吸血鬼と常備食の日常
「お腹すいた……」
ぎゅるぎゅるとお腹がなり、私は花を売りながらため息をついた。
父は最初からいない。母は最近天国に旅立った。そんな中で弟達を食べさせる為のお金を稼ぐのは何と大変な事かと天を仰ぐ。
花売りの仕事では、育ち盛りの子供を食べさせるには満足行くだけのお金がなかなか入らなかった。一体母はどうやって私達を育てる為のお金を稼いでいたのか。謎だ。
「やっぱり身売りしかないのかしら」
できれば娼婦は最後の手段にしたいと思っていた。
もしも娼婦になったとしても自分のような肉付が悪く、地味顔のみすぼらしい娘は、いい値が付かないからだ。そうすると仕事もきつくなり、病気を貰ってしまう事が多い。娼婦は病気になると川などに捨てられてしまうと聞く。
まあそれも自分の運命だと思って受け入れる覚悟はあるが、もしもそうなったら弟達の事はどうするのだと言う話だ。彼らはまだ幼く働きに出る事もできない。だとしたら彼らが働ける年齢になるまでは意地でも生き抜くか、何処かに預けられる場所を探さなければいけない。弟を無事に育てること。それが死んだ母との約束だから。
「少しでも美人に見せて、高給取りになれないものかしら」
ガラスに顔を写してみるが、地味顔はやっぱり地味顔だった。
「とりあえず、花を売らないと」
私は自分に叱咤すると、もう一度花を売る為に笑顔を作り頑張って声をかけていく。
しばらくして籠の中の花は何とか売り切る事ができた。これで今日も食事にありつく事が出来る。
ほっとしながら帰り道を歩いていると、脇道から物音が聞こえた。何の気なしに、ふとそちらを見て、私は体を硬直させた。
偶然見てしまったそれが、女性と男性が抱き合っているラブシーンだったからではない。女性の首に男性が噛みついていて、更に女性が生きているようには感じなかったからだ。
とっさに浮かんだのは吸血鬼という言葉。
母親から昔聞かされていた。この国には人間の血を吸う吸血鬼という名の種族が居て、彼らは人と良く似た姿をしていると。
男が私に気が付いた瞬間、私は走った。母は言った。吸血鬼は危険だから、見かけたらとにかく逃げなさいと。
恐怖で足がもつれそうになるけれど、必死に私は動かした。止まれば私の人生も止まる。でも、それじゃ困る。
走って、走って、走って。
「キャッ」
私は誰かとぶつかってしまい尻餅をついた。
「す、すみません」
目の前に見えるのは、高級そうな靴。マズイ、貴族か。
一難去って、また一難な事態に、私は地面におでこを擦り付ける勢いで謝った。しかし、後ろかっら誰かが近づいてくる足音に固まる。
まさか、撒ききれなかった?
どうする、私。
顔を上げて確認したいけれど、それができない。どうか、違っていて欲しい。でも、でも。ぞわぞわと背筋に寒気が走るのだ。
「お願いです。逃げて下さいっ!」
顔を上げないまま、私は叫んだだ。アイツに目をつけられてしまったのは私のミスだ。他人を巻き込んでいいはずがない。
貴族なんて私達の言葉を聞かないけれど、今だけはどうか聞いて欲しいと私は祈る。
「ふん。誇りを忘れるほどに血に溺れたか」
冷たい男の声が頭の上から聞こえると同時に発砲音が聞こえた。鼻を擽るのは、硝煙の臭い。続いて断末魔の叫びと重いものが地面へ崩れる音が耳に届く。
何が起こったかは分からなかった。
分からなかったけれど、背後に死体が転がっている想像が頭に浮かぶ。
「すまなかったね、お嬢さん」
恐怖でカチコチに固まっていると、男が声をかけてきた。
「顔を上げてくれないか?」
その言葉に従い顔を上げれば、すぐ近くにあった青い瞳とぶつかる。少しして、目の前で金髪の貴族がしゃがんでいるのだと気が付いた。
「あ、あの」
「怖い思いをさせてしまったね。立てるかい?」
穏やかな言葉に、私はこくりと頷く。まるで絵にかいたような王子様だ。そして、私はお姫様のように手を取られ立ち上がった。自分が見ずぼらしい服を着ている事が今更になって恥ずかしくなる。
「すみません。あの……」
「ああ、手をすりむいてしまったね」
男は手に取った私の手をしげしげと眺めると、その傷口をペロリと舐めた。
その行為がたまらなく恥ずかしく感じて、私は顔をうつむかせる。泥で汚れてしまっているのに、どうしたらいいのだろう。
「美味い……」
「えっ?」
「いや。屋敷で治療させてくれないだろうか。傷が残っては大変だ」
「そ、そこまでは大丈夫です。元々傷だらけなので」
私は慌てて服の袖をめくって、手や腕についた傷跡を見せる。元々満足な治療が受けられる地域ではないのだ。こんな擦り傷ぐらいなんてことはない。
「いや。紳士としてそういうわけにもいかない。それに僕はどうやら君に一目ぼれをしてしまったようだ」
「えっ。ちょっと。あの?!」
いきなり私は抱きかかえられると、馬車の中に入れられた。
「悪いようにはしないから」
絶対おかしい。
そう思った時には既に、私を乗せた馬車は走りだしていた。
◆◇◆◇◆◇
「何するのよ。帰して!!」
「ああ。私の話を聞いてくれたら、君を家に帰してあげるよ」
絶対おかしい。
馬車に乗せられた時点で分かってはいた事だけど。私は貴族の屋敷の中で突然攫うように連れてきた男に訴える。
この男の従者である男に手を掴まれてしまっている為、逃げる事は出来ない。怖くて仕方がないけれど、それを隠す為に私は言葉をぶつける。
「ふざけないで。何が目的なの? 私はお金なんて持ってないわよ」
「うん。そうだろうね」
ニコリと笑って私の服をながめられて恥ずかしくなる。目の前の男に比べて、私の服はあまりに貧相だった。ところどころほつれもあるだろう。
「お金は君より、僕の方が持っていそうだ。むしろ、君はお金に結構困っているのではないかい?」
「……だったら何? 私にパンでも恵んでくれるというわけ?」
「うん。それもそうだね。ちょっと、食事を運んできてくれないかい?」
男は馬鹿にしているのか、メイドにそう伝えた。
「食事なんて結構よ。家に弟達が居るんだから、私を返して」
「なら、君の弟達の分の食事も用意しよう。もって帰ってあげるといい」
「何が目的なの?」
哀れみなんていらないと強がっていられるほど、今の私に余裕なんてないことは、私自身が一番良く知っている。だからくれるというものをいらないと突っぱねられるほど、私は強くなかった。
「とりあえず椅子に座ってくれるかい?」
私は言われるままに、と椅子には座った。すると、私の手を掴んでいた男の手が離れる。しかし真後ろにピタリと立たれ、私が何かしようものなら、問答無用で取り押さえる気が満々なのを感じた。
逃がす気はないらしい。
「先ほど君が見たものの事は知っているかい?」
「……先ほどって?」
「吸血鬼の事だよ」
その言葉に私はドキッとする。先ほどまでの恐怖がよみがえってきて、ギュッとスカートを握りしめた。
「母さんから聞いた事がある程度だけど、一応知ってるわ」
私はこくりとうなずき、知っていると伝える。
「でも見たのはあれが初めて。あの吸血鬼は……殺したの?」
私を追いかけてきた吸血鬼に、たぶんこの男は何かをした。それが何かを私は見る事ができなかったけれど。
「ああ。そうだよ。彼は吸血鬼で、病気に罹っていたからね。あのまま生きていてもモンスターとして吸血鬼ハンターに狩られるまで、狂い続けるだけだから。殺してやった方が慈悲というものさ」
やはり殺したのか。
でも、病気ってどういう事だろう?
「あの吸血鬼は病気だったの?」
「元々吸血鬼は人間よりずっと紳士的な生き物だ。人間は生きるために相手を殺してしまわなければいけないけれど、吸血鬼はわずかな血を貰えればそれで生きていける」
「でも、あの時……」
吸血鬼が女性の首に噛みついている姿を思いだし、私は気分が悪くなった。彼女は多分もう……。
「病気の吸血鬼は、自我を失い血だけを求め続けるようになるんだ。そして本来必要ない量の血を摂取してしまうんだよ」
「貴方は、吸血鬼ハンターなの?」
吸血鬼事情にとても詳しい事とと、先ほど吸血鬼を殺した事から、私はそう判断した。しかし私の言葉に彼は凄く嫌そうな顔をした。
「まさか。あんな無暗に何でも殺すような下俗な奴らと同じにしないで欲しいな」
「下俗って……」
「先ほども言った通り吸血鬼は病気になりさえしなければ、人間よりも紳士的な生き物だ。でも吸血鬼ハンターは、病気であろうとなかろうと狩る。病気にいつかなってしまうかもしれないリスクをなくすために」
「でも、仕方がない事じゃ?」
殺されたくないから、その前にと言うのは、分からなくはない。
「君は明日狂犬病に罹るかどうかわからないから、目の前の犬を殺すというのを正義だと思うのかい」
少しだけ苛立った声で男は私に問いかける。
「犬では分からないなら、人間だ。もしかしたら、君の弟が、明日全世界の人間を殺すようなウイルスに感染するかもしれない。助かるには焼却するしかない。だから感染する前に殺してしまおう。果たして、それは正義か?」
「そんなの駄目に決まってるじゃないの」
弟はこの世界で唯一の家族なのだ。かもしれないという曖昧な事だけで殺されたらたまらない。でも感染しても、私は弟を見捨てられないと思う。
「でも明日罹るかもしれないんだぞ?」
「そんなの明日になってみないと分からないわ」
「と、言う事だ。なるかどうかも分からない病気を理由に吸血鬼ハンターは無害な吸血鬼を狩ろうとする。アイツらが行ってるのは正義なんかじゃない。ただの虐殺だ。そいつらと同じにされれば、僕でも腹が立つ」
「吸血鬼ハンターが嫌いなのね。……ごめんなさい」
吸血鬼も確かに私達と食べるものが違うだけで、生きているのだ。かもしれないだけで殺されたらたまったものではない。
「でも、だったら、貴方は何?」
吸血鬼に詳しく、そして病気の吸血鬼を殺した事には間違いない。
「吸血鬼だよ」
「……えっ?」
さらっと紡がれた言葉に私は固まる。
「吸血鬼で名前はグシオン。序列11番で大公爵の地位を与えられているかな。そして王に、病気にかかり狂った吸血鬼を狩るように命令されている」
「大……公爵」
「吸血鬼の中での地位で人間にはあまり関係ないけれどね。君が出くわした場面はそういう場面なんだよ」
「その口止めの為に、私をここへ呼んだの?」
グシオンが吸血鬼であると知れれば、かなりの騒ぎになるだろう。この国に住んでいる人は吸血鬼が居る事を知ってはいるけれど、どこにいるかは知らないのだから。先ほど名前が挙がった吸血鬼ハンターも彼を殺しにやって来るかもしれない。
「それもあるかな」
「私は言わないわ。貴方に助けられたのだから」
彼があの場に通りかかり私を助けたのは、偶然だったのかもしれない。ただ命令に従って病気を患った吸血鬼を殺した場面に、偶々私が居合わせただけかもしれない。でも、私が生きているのは彼のおかげなのは間違いない。
吸血鬼が無暗に人を殺さないと言うのならば、私はこの事を秘密にして墓まで持っていこう。
「それはありがたい。精神関与をできればしたくはないからね」
「精神関与?」
「僕は生まれつき、他人の記憶や認識を少しいじる事が出来るんだ。だから人間に紛れ込み、命令を遂行しているんだけどね」
「なら、私を連れて来る必要はなかったんじゃないの?」
記憶をいじるという言葉に私は少し引く。つまりは私の先ほどの記憶を消す事もできるという意味ではないだろうか?
「できればしたくないと言っただろう? これは呪われた力だからね。それに君にはお願い事があるから来てもらったというのもある」
「お願い事?」
「僕の常備食にならないか?」
「……は?」
常備食?
常備食って、ようは常に食べられる食料という事だよね? あまりに包み隠さなすぎる言葉にキョトンとする。
「人間の世界で無暗に食事をするのはリスクがあるんだよ。吸血鬼の病気は、血を介している事は分かっているからね。だから我々は安全でおいしい血があるなら囲いたいと思っている。先ほど少しだけ舐めた君の血は、とても美味しく病気の匂いもなかった」
「い、嫌よ。普通に考えて、食糧になってくれって言われて頷くと思う?」
死ぬことはないと、今までの会話で何となく分かってはいるが、家畜になれと言われて、はいよろこんでなんてあり得ない。
「勿論ただとは言わない。君もお腹が空いている苦しさは知っているんじゃないかな?」
「何を……」
言っているんだと言おうとしたところで、ものすごくお腹を刺激するいい匂いがした。そちらを見れば、先ほどのメイドが台車を押して、料理を運んできている所だった。
ステーキを目の前の机の上に置かれた瞬間、私は生唾を飲んだ。お肉なんて見るのはいつぐらいぶりだろう。新鮮サラダに、濃厚そうなコーンスープ。ふわふわのパンの横にはバターまで添えられている。
「君の家族分のお弁当は後から渡させてもらうよ。ああ。この料理に関しては、今日君を巻き込んでしまった謝罪の気持ちだから、これを食べたからと言って、常備食になる事を強制する事はない。捨てるのは勿体ないし、食べてくれないか?」
私は意地を張るだけの余裕もなく、真っ先にステーキ肉にかぶりついた。そして今までにない柔らかな肉の食感と肉汁に、感動して涙が出そうになる。
お肉って、なんて美味しいのだろう。
「気にいってくれたようでうれしいよ。それで常備食の件なのだけどね。常備食となるなら、君の健康管理は勿論僕が請け負う事になる。だから君の血が美味しくいられるよう、食事などの費用の面倒をみよう」
「ふえ。ひょむぐぐぐ」
「飲み込んでから話はしなさい。ちゃんと聞くから」
言われて私はもぐもぐと咀嚼していたお肉を飲み込む。飲み込んだ瞬間とても勿体ない気がしたが、まだ食べるものはいっぱいある。
「面倒って、食事を?」
「人間は食事だけでは生きていけないのだろう? だから給料という形で支払おうと思う。勿論血を僕にくれる時はこうやって食事も振る舞わせてもらうよ」
血を渡すだけで、お金がもらえる。なおかつ食べ物までもらえる。このままだと、身売りしかないと思っていた私にとって、とてつもない好条件の話だった。
例え、それが自分自身を牛や豚などの家畜と同じ立場に貶めるものだとしても、それがなんだと言うのだろう。人間は生きているから、貶められるなど感じたりも出来るのだ。死んでしまえば、何もない。
それに私には、泥水をかぶっても守らなくてはいけない弟がいる。
「常備食で死ぬことはないのね?」
「それは保障するよ。そもそも君が死んでしまったら僕はまた新しい常備食を探さなければならないという事だからね。これが結構骨が折れるんだよ」
「……分かりました。私は、貴方の常備食になります。ご主人様、よろしくお願いします」
「別にかしこまらなくていいよ。でもまあ、ちょっとマナーレッスンは受けてもらわないとかな? それとそうだ。名前を教えてくれないか?」
「リナリーと申します」
「じゃあ、リナリー。とりあえず僕の事はグシオンと呼んでくれないかな?」
そう言ってグシオンは微笑んだ。
◆◇◆◇◆◇
「あの。グシオン様、これ、何とかならないのですか?」
あの日から、私は血を渡す為にグシオン様の屋敷に通うようになった。
そしてグシオン様の家についてまずされる事が、衣装チェンジだ。それどころか初日は、衣装チェンジ前に、風呂の中に沈められた。食材を洗うというのは私もする事なので違和感はないけれど、貴族の女性が着るコルセットでぎゅうぎゅうとお腹を締め付ける服を着るのは苦手で少々辛い。まあ、お金をもらっているのだからこんな事で弱音を吐く気はないけれど。
「すまないね。周囲から不審がられないようにするには、君にも貴族の恰好をしてもらうのが一番なのだよ。君はどんな装いをしても美しい蝶のように可憐なのだけれどね」
「そう言う冗談は、人目がない時は別にいりませんから。私の扱いをメイドという事にはできなかったんですか?」
常備食の私は、基本的にグシオン様の近くに待機している。吸血鬼の食事は特に3度と決まっているわけではなく、お腹が空いた時に食べるというものらしい。
と言うのも、能力を使ったりすると一気に力を使いお腹が減って下手をすると仮死状態に陥ってしまう事もあるからだそうだ。グシオン様はそこまでのミスは今までした事がないそうだけれど、万が一という事がある。なのでできるだけおそばにいて、いつでも血を差し出せるようにしたいそうなのだ。
輸血パックというものに血を取っておく事も出来るには出来るらしいが、血を固まらせない為に入れる混ぜ物がグシオン様は好きではないらしく、本当の緊急時以外は飲まないというのも理由の一つである。
「いつでも同じメイドを付き添わせているのはおかしいからね。それによって下賤な噂を流されるより、婚約者としておいた方が、世間体的にいいのだよ。仲睦まじいと皆が見てくれるだけだからね」
「そうですか」
グシオン様には特に婚約者などは居ないらしく、私は現在その役目も演じさせてもらっている。と言っても、喋れば下町の汚い言葉で貴族ではないとバレてしまうので、他人に会った時は挨拶をして微笑んでいるだけだけど。
「それにもうしばらくしたら、社交界にも一緒に参加してもらわなくてはいけないからね。君を口説く練習は普段からした方がいいと思うんだよね。僕の愛しの人」
「は? 社交界?!」
突然言われた重大発表に私は目を見開く。
「そうだよ」
「しゃしゃ社交界って、あれですよね? 貴族の皆様がダンスとか踊ったりする。踊れませんよ、私?!」
「だから、ダンスの先生をお呼びした。そして、僕も君の練習に付き合うから安心して」
「練習したって、無理ですよ。なに考えてるんですか?!」
「その分の特別給もだすと言ったら?」
……うぐっ。
特別給か。
一番上の弟が最近、勉強をしたいと言いだしたのだ。将来を考えて、出来るなら学校に通わせてあげたい。私に似ず、頭のできのいい弟なのだ。
その資金を少しづつ貯蓄しているけれど、特別給と言うのは何とも魅力的なお誘いである。
「や、やってやろうじゃないですか。ダンスだろうと、なんだろうと」
「わー、リナリーは漢らしいね」
パチパチとグシオン様が拍手をなされたのがわざとらしかったけれど、私は握りこぶしを振り上げて決意した。
こうなったら誰よりも上手に踊ってやろうじゃないの。
こうして私のダンスレッスンはスタートした。
「リナリー様、もっと音を聞いて下さい」
「はいっ!」
「背筋を曲げない」
「はいっ!」
体力だけは自信がある私は厳しいレッスンに必死についていった。そのレッスンにグシオン様も付き合ってくれる。
最初こそ足元を見ずに踊れという事で、グシオン様に足を何度か犠牲にしてしまったが、何とか足を踏まずに踊れるようにまでなった。
「リナリーは器用だね」
「そうですか?」
「僕と足をもつれさせて倒れ込むというハプニングもないし」
「そこまで運動神経なかったら、下町ではやっていけませんよ」
小声でグシオン様だけに伝える。
基本的に運動神経は人並みはあるつもりだ。あまりどんくさいと、あの町ではやっていけない。庶民に必要なのは、体力と運動神経だ。
「僕としては、もっと僕に頼ってくれるのかなと思ったのに、ステップも簡単に覚えていってしまうんだよね。つまらないな」
「勿論給料もらってるんですから、手抜きなんてしませんよ。グシオン様に恥なんてかかせられません。お金の分はちゃんと働きますとも」
私にとってグシオン様は、やっぱり出会った時に思った通り、王子様なのだ。そんな王子様の無様な恰好、誰が許しても私が許せない。それが私の所為ならなおさらである。
だから私は精一杯頑張るだけだ。
「少し休憩しないか?」
「そうですね。では今日のレッスンはここまでとしましょう」
グシオン様の言葉一つでレッスンは終了となった。ダンスはそれほど激しい動きではないけれど、ずっと踊っていた所為で汗だくだ。
グシオン様はその点汗1つかかず涼しい顔だけれど、吸血鬼というのも人と同じで疲れたりもするのだろう。
「リナリー、お腹が空いた」
「えっ? 今ですか? 私ちょっと汗臭いですよ」
クンクンと自分を嗅ぐか、自分だとそこまでは分からない。でも絶対汗臭い。
「大丈夫だよ。ちょっとだけ。ね?」
「しょうがないですね」
初日は風呂で丸洗いだったのに。よっぽどお腹が空いているのだろう。甘えたように言われて私は苦笑する。
先生もレッスン室からいなくなったので、グシオン様へ私は右手を差し出した。
吸血鬼は首筋を噛むのだと思っていたけれど、沢山の血を貰いたい時以外はそこでなくても問題ないらしい。私自身首筋に顔をうずめられるのはなんだか恥ずかしかったので、手首でいいというのはありがたかった。
グシオン様は私の手首を赤い舌で舐めると、牙をうずめる。チクッとした痛みはあるが、激痛が走るという事はない。吸血鬼の唾液は殺菌作用が強く、牙が抜けると止血作用もあってすぐに血が止まる。それに量も大した量を吸われた気がしないので、本当にエコな体をしているなと思う。
しばらくチューチューと吸っていたが、満足したらしく牙を抜いた。
「勿体ない」
そして少しだけ垂れた血を舌で舐めとる。
何というか独特の色気があるなとこういう時に思う。ただの食事シーンなのに、ざらりとした舌が血をなめとる瞬間心が震えて恥ずかしくなるのだ。その状態で、私を見つめるのだけは本当に心臓に悪いので止めてもらいたい。
「ありがとう、リナリー。美味しかったよ」
「どういたしまして。お仕事ですから」
私は動揺を気が付かれないように、仕事を強調する。そう。これは仕事なのだ。だから、当たり前の行為なのだと。
「つれないな、リナリーは。さあ、風邪を引いてしまう前に着替えようか」
「はい」
グシオン様に言われ、私は頷いた。
◆◇◆◇◆◇
「リナリー、大丈夫かい?」
「はい。何とか」
「君だけの体じゃないのだから、無理はしてはいけないよ」
あー、常備食的な意味ですね。
周りがギョッとしたような顔をしたけれど、私は何の事やらという顔をしておく。慣れないヒールの高い靴でプルプルしている私に対して気を使ってもらえているのだろうけれど、グシオン様の言葉選びは時折色々問題がある。やっぱり吸血鬼だからだろう。
「グシオン、君がパーティーに参加するなんて珍しいじゃないか」
グシオン様とパーティー会場の端に居ると、前から黒髪の男がやって声をかけてきた。この人は人間だろうか? それとも吸血鬼だろうか?
分からないが、ボロを出さないように私は軽く微笑むだけにとどめておく。
「やあ。マルファス。たまには出ないと、周りが煩いからね」
「そりゃそうさ。君目当てで来ているお嬢さんも多いんだから。そう言えば、この隣で咲いた可憐な花はどなたなんだい?」
「僕の婚約者のリナリーだよ」
二人の目線が私の方を向いたので、私はニコリと笑い軽く膝を曲げた。
「初めまして。リナリーと申します」
「初めまして。俺はマルファスと申します。貴方と出会えて光栄です。できれば彼より早く貴方の瞳に映り独占したかったのですが、以後お見知りおきを――」
「僕の婚約者なのだから、色目を使うのは止めてくれないか?」
手を取られかけた瞬間、グシオン様が私を引き寄せる。
「妬けるねぇ……分かった。そんなに睨むなよ。冗談じゃないか」
「ちょっと失礼させてもらうよ」
「そんな怒るなって」
そう言ってマルファスがひらひらと手を振ったが、グシオン様は私の手を握るとパーティー会場から離れる。
いいのだろうかと思いつつも、私一人パーティー会場に残されても困るので、私は彼についていった。
「……グシオン様?」
「ああ。すまない。アイツは手癖が悪いからね。無防備な君を彼の近くに置くのが嫌でね」
「あの方も……アレなんですか?」
「そうだよ。忌々しい事に。アイツの場合は誰彼かまわず求めるから気をつけなさい」
ふぅとため息をつきながらグシオン様は答える。
そうか。やっぱりあの方も吸血鬼なのか。私が知らないだけで、吸血鬼はこの世界に居るのかもしれない。
「そうなんですね。でも、大丈夫ですよ。グシオン様のおかげで、血はいっぱいありますから」
常備食になってからの食事改善で、私の血の量は多分劇的に増加している。今なら、グシオン様以外に吸われても大丈夫だと思う。
「悪気はないと分かってはいるが、そう言う事を軽々しく言ってはいけないよ」
「あ、すみません。共有されたら状況的に、マルファス様と間接キスをするという事なってしまいますもんね」
貴族の方は大皿で突っ突きあう食事はしないから、そういうのは嫌なのだろう。私の場合は食事の共有と言うのは当たり前なので、それほど気にしないけれど。
「分かっていて、焦らしているのか?」
「はい? 焦らす? お腹が減ったんですか?」
「ああ……そうだね」
「グシオン様?」
手首を噛まれるのかと思えば、不意に吐息が耳元にかかる。
どうやら今日は首筋から飲みたいらしい。よっぽどお腹が空いているのだろう。でも耳に息がかかると、くすぐったいというか、本当に苦手なのだ。
でも常備食としては我慢しないといけない。……あ、でも。ここは廊下だけど、誰かに見られたらマズイんじゃ。
恥ずかしさとくすぐったさでドキドキしつつも、周りを伺う。
そして――。
「グシオン様っ!!」
私は首元に近づけた顔をぐっと抑えた。お腹が空いているかもしれないけれど、ちょっと我慢をしてもらわなければ。
「私、疲れたので、休憩室に行きたいのですけれど」
「えっ? それは気が付かなくて悪かったね」
「いえ」
そう言いながら、こちらをジッと見る男を私は伺う。その手には剣が握られていた。
「グシオン様。不審な人がいます」
グシオン様に寄りかかりながら、私はこそっと伝える。私の言葉でグシオン様も気が付かれたようだ。グシオン様は私と寄りそいながら、用意されている休憩室へと入る。
そして鍵をかけると、大きく息を吐いた。
「すまない。油断していたみたいだ。病気の吸血鬼が居るという情報から今日は来たけれど……そうだな。吸血鬼が居るなら、ハンターも居たっておかしくない」
やられたよと言いながら、グシオン様はソファーに座る。
「やっぱりそうなんですね」
「あの家紋は間違いない。怪しいと思った奴をマークしているのだろう。……僕はどうかしていたよ」
「あの。お腹が空いている時は判断力が鈍っても仕方がないと思いますよ。えっと、飲みますか?」
外に声が漏れるとまた厄介な事になりそうなので、ソファーの前で私はしゃがむと小声でグシオン様に伝える。常備食なのにその役目が果たせないのでは、ただ飯ぐらいだ。それは良くない。
「あれは、お腹が空いていたのではなくてね……。でもいいのかい?」
「何がですか?」
「あー、僕にとっては、君がこうして僕を逃がしてくれたのは、とてもありがたいのだけど。その、僕は吸血鬼で、彼らは人間で……君を頷かせるために彼らが悪の様に伝えたのだけど、彼らは君の味方である事は間違いないんだ」
彼らというのは吸血鬼ハンターの事だろう。
私達は自分に危害を加える生き物は殺す。それはある意味、自分が生き残る為に仕方がない事でもある。だから吸血鬼にとってハンターは悪だとしても、私にとってそうではない。
「今更、何言っているんですか?」
「今だから言うんだよ。僕が手放してもいいと思える間じゃないと、君を無理やり僕の隣にとどめようとするかもしれないとさっき思ってね」
「そもそも、私はグシオン様が居なければ死んでいたんですよ?」
病気の吸血鬼に血を吸い尽くされて。
もしくはその後無事に逃げ延びても、飢え死にだったかもしれない。そんなギリギリの状況だったのだ。あの時手を差し伸べてくれた王子様は、吸血鬼ハンターではなく、グシオン様だった。
「私は常備食なんですから、ちゃんと面倒見て下さい。手放されて困るのは私の方なんですから」
私はたとえ彼が人間の敵だったとしても、彼の下に留まり続けるだろう。
「ああ……本当に、君は吸血鬼殺しだ」
「……あの。私は、ハンターじゃないですよ?」
手で顔を覆ってグシオン様が、何だか勘違いした言葉を呟く。グシオン様は本当にお疲れのようだ。
「知っているよ。僕の大切な花嫁殿」
「私達の関係設定もちょっとそれは違いますから」
私達は婚約者と言う関係で、花嫁と言うのはその一つ先の話だ。
「ああ。今はそうだったね。……少しだけ血をくれないか? 君の甘い香りで押さえが効かなくなりそうだ」
「やっぱりお腹が空いてるんじゃないですか」
グシオン様は私言葉を最後まで聞かず首元に顔をうずめる。
ああもう。やっぱり恥ずかしい。
私の顔が赤くなっているのが、この体勢だと気が付かれないのだけが唯一の救いだと思いながら、今日も彼の常備食に私は徹した。