引きこもりのアリス
お気に入りの黒いマグカップ。
少し重いから腕に負担が掛かるかも知れないけれど、やっぱりお気に入りだから、と言う理由で愛用し続けている。
そのマグカップに注がれた珈琲に砂糖を入れた。
彼が珍しいものでも見るように私を見ながら目を見開いたが、それを無視して更にミルクを入れる。
カチャカチャと小さな音を立てて、黒い液体に白い渦を作り出す。
「珍しいな」
湯気の立つティーカップ片手にそう言った彼に、何が?なんて問う。
分かってるくせに私もなかなかに捻くれているようだ。
「いつもはブラックだろ」
そう言って私のマグカップを指差す彼。
「だって書き終わったし」
白い湯気を立てるマグカップに口をつけながら言い、視線を机の上へ投げる。
彼も私の視線を追って机の上を見た。
数分前まで荒れていた机の上には、まとめ上げられた原稿用紙がどん、と鎮座している。
数日後にある新人賞の締切。
その新人賞に投稿するための原稿はつい先程書き終わったばかりだった。
完成したそれをページ順に並べて、一息つくために珈琲を淹れたのだ。
彼は丁度珈琲を淹れている時に家まで訪ねてきて、上げたついでに紅茶を追加した。
私はあまり紅茶を飲まないけれど……。
彼はティーカップをテーブルに置くと、溜息を吐き出しながらネクタイを緩めた。
臙脂色のネクタイ。
目を細めながらそれを見ていると、彼が「本当に良かったの?」なんて問う。
じっ、と私を見る目に眉を寄せて「別に」と吐く。
彼が家に来るとどうにもペースが乱れる。
薄くなった黒い液体を見れば、歪んだ顔の私が映り込んだ。
「書くことだけが私の世界なら、高校に通う必要は最初からなかったんだよ」
未だに部屋の隅にかけられた制服を見つめる彼の目は、私を責めているようだった。
いや、もしかしたら私ではなく自分自身を責めているのかも知れない。
どちらにせよ、彼が気にすることはなにもないのに。
「決めたんだ。ずっと書き続けるって。物語の世界に生きて死ぬって決めたから、他のものは要らないよ」
その言葉はきっと、彼への拒絶も含まれる。
そして彼はそれを敏感に感じ取って、静かに目を伏せた。
だって欲しい世界は一つだから。
砂糖とミルクを入れたはずの珈琲が苦いのは、この空気が苦いからかも知れない。