どういうこと?」
と詰め寄る結に、遥は、心の中の叫びを声に出すことが出来ずに口ごもった。間髪を入れずに、由良がしたり顔で割って入る。
「コイツってば、昨日さぁ…」
「わかったよ、わかったから!」
これ以上、余計な事を喋られてはたまらない。だが、結は遥が、咄嗟に自分にではなく、由良におもねった事も気に入らなかった。
「ちょっと、遥ちゃんってば!」
「ごめん、今日は由良と行くことにするから、結ちゃんは先に行っててくれる?」
いかにも済まなそうに言われてしまうと、結としては、まるで立場が無い。
「そ、そう、そうなんだ……」
無理やり絞り出すかのような声と同様、体のほうも、小刻みに震えている。笑おう笑おうと努めているらしい表情が、遥には少し痛々しい。
「じゃあいいよ、勝手にすればっ!」
叫ぶように言い終えると、結は勢いよく制服のスカートをひるがえした。
肩を怒らせ、早足で進んでゆく従兄弟の後ろ姿を見送りながら、遥は、悩める者の表情で深く息を吐き出した。
「お前なぁ」
「何も、あんなに怒ることは無いと思わないか?」
面白そうに笑う由良を、遥は諦めきった目つきで見返した。
渡辺家の本宅から学校までは、およそ20分の行程である。距離にして、約3キロ弱。私立坂ノ上学院が近づくにつれて、松葉色を基調とした制服姿が目立ち始める。
坂ノ上学院、通称「坂学」は、本当に坂の上にあるため、生徒たちは、みな一様に前傾姿勢だ。
遥はそこの高等部、由良は、そこの初等部である。
「で、話って?」
「昨日、ちょっかいかけてきた連中さ……」
「ああ、あの何たら一族」
遥は、声をかけてくる何人かに挨拶を返しながら、昨日見た、よく似た二つの顔を頭に思い浮かべた。
「奴らについて、遥自身は、どう思っている?」
「どう、とか言われてもなぁ……」
巴家なるものについて、遥が知っている事など、昨夜、季武に聞いた内容が全てである。
「どうだ?僕と組んで、学校帰りにでも奴らのところに乗り込んでみないか?」
「却下」
「……一刀両断だな」
「どうせ、そんなところだろうと思ったよ。だいたい、元は協力関係にあったんだろ?だったら、争うよりも共闘の道を探ったほうが賢明だ」
「まったく、遥は本当に見かけ通りだよな」
由良が、気抜けしたように鼻で嗤う。
「……どういう意味だよ」
遥の表情が、不満気に歪んだ。
「甘いってこと」
「……」
「言われたの、初めてじゃないだろ?」
確かに、よく言われる言葉だった。取り繕ったところで、この少年には、すぐに看破されてしまいそうなので反論も出来ない。
「だいたい、元々は味方だとか何だとか、ぜんぶ季武が言った事じゃないか。直接、戦闘に参加しない奴の言う事なんか真に受けんなよ」
「実際は、違うっていうのか?」
「過去に協力関係にあったって言ってもさ、巴家がこっちの敵に回ったのは、今回が初めてじゃないんだぜ?」
「そうなのか?」
「碓井家の記録によると、昭和の初期ごろも敵対していたらしいから、ほんの80年くらい前も敵同士だったのさ」
昭和の初期頃といえば、日本が戦争を始めるか、始めないかぐらいの頃じゃないだろうか?
それにしても、10歳そこそこと思える少年の口から、80年も昔のことを「ほんの」と称されてしまうと、遥はどうにも、気後れした気分になってしまう。由良の頭の中には、碓井家千年の歴史とやらが、年表のように詰め込まれているのかもしれない。
「だからって、それをわざわざ、こちらから出向いていく理由にしなくたっていいだろ」
「それが甘いんだって。困るなぁ、そんなことでは」
由良は、ことさら厭うような表情を見せた。
「もともと渡辺家は、碓井、坂田、卜部を含めた、四つの家を統括するリーダー格なんだからさ」
「それなら言わせてもらうけど、わざわざ藪を突いて蛇を出すような真似…を────」
突然、遥は何かに思い至ったように、口をつぐんだ。
「どうした?考え直して、その気にでもなったのか?」
そう言いつつも、由良も何かに気が付いたように口を閉ざす。
二人が無言のまま顔を見合わせた、その時、創立以来150年を数えると言われる古めかしい鐘の音が、規則正しい音階を奏で始めた。朝のHR開始、五分前を告げる予鈴である。
「いいのか?鳴ってるぞ?」
「やばっ!」
二人が話し込んでいたのは、高等部の校舎の真ん前である。遥に、由良が付いてゆく形だったのだから当たり前だ。そのぶん遥には、まだ少しだけ時間的な余裕がある。だが由良の場合は、もう、走っても間に合うかどうかだ。
脱兎のごとく駆け出してゆく由良に、遥が声をかける。
「おい、方向違うぞ!」
「こっちでいいんだ、近道さ!」
自分の身長の、倍は優にあろうかという柵を器用に乗り越えながら、得意気に由良が答えた。そのせいか、運悪く柵越えを見咎められて、教師の居丈高な怒声が飛ぶ。
逃げる由良を見送りながら、遥も慌てて自分の教室へと走っていった。




