監視者
その日、楠は非番であった。
彼は、これから一人の男に会いに行こうとしている。だが、ふらふらと屯所の門をくぐる楠の姿を見て、この男が実は長州の間者で、これから仲間に繋ぎを取りに行く…などと想像すら出来なかったろう。
寂れた山寺の一角で、男は楠を待っていた。
『…誰にも尾行られてはおらんな?』
楠は こくり、と可愛く頷いてみせる。
この男…岩塚は桂の側近の一人であり、浪士組に潜入した楠と桂とを結ぶ、いわば繋ぎ役であった。
『それで、奴らの動向はどうだ?』
そう問われた途端、楠の表情が白刃の如く怜悧なものに一変する。
『今のところ、大きな動きは有りません。ただ、近く島原界隈で隊の宴席を開く様です。暫くは島原に近付かない方が賢明かと』
『なるほど…承知した』
それからニ、三の質問を楠に投げかけ、その答えを得ると岩塚は楠の、女の様にきめ細やかな手を取って紙包みを握らせた。握った感触で、それに包まれているのが小判だと嫌でも分かる。
『どんな事でも構わん。何か動きがあれば直ぐに知らせろ』
楠の耳元で囁く様に岩塚は告げる。
そのまま、人目を憚る様にその場を立ち去ろうとする岩塚の背を楠は呼び止め、
『あ、あの…桂先生は私の働きぶりを、どう見ておられるのでしょうか?』
恋煩いの乙女でも、ここまで憐れな声色を出すまい…楠が歴とした男であるのを知っているだけに岩塚などは妙にやり切れない気分になる。
『ああ、すまん。言い忘れていたが、桂さんもお前の働きぶりには大変満足している。これからも宜しく頼む、と言っておられたぞ』
その途端、楠はその両目どころか顔中を輝かせた。その一言は楠にとって、何にも勝る褒美であったに違いない。
恋は盲目…と言う。事実は残酷ながら、先の言葉は桂の口から実際に発せられておらず、単に岩塚がその場凌ぎで創作した作り事であるのだが、楠はそうと疑ってすらいなかった。
岩塚の見るところ、この妖しげな美貌の若者は、天性の間者である。その秘めた素質に当の本人すら気付いていない。
ともあれ長州藩の為に、引いては岩塚自身の栄達の為に、楠の『素質』を十二分に引き出し、役立てねばならない。その為ならば『嘘も方便』である。
『猫を飼い馴らすには、まず餌は何を好むかを知れ、か』
遥かに矮小ながら、これも『政治』の一つであろう。そんな事を思いつつ岩塚が振り向いた時には、既に楠の姿は無い。背に羽でも付いたかの如く、弾んだ足取りで元来た坂道を駆け下っていた。
だが、浮かれ切った楠は気付いていない。そんな彼の姿を、物陰から見つめる一つの目があった事に…。
その翌日、楠は自身に宛てられた一通の書き文を見つけた。
差出人の名は何処にも記されていない。不審に思う楠を前に、
『おうおう、色男、また恋文かよ?クックッ、今度はどこの男に好かれたンだ?』
目ざとく気付いた原田など、そう言って茶化したものだった。隊にも衆道を好む者が居る。そうした手合いからすれば楠などは絶好の獲物なのだろう。
『ちっ、違いますっ!』
『照れるな照れるな、せいぜい脂ぎったジジィに可愛がってもらえよ』
そう言ってさも愉快そうに笑う原田を振り切り、楠は厠に飛び込むと急いで鍵をかけ、文を取り出した。
もしや、桂先生直々のお褒めの手紙かも…昨日の岩塚の言葉を鵜呑みにしたままの楠には、そんな発想しか浮んでこなかった。
だが、その文面を見開いた瞬間、楠は絶句した。
昨日の一部始終を見届けた。他の者に喋って欲しくなければ、今日の暮れ五つ、木曾屋に来られたし。
不覚にも昨日の岩塚とのやり取りを、隊の誰かに見られていたのだ!
急に血の気が引き、夏なのにうすら寒さすら感じていた。