二つの鈴
どうも隊内に間者が潜入るらしい…。
そんな噂が囁かれ始めたのは、文久三年も八月に入っての事だった。
無論、楠の耳にも否応なく『噂』は入ってくる。だが、この若者はまるで他人事の様に涼しい顔でいる。自分は絶対に尻尾を掴まれない、という絶対の自信があるからだった。
…むしろ、と楠は思う。
この壬生浪士組には自分の他に、長州から送り込まれた間者が何人か居るらしい。
らしい…というのも、岩塚から以前そう聞き及んだだけであり、実際誰と誰が自分と『同類』で、それが何人居るのかまでは教えられていない。その連中が早々に馬脚を現し、自分にまで累が及ぶ事の方を楠は怖れた。
岩塚からそう聞いた時、楠にしては珍しく語気を荒げたものだった。
『その方々は必要ありません。何なら私一人で、数名分の働きをしてみせます』
『そうは言っても、これも桂先生のご指示だからな』
その瞬間、楠の眼光が刃の如く鋭く一変し、突き刺す様に岩塚を睨みつけた。怒りで眉をそびえさせても、この若者の美しさは一片も損なわれはしなかった。むしろ、怒気すらもこの若者の美しさを彩る一色であるようだった。
『いい加減な事を。桂先生はこれまでの私の働きに全幅の信頼を寄せて下さっている。その先生が、私の他に…信頼する私以外に、別に間者を置けなどと下知される訳がない!』
楠は嫉妬したのだ。自分よりも手練れの間者を送り込まれ、桂の関心を奪われては堪ったものではない。
その考えが、この美し過ぎる若者を焦らせた。
こと桂に関しては、いっそ病的なほど思い込みが強過ぎる…岩塚は内心辟易しつつも楠の機嫌を取る様に、
『楠、お前は桂先生の優しさが分からんか?何もお前を信頼していないから別の間者を送り込んだ訳ではないのだ。むしろ、お前の身を案ずればこそ、だ。ずっと間者勤めを行っておれば気の休まる日はあるまい。たまに身を休ませる事も肝要ぞ?』
『私は桂先生の為なら、休息などは要りませぬ』
と、言いつつも楠は満更で無さげな表情になった。既に機嫌は治ったと見て取った岩塚は、内心胸を撫で下ろしたものだった。
…ともあれ、楠としては自分と『同類』の存在を気に掛けつつ、何食わぬ顔で壬生浪士組に席を置き、職務に精励する日々を送っていた。
そんな中、楠はある一人の男を知る事になる。その男の名は、荒木田 左馬之助 という。
荒木田は楠の後に浪士組に加入した男で、その容貌はまるで遥か源平合戦の頃の荒武者を思わせる偉丈夫であった。
『志一つで武士に成れるという、そんな旨い話しが有ると聞いて狐に化かされるを覚悟で参ったが…いやはや、こうも とんとん拍子で事が運ぶと本当に化かされている気がしてきたわい』
即採用されるや、荒木田は居並ぶ幹部連を前に、豪胆にもそう嘯いて大笑したものだった。
荒木田は入隊して早々に『国事探偵方』という役職を拝命している。その豪傑然とした風貌と才腕有り気なところを買われてだろう。いわば即戦力と見込まれた訳であり、隊の雑用係としてしか採用されなかった楠とは雲泥の差であろう。
最近、その荒木田とよく視線がぶつかる。見られる事には楠は馴れている。だが、荒木田のそれは、楠の美貌に思わず意識を奪われた視線とも、日坂部の様に衆道を嗜む連中の 絡みつく様な粘っこい視線とも違っていた。
だが、荒木田は楠に何も話し掛けない。ただ意味有り気な笑いを残して立ち去るのが常だった。暇さえあれば他の隊士らの談笑の輪にずかずかと押し入り、景気の良い攘夷論をぶちまけている この男にすれば奇妙ですらあった。
そんなある日、楠は またしても屯所の廊下で荒木田に出くわした。
荒木田は、その巌の様な面構えとは裏腹に、なかなかの洒落者だった。この日も粋な色合いの着流しを嫌味無く着こなしている。
小柄な楠からすれば、巨躯を誇る荒木田とは親子ほどの身の丈の差がある。まるで眼前に鉄塔がそびえ立った様な錯覚を覚えつつ、楠は一礼し、さっと荒木田の脇を通り過ぎようとした、その時、
『…つれないではないか』
岩石でも構わず握り潰しそうな荒木田の手が、がしり、と楠のか細い肩を掴む。
『な、何か御用でしょうか?』
楠は半ば演技、半ば本気で恐怖する風を装った。そんな楠に、ククッと荒木田は例の薄笑いをちらつかせ、
『何か御用…とは、これまた つれない台詞だ。我等は同じ穴の狢。そう袖にする事もなかろうて』
楠の切れ長の瞳に警戒の灯が燈るも、荒木田はそれを見て益々 愉快そうに笑い、
『案ずるな、俺もお前と同じ「鈴」の一人だ。少し話しが有るゆえ、暫し付き合って貰おうか』