第一章 日常(4)
今度は一応IDスキャンをオフにして玄関を出た。
そこから地下鉄に乗り込むまで、結局、追っ手は現れなかった。
僕のIDで認証し、車両に乗り込む。もちろん、セレーナのIDはアンチスキャン(たぶん違法だろうけど)でスキャンを防いでいる。
昔ながらの磁気浮上式車両が音もなく滑り出し、車内にはその車両が横浜で切り離され東京湾東岸に向かうことがアナウンスされた。
「どこへ?」
座席に腰をおろし、すぐ隣にセレーナが座ったのを見てから、僕はぶっきらぼうに尋ねた。
「……ともかく、遠く」
彼女はこちらを見ようともせずに答える。
「空港とかに向かわなくても?」
「いいえ、それは必要ないわ。とりあえず、私を探してる連中から離れるのが先」
確かに、空港で先回りして待っている、ということもあり得る。
だったらこれからどうするのか、ってことが気になるけれど。
黙った二人を乗せた地下鉄車両は、海底を横断し、東京湾東岸の寂れた町に着いた。終点まで乗る必要もなかったのだが、途中で降りる必要も感じなかった、というきわめて消極的な選択の結果。
周り中が広大な国有公園と化され、海岸にへばりつくように残ったその小さな町。家を出て一時間もかかっていないため、まだ夕日が斜面の高い位置を照らしつけている。
行く当てもないが、どこか人目の無い場所へ、とセレーナが言うので、町の外、公園に向かって歩き出した。
広い公園に足を踏み入れる。左右にいくらか木立が茂り、その間を舗装された歩道が蛇のように延びている。木立の隙間からは、広い池と広い芝生が見える。
広い芝生の、なるべく人のいない、池のほとりから離れた小さなベンチを選んで、二人で座る。
「それで? 結局、どういうわけで摂政様から逃げてるんだい?」
「面倒な話は省くけど、その――要するに、彼は私を自由に操りたいのよ」
「君を? どういう意味?」
「一人娘の私は第一位の王位継承権を持ってるから。当然将来は国王になるし――その時、ま、自分が解任されるのを避けたいってことよ。そのために、彼の家が教育係を務めてる私の従弟と私を結婚させようって腹みたい。冗談じゃないわよ、相手は十四歳、二つも下なのよ。ちっちゃいころから遊んであげる仲ではあったけど、いきなり結婚は考えられないわよ」
セレーナが答える。大真面目な顔なのだが、やっぱり内容はおとぎ話で。
「で、外国で逃げ回って? 要するに家出ってわけ?」
権力争いだ何だというけど、結婚への理想を捨てられず、家出して逃げ回るお姫様ってわけだ。かわいいところもあるじゃないか、なんて思ってしまったが、きっとそれを指摘するとまた烈火のごとく怒るんだろうな。
「もちろん、単なる家出じゃないわ。パ……父に直談判するつもり。こっちに来た理由も、父が外交でこっちに来てたから、あいつの隙をついて会えるかと思ったのよ」
「いや、君のお父さんだろう? 普通に会えばいいじゃないか」
「私の国くらいになると、実の娘でも一人で国王に面会なんてできないのよ。必ず摂政が立ち会うの。摂政を連れてない今度の旅がチャンスだったんだけど、その前に見つかっちゃって。海外行きの貨物船にもぐりこんで逃げたはいいんだけど、結局、父はその間に国に帰っちゃったらしくて」
「じゃあ観念するしかないじゃないか」
「簡単に観念なんてできないわ。彼のやってることに父もあまり口出しできないし今度の訪問も……いや、それはいいわ。ともかく、私は彼の操り人形になんてなるつもりはないの」
そこまで大変な話なのかな、なんて僕はぼんやりと思う。
聞いたことも無い小国の話。
なんだか、どうでもいい話だな、なんて思いながら。
「でも君のお父さんはもう国、摂政も国、それで君が国に帰ってどうする?」
「彼らは私がここにいると知っている。だから、逆に隙をつくのよ。私がまだこんな辺鄙な国でうろうろしてると思わせている間に、あなたのIDでひっそりと帰国して、――そうね、まだ考えてないけれど、父に不意打ちで会うとか、三公のもう一つヴェロネーゼ家に駆け込むか――」
彼女が何かをぶつぶつと続けているが、僕は真面目に聞くのをやめた。
いやはや、曲がりなりにも新連合国を辺鄙な国とは恐れ入った。
きっと彼女の国は王国こそ世界に君臨する国と教育をしているような古びた王国なんだろうな、なんて思う。
古い貴族がいつまでも既得権益にしがみついたカビの生えた国。
そんな王国の貴族間の権力争い。
僕には実に無関係な話。
「それで、これからどうするんだったっけ。こっそり王国に帰るんなら」
僕が切り出すと、彼女はうなずく。
「正確に言い直すわ。あなたが私を連れ帰ってくれるの。お金のことは心配しなくていいから。ただ、あなたのIDを使って、私がまだここにいると見せかけてほしいの」
「簡単に言わないでよ、僕はこの小さな島からさえ出たことが無いんだ」
「そ、じゃあ、今出るのよ。いつまでも田舎ものでいるつもりはないでしょう?」
「田舎ものって。仮にも地球最大国家の市民に対して? 君がどこだか知らない王国のどんな偉い人だか分からないけどね」
ついカチンときてしまって。
「エミリアを知らないですって?」
彼女も僕が知らないと言ったことにカチンと来たご様子。
「ああ、知らないね」
「いくらなんでも世間知らずに過ぎない?」
「それは君の世間の話だろう? 僕は知らないと言ったら知らないんだ」
「じゃあ、知りなさい。この偉大なる王女があなたにエスコートをお願いしているのよ。あなたにとって人生最大の機会なのよ。なぜそれが分からないの?」
「君が王女様だってことは分かったけど、だからって、なんでも無理が通るなんて思わないでほしいな。僕には僕の生活があるんだ、僕にとっては、君の結婚問題よりはるかに深刻な生活がね!」
言ってしまってからさらなる彼女の怒りの落雷があるかと思い身構えたが、予想に反して、彼女の目に閃いた光は、怒りのそれではなかった。
彼女はしばらく何も言わなかった。それどころか、うつむいて僕から視線をそらした。
ちょっと言い過ぎたかと思って声をかけようとすると、彼女は急に立ち上がった。
「……そうよね、私、あなたの気持ちも考えずに勝手なことを。王族たるものは民の気持ちに寄り添うべきだったわ。ごめんなさい、私、少し勘違いしていました。ここまでで十分です。この恩は一生忘れません。ありがとう」
彼女が差し出した右手は、別れの握手を求めているのだろう。
そのときになって僕の憤りが急に冷めていくのを感じた。
その彼女の表情を見て。
賭けてもいいが、僕に対するあてつけで彼女がそんなことを言ったのでは無い、と思う。
彼女の瞳に、僕ににべもなく拒絶された哀しみがたたえられていることくらいは読み取れたから。
知り合いも誰もいない異国の地で、もしかすると助けてくれるかもしれない、という人に出会い、そして突然拒絶されたら。
そんなことを考えると、気丈に別れを告げる彼女が、とても、気高く見えた。
僕は本当に、こんな並外れた体験を避けたいと思っているんだろうか。僕は、非日常を望んでいたんじゃなかったか。
そう、常にそれを望んでいたはずだ。
だから、意味もなく空が見える地上を歩いていた。
なのに、いざ、その何かが起こると急にしり込みするなんて。結局、日常をぶち壊したいなんて言いながらも、僕自身、日常に飼いならされた平凡な人間に過ぎないんだ。
突飛な体験なんて、一握りの人ができるもの。
変わり映えのしない安穏とした生活を送ってちょっと良い大学に入ってちょっといい会社に就職してごく普通の家庭を持って。
それの何が悪い?
でも。
目の前にいる僕より小さな女の子は、そんな殻を破り、飛び出したんだ。
セレーナにとっても、きっと、王家の権力争いなんてものは退屈な日常なんだと思う。だけど彼女は、日常をぶち壊すために一人でこんな旅に出た。待っているだけの僕より、行動を起こした彼女の勇気のほうが勝っているということは認めなきゃならない。
こんな子に僕は負けるのか? 本当に負けを認めるのか?
それに、なんだその右手は。
まるで、僕が意気地なしだと言いたいようだ。
僕が小さな生活を飛び出すことを恐れていると。
そんなことお見通しよ、と言いたげだ。
突然変わった彼女の口調は、僕への敬意ではなく、失望と軽蔑。
ちょっと売り言葉に買い言葉のやり合いをしただけじゃないか。
たったそれだけのやり取りで、僕に失望するなんて、ひどい侮辱だ。
さっき冷めた憤りとは別の憤まんが湧いてくる。
僕は、差し出された右手を取り、握った。
「それじゃ……」
言いかける彼女をさえぎり、
「僕がいつ、行かないなんて言った? もちろん、行くさ。君が僕を騎士役に選んだのなら、全力で応えるのが男ってもんだ。恩に着るのはまだ先にしてもらいたいね」
自分でも、どうしてこんなひねくれた言い方しかできないもんかね、と思わざるを得ない言葉だった。
彼女のその顔は驚きだろうか。
大きく見開いた目は、僕の目をしっかりと見ていて。
さすがに見つめあうのも恥ずかしくなってきたころ、
「……ありがとう」
彼女は小さくつぶやき、数秒うつむいていたかと思うと、再び僕に顔を向けた。
「当然よ、あなたみたいな平民が、このエミリア王女の命令を聞けないなんて言ったら、国際問題ものよ。良かったわね、私があなたを罰する決断をする前で! では出発しましょう」
と、彼女はまた強気の口調で僕を怒鳴りつけるのだった。
やり返したと思ったら思い切りやり返されて。
でも、まあ、悪くない。
ちょっとした美少女のこんな笑顔が見られたなら、十分に役得というもの。
「しかし、出発すると言っても、どうするんだよ。飛行機が必要なら、またずいぶん戻らなきゃならないし」
気を取り直して尋ねると、
「飛行機……ああ、あなた、エミリアを知らないって言ってたわね。飛行機なんて必要ないのよ。ちょっと待ってなさい」
そう言って彼女は、にこにこしたまま黙り込んでしまった。
まるで僕を無視して、ぼうっと池を眺めている。
そうして黙ったままの五分が過ぎた。一言で書けば一瞬だが、黙りこくった五分は長い。僕にしてみれば、池のボートかセレーナの整った横顔を眺めているくらいしかすることがないのだ。
さすがにそれにも飽き、
「いつまで待てば……」
と問いかけると、
「待ってなさいって言ってるでしょ! でももうすぐよ」
叱られて思わず首をすくめるが、その直後、突然頭上に巨大な気配を感じて、すくめた首をさらにすくめる羽目になってしまった。
風きり音を立てながら空から降りてきたそれは、全長三十メートル近くはあろうかという、真っ白な、翼の生えたイルカのような巨大な代物だった。
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