疑惑の芽
七月も終わりに差し掛かった ある日、局長たる近藤の部屋に二人の男が詰めていた。
『…では、取り逃した訳か?』
口火を切ったのは土方である。長州派の不逞浪士らが会合するとの情報を事前に掴んでおり、つい先程その捕縛に隊士らを向かわせたのだが、結局無駄足に終わった、との報告を今まさに受けている最中であった。
そう言われ、土方と対座するもう一人の男は、ただ無言で頭を下げた。
この男の名は、永倉 新八 という。松前藩出身の永倉は、近藤や土方らとは違って歴とした武門の出自を持っている。
かねてより武者修行に出て自分の腕を天下に試したい、との希望を無視し続けた藩の上役らと押し問答の末に、飛び出す様にして脱藩。各地を流浪した後に江戸で近藤らと出会い、試衛館の食客の一人となった。その流れで原田らと同様に京に上り、今は壬生浪士組の幹部に名を連ねている。
無論、この永倉も腕は立つ。神道無念流を極め、中肉中背で近藤と体格がよく似ているが、繰り出すその剛剣の凄まじさは近藤のそれを凌ぐであろう。
その永倉は、やおら頭を上げ、
『お聞き苦しい事とは承知なれど、一言、敗者の弁を申し上げたい』
上座の近藤は固く目を閉じ、腕組みしたままで事の次第を聞く格好である。代わりに土方が永倉の次の言葉を促す。
『敵は、事前に我等の行動を察知していた節があります。包囲した上で取り逃がすならともかく、最初から目的の場所に集まっておらぬのでは如何とも…』
『我等の動きが筒抜けになっていた…つまり、我々の中の誰かが隊の機密を敵に流していたから失敗した…と、永倉君は言いたい訳だ』
土方の言い様に、流石に永倉も不快になった。この永倉も、かつて自藩と大喧嘩の末に脱藩したほどの男だから、一筋縄でゆく様な男ではない。
『副長が何をお望みか知らぬが、さしたる根拠も無く同僚を貶めるが如き事を、某は言いたくありませぬ』
永倉は土方を睨み据え、そう言い切って後は黙り込んでしまった。
『永倉君の言う通りだ。歳さん、滅多な事を口にするもんじゃない』
険悪な空気が張り詰める中、ここでようやく近藤が腕を解き、誰にとっての救いになったか分からないが、ともあれ助け舟を出した。
『共に幕府の為に働こうと誓い、同じ釜の飯を食ってきた同志を私はいたずらに疑いたくはない』
『だがよ、近藤さん…これで三度目だぜ?』
なおも食い下がる土方を近藤は手で制し、
『単なる偶然だろう。確かに不逞浪士どもを取り逃したのは惜しいが、それをもって隊に裏切り者が居る、などと勘繰るのはいささか早計ではないか』
お人好しにも程がある、と土方は内心罵った。寝首を掻かれる寸前に、その事に気付いては遅いのだ。
土方は自身の部屋に戻るや、すぐに沖田を呼んだ。
『ははぁ、なるほど』
土方から事のあらましを聞くと、この青年には近藤、土方、永倉の三人が如何な顔付きで、どう受け答えしたのか、その情景がありありと脳裏に浮かぶらしい。くすっ と悪戯っ子ぽく笑い、
『御三方とも江戸に居た頃と、ちっとも お変わり無い様で』
『総司、笑い事ではないぞ』
分かってます、と沖田は笑いを収め、
『しかし無類のお人好しの近藤先生だからこそ、私も土方さんもこうして付いて行ってる訳ですから』
沖田の言う通り、近藤が無闇やたらに疑い深く、度量狭い男だったなら初めから盟主になど仰いでいない。
『それに、そういう時の為にこそ、人の悪い誰かさんが、近藤先生の脇に付いてるんでしょう?』
にやり と沖田は土方に笑いかける。土方もまた、何食わぬ顔付きで、
『そうだ、俺とお前がな』
と、さらりと沖田の言を微修正してみせた。沖田が何やら納得いかぬ表情になるも土方は構わず、
『総司、俺の読みでは隊に間違いなく間者が居やがる。近藤さんが思わぬしっぺ返しを喰らわねぇように、お前も目ぇ光らせとけ』
あくまでも土方の『勘』である。だが、沖田はこういう時の土方の勘は、神仏のお告げよりも遥かに当たる事を知っている。
『承知しましたよ』と、人の悪い相棒は静かに頷くのだった。
楠は『木曾屋』の一件以来、約束通り原田が市中巡察に出向く際に連れ出されている。
それは構わないが、楠を屯所から連れ出す際、まるで猫の子の様に、後ろ衿を引っ掴んで連れ出すのには大いに閉口したが。
楠が京の町に出るや、その美形ぶりに目を奪われぬ者は居なかった。町娘は無論、『その道』に興味の無い男衆までもが楠の持つ、その際どい美々しさに思わず振り返る。
だが、当の楠からすれば、幾千の視線を独り占めしようが、そんな事はどうでもよかった。彼の関心は、今も変わらず唯一人に向けられている。
巡察の途中、不意に楠は立ち止まった。思わず怪訝そうな顔になる原田に楠は青白い顔を見せ、
『す、すいません。どこか厠を借りてきてもいいでしょうか?』
『チッ、先行ってるから、直ぐに追いつけよ』
渋々そう言う原田に頭を下げるや、すかさず楠は路地裏に姿を消した。
一見、迷路の様な路地裏を進むと、予定通りそこに岩塚が待っていた。
楠は岩塚へとすっと近付き、手慣れた仕草で浪士組で知り得た情報を伝える。回を増す毎に楠の間者ぶりは驚くほど板に付いてきており、しかも掴んでくる情報は悉く正確だった。
『ご苦労だった。これは桂先生からだ。引き続き宜しく頼む、との仰せだったぞ』
例によって岩塚は僅かばかりの金子を渡し、桂からの労いの言葉とやらを楠に伝えて去っていく。
楠は若干、虚しさを感じない事もない。彼がこうして命懸けで間者勤めをしているのも、総て桂の存在を愛おしく思えばこそであり、桂に自身の存在を喜んで欲しいからに他ならない。
金など要らない…ただ一度でいいから、私にそのお顔を見せてくれて、労いの言葉を下さるだけでいい。
叶わぬ望みであると知りつつ、楠は天を仰いでそう嘆息するのだった。