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夢維霧錯  作者:
1/8

間者 小十郎

長州藩の若き指導者たる桂 小五郎は諸事、姿勢の良い男だった。


その端整な顔立ちに加え、所作の全てが礼に適っている。一見しただけで生まれ育ちの良さを感じさせるに充分だったろう。

桂は自身の部屋で、ある男を待っていた。無論、誰に見られている訳でもないのに、まるで背中に物差しでも入れられたかの如く、きちり、と居住まいを正して座している。生来の性分であろう。


ふと、部屋の外から彼の名を呼ぶ声が聞こえた。


『…入りたまえ』


遠慮がちに障子が開くや、一人の若者が桂に向けて深々と平伏している。


『遠慮は無用だ。さあ入りなさい。そこにいては話も出来ぬではないか』


桂の優しい言葉に、ようやく男は面を上げた。その表情の美しさに、思わず桂は息を飲む。



女でも、ここまでの美形はそう居まい…、と桂は内心思う。



桂とて、座敷に揚がれば芸妓たちに騒がれる美男ではあるが、この若者の美しさの前ではそれもかすむだろう。人智の及ばざる美、とでも評すべきであった。



この美しすぎる若者は、『十助』と呼ばれていた。


この京の長州屋敷に奉公人として勤めている、という位で詳しい氏素性はおろか、出自すら誰も知らない。その謎めいた過去すら、彼の美貌を際立てる、一種の装飾品代わりになっていた。


重ねて桂が席に着く様に要求し、十助はやっと桂と正面から向かい合う。桂の視線を受けて、まるで年頃の乙女の如く、その長い睫毛を伏せ恥じらって見せたのには流石に閉口したが。


『十助、君は幾つになった?』


『…今年で十七の歳を迎えました』


声も女性の様に物優しく、それでいてはかなげである。


『そうか、なれば君も長州藩の、いや、この日本の為に身命を賭する覚悟は出来ている、と見てもよいか?』


十助は、こくり、とその細首を頷かせた。とろける様な十助の視線が、桂のそれと絡み合おうとするたび、桂は巧みに目を反らして逃げる。


『私は桂先生を尊敬しております。その先生がお命じになられる事なら何なりと』


多分に『尊敬』以外の好意的要素が以前から桂に向けられているのだが、桂はあえてそれに気付かぬ風を装い、


壬生狼みぶろ、という連中を知っているか』


十助も、三ヶ月ほど前から突如としてこの京に現れた、物騒極まる連中の噂を聞いている。京の治安維持を謳いつつ、その実、会津藩の尖兵となって反幕府派とみるや問答無用で斬り捨てている、という。


桂ら長州藩としても忌避すべき連中であった。


『私は壬生狼とやらを怖れはしない。だが、他藩の連中の様に、その存在をあなどりもしない』


この辺が、桂をして『逃げの小五郎』と異名を取らしめた所以ゆえんであろう。彼は、その身に害を及ぼさんとする存在に対しては、決して過小な評価を与えず、むしろ臆病過ぎるほどに警戒した。


『下手に噛み付かれぬ為にも、その動きを事前に察知出来れば重畳だが、相手は山犬の様な連中だ。猫の首輪に鈴をつける様にはゆかぬだろうが…』



桂は卓絶した論客であり、言葉を巧みに用い、相手に自身の意図する所を悟らせるのが上手い。そして十助もまた、察しの良い男だった。


『先生は私に、狼どもの首輪に付ける鈴になれ…と、そう仰りたいのですね』


『そういうことだ。君には我が藩の間者として、壬生浪士組に潜入して貰いたい。私の頼みとはそれだよ』




そう言い切った後、桂は暫しの沈黙を挟み、


『これは君が思っている以上に危険な仕事だ。命の保証は出来ない。君はまだ若いゆえ、断っても構わない』


十助は即座にかぶりを振ると、未だ残る前髪がゆらゆらと波をつくった。


『危険は承知しております。ただ私は、先生のお役に立てる事を喜ぶのみです』


この若者にとって、ただ一にもニにも桂への敬慕の情があるのみだった。そこから外れれば、国事はおろか自身の命脈すら眼中に入らないに違いない。


桂は無言で一つ頷くと、懐から財布を取り出し、静かに十助の前へと押しやった。


『十両ぐらいは入っていると思う。些少さしょうだが、支度金に充てなさい』


十助はその視線を目前に置かれた財布と、桂の顔の間とで忙しく往復させている。そんな十助にさらに桂は物優しく笑いかけ、


『金に困った時は遠慮なく言いなさい。この任にある間は、金に不自由はさせない』


が、そんな桂の度量ある申し出も、我を忘れるほど有頂天になった十助の耳には既に届いていない。


無論、『金』が嬉しかったのでは無い。自身に示してくれた桂の優しさが、天に舞い上がるほどに嬉しかった。



『…それと、間者となる以上、名を変えねばならんな』


桂の財布を愛おしげに胸に抱く十助は、その格好のままで暫く思案する風だったが、



『もし、お赦し頂けるなら、楠 小十郎、と名乗りたく思います』



『桂 小五郎』にあやかっての名乗りである事は、明敏な桂には直ぐに分かった。だが、それを拒否する理由は差し当たって無かった。


『了解した。我ら長州藩の為、この日本の為に尽力して貰いたい。期待している』


未だ名残惜しそうな…まるで思いびととの別離を惜しむかの様な十助、いや小十郎を言葉巧みに部屋から下がらせ、ようやく桂は一息ついた。



同じ畳の上で居る間中、あの若者はさり気なさを装いつつ、大胆不敵にもずっと桂を誘惑していた。別に桂には衆道の趣味は無いが、あのどぎつい色気にあてられ続けていたら…と思うと我事ながら笑い話に出来ない。



あるいは、あの若者は、桂などの想像を越える難物であるのかも知れなかった。



その小十郎は、いざ準備に取り掛かるとなると素早かった。


桂から貰った支度金で大小の刀を買い揃え、前髪も落とし、いつの間にか匂い立つ様な若侍に変貌している。


その迅速さには桂ほどの男をして、内心舌を巻かせていた。





…かくしてここに長州間者『楠 小十郎』が誕生した。



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