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夢維霧錯  作者:
6/8

姦計

『あンの野郎、元気が無ぇな』


そう原田が訝しんだほど、この日の楠はいつに増して口数が少なく、青白い顔をしていた。


『どうした?どこぞのジジィに可愛がってもらえるンじゃあなかったのか?』


よほど思い詰めた表情になっているのだろう。原田が悪い冗談を飛ばすが、その裏にはしっかりと楠への気遣いが隠されている事を見抜けぬ程、楠は鈍では無い。



『…そうですね、原田さんとなら何時でもいいですよ』


『じ、じっ…冗談じゃねぇ!』



怖気がする、と吐き捨てて逃げ去る原田の背に薄い微笑みを送りつつ、楠は内心、血が飛び散るほど頭を掻き毟りたくなる衝動を必死で抑えていた。



自分とした事が…うめく様な思いで楠は居る。



長州の間者である事が露見すれば、まず命は無いだろう。だが、この奇妙な若者は間者として処刑される事よりも、桂の役に立てず、失望される事の方が身震いする程恐ろしかった。




やがて陽が暮れ、約束の刻限が近付いてきた。



相手が何者かは知らないが、楠としては約束の『木曾屋』に出向く他に手段は無い。そのまま身投げしかねないほど切羽詰まった顔付きのまま、楠は屯所を出た。途中、原田とすれ違い声を掛けられたが、完全に上の空である。



楠を間者と見破りつつ、それを例えば副長の土方などに知らせずにこうして楠に接近してくる以上、相手も腹中に何事か秘めるものがあるのだろう。



蛇が出るか鬼が出るか、楠が覚悟を決めて目的の場所に辿り着くと、見るからに怪しげな佇まいの店が在った。



『出会い茶屋』…男と女が人目を憚り、世間から隔離された一室で秘め事を繰り広げる場所。木曾屋はそういう『場所』の一つであった。


思わずたじろぐ楠を前に、それを予測していたかの様に店から男が出てきて、



『楠はん、ですな。お連れさんがお待ちですよって。ささ、どうぞ中に』


と、楠の肩を抱くようにして中に連れ込んだ。



頼りなさそうな薄明かりの中を進み、やがて放り込まれる様にその部屋に通された。青暗い光の下、楠は不安を隠しも出来ずに部屋の中を見回す…。





不意に楠の背中越しに男の腕が伸び、あがらう楠の身体を捉える様に抱き抱える。



『…っ!止めて、止めて下さいっ!』


力任せに押し倒され、それでも身体をよじって仰向けになると、薄明かりの中で男の顔を見た。



楠より後に隊に入った日坂部という、冴えない中年男の顔が楠の瞳に写っている。



『こっ…こんな真似をして、恥ずかしく…ないんですかっ!』


『へへっ、何を言いやがる。おめぇだって、その気で来たんだろうが』


楠は必死で抵抗するが、腕力では日坂部に及ぶべくも無い。たちまち両腕を抑えつけられ、



『あの文に書いてた通りさ。俺は昨日、見たんだぜ?』



思わず楠の鼓動が高まる。日坂部は、熟柿の様な臭いを口元から漏れ落としつつ楠の顔へと擦り寄り、



『おめぇ、男に金貰ってたな?あの男に買われてたんだろう』



その瞬間、楠の端整な唇だけが皮肉っぽい笑みを作った。



どうやら取り越し苦労であったらしい。昨日、楠が岩塚から金子を受け取ったのを見て、金欲しさに身体を売っているもの、と日坂部は勘違いしている様だった。



日坂部はそんな楠の笑みを見て、またも勘違いをした。身売りしている事実を知られ、開き直って日坂部を素直に『受け入れる』気になった、と勝手に思い込んでいる。



『へへっ、素直に抱かれりゃあ、隊には黙っててやるからよ』




…やれやれ、だな。



やがて楠が抵抗を止めると、日坂部は貪る様にして楠の若い身体にその身を寄せる。だが、夢中になった日坂部は気付いていない。



楠の美しい切れ長の瞳が、にわかに冷たい光を宿し始めた事に…。



そして、いつの間にかその手に匕首あいくちが握られている事に!



楠は息一つ乱さず、日坂部に悟られぬ様にゆっくりと匕首あいくちの刃を抜き放とうとした、



『おい!』


楠に乗っかかっていた日坂部の体が、勢いよく後ろに吹き飛んでいた。


暗い部屋だが、顔を見ずとも楠には声で分かる。紛れも無い原田 左之助の声だった。


力任せに楠から引き離し、というより壁に軽々と叩きつけて原田は日坂部を見下ろし笑いかける。



『日坂部…俺ァ腹を斬る作法にかけちゃあ、隊で一番詳しいぜ?…少なくとも生きてる奴の中では一番、な』



原田は笑ってはいるが、その両眼には烈火の如き怒りが燃え上がっている。



『日坂部、俺が教えてやるから、ひとつ習ってみるか?』



日坂部は心から震え上がり、這々の態で逃げ出した。その後を鋭く睨み据え、忌々しそうに舌打ちして原田は楠へと振り返った。


楠は先の騒動の最中、原田の目を盗んで素早く匕首を隠している。そうとは知らぬ原田は、



『お楽しみの最中、邪魔したンなら悪かったな』


『…原田さん』


どこまでも弱々しく、哀れな声を搾り出す楠にも、原田は複雑な怒りを覚えた。


『だいたい、テメェが女みてぇにナヨナヨしてやがるから、日坂部なんぞに付け込まれるンだっ!』


この場所ではあまりに無粋な怒号を轟かせ、原田は楠を睨みつける。


ふと、原田の脳裏に沖田から言われた言葉がよぎる。





楠君だって、武士になりたくて浪士組に入ったはず…。



チッ、と今一つ舌打ちをして原田は楠に背を向け、



『明日っからの巡察にテメェも連れて行く。斬り死にしたくなきゃ、今から気合い入れとけ!』



そう言い放ち、原田は部屋を後にして行った。


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