12月21日(水) 晴 森田監督死す。
軽バンで配送中、森田芳光監督の死をNHKラジオの臨時ニュースで知った。運転中の素庵は、あたかも兄弟が死んだような落胆と悲しみにとらわれた。そのとき江戸川を渡る鉄橋の上から、冬の太陽が河に反射してキラキラ光っているのが眺められた。
森田君と素庵が始めてあったのは、素庵が大学の放送学科学生自治会長(ちなみに、わが子分、高柳房義が芸術学部の自治会長だった、つまり素庵は黒幕であったのだ!)で、四年生だった時だった。人気に浮かれすぎている放送界に一矢を射ようと吾が友、矢野重臣と、放送批評同好会「放送研究集団Q」を立ち上げたとき、口をひん曲げる表情が印象的な一年生森田君と二年生渡辺猛君が入ってきた。この席で森田君は「マスコミ記者の仕事をしたい」と言っていたのを素庵は覚えている。落語研究会にも入っているとも言っていた。しかし、この会の立ち上げは一回きりで終わってしまった・・・以後彼との直接のつきあいもなかった。
森田監督はディビットリーン監督の「ドクトルジバゴ」に感動して、映画の道を進み始めたと言うから、歴史好きな素庵風に検証すれば、森田君が監督をめざし始めたのは「ジバゴ」が制作された1965年であったから1965年には1950年1月生まれの森田君は「ジバゴ」封切りの時は15才か16才であったはずである。それから考えると、おそらく、素庵が森田君にであった、森田君大学一年生の時には、まだ進路を決めかねていたようである。話しによると保険会社に就職してから、高価なフランス製8ミリカメラを買い込んだようであるから、大学在学中に、映画の道にめざめたというところであろうか。
デイビットリーン監督は寡作な人であった。有名作に「アラビアのロレンス」「戦場に架ける橋」「ドクトル・ジバゴ」がある。この三作は詩情あふれた非常に素晴らしい作品で、素庵も大好きで、今現在も、その名作の秘密を解明すべく、読もう読もうとパステルナーク原作小説「ドクトル・ジバゴ」が手元においてあるのだが、それが果たせない。スピルバーグ監督は、映画製作に入る前に、前記三本を必ず見るという、事である。スピルバーグ監督は1946年生まれ、素庵と同じ年生まれであり、子供の頃ディズニー映画が好きで、SFが好きという点は素庵と良く似ている。しかし似ていないのは、片や溢れる才能、片や消そうな才能というところである。
森田君とは、二年後また出会った。私が大学を横に出(五木寛之氏が中退をこのように言う)ニュース映画社で働き出して、その給料で16ミリフイルムで取った作品(今から思うと素人がプロのフィルムで、お話らしいものを撮ったというだけの作品だが・・・)を、発表しようと、草月が主宰する、自主映画作品コンテストに出品した時だった。「なぜ、8ミリで撮らないのですか」と聞かれたのを覚えている。このコンテストは、折から大学紛争のあおりを食らって、開催中止となってしまったが、それから一年後、フランス語学校アテネ・フランセで行われた「フイルムアンデパンダン」で森田君と再会、彼の新鮮な8ミリ作品「ウエザーリポート」などたくさん見たし、素庵の16ミリ作品(これは、個人が16ミリフィルムを使って作った作品としては先駆けであったろうと思う。カメラは報道用のゼンマイ式ベルハウエル・フィルモDR、三本ターレットレンズを用いた。エルモの16ミリ、磁気録音・音再生のエルモ映写機も買った。)も、映写された。
しかし、素庵にはボヘミアン的な、詩人ランボー的な中原中也的なとでも言うべき放浪へのあこがれがあって、映画の道からそれてしまった。(素庵は1972年に創刊された情報誌「ピア」の招待作家【自称である。作品発表の時は連絡をくれという葉書きが「ピア」から来ただけである】であったのに!スピルバーグになりそこねた!)立ちん坊・手配師・桜正宗の配送員・重量鳶・夜泣きラーメン・沖仲士。その挙げ句の果てに、疲れ切って、オヤジのスーパーを手伝うと言うところに落ちついてしまった。オヤジの店に可愛い女店員がいた、それが、素庵の山の神となった。映画、サヨナラである。
今、森田監督のリリシズムあふれた8ミリ作品を思い出す。監督になってから、名作もあるが、まだまだ本来の、自由さが現れていないと思っていた。そんな時にこの訃報を聞いた。素庵、誠に残念である。素庵が作家になった暁には昔話をしようと思っていたのに・・・。